舞台席から観客を見る。

 目一杯の賓客達、当局の操り人形たちがそこに居た。

 荒れた海原のようだった。

 小夜子は唾を呑み込んで、端末をバラの裏側にあるポケットに差し込んだ。


 耳のイヤホンに繋がるケーブルは、半透明の特殊仕様。

 耳元には戦況の報告が機械音声で流れてくる仕組みだ。それに加えて、今回の『曲目』についても自動で案内される。

 やることは、それに従って鍵盤を叩くという、高難度だがシンプル極まりない仕事だ。



 灰色の空気を引き裂きながら、黒い二対の翼を広げた翔機が編隊を組んでいる。

 今度の数は二十。

 互いに作り上げたVの字がふたつ、崩れないように間隔を保ちながら、後方に白い線をたなびかせて飛行する。


 その胎内ユーテロで、マスク越しに彼らは笑う。

 互いの声は聞こえず、耳に入り込んでくるのは頭の後方から流れ込んでくる情報とこれからの音楽だけ。

 何度も聞いたフレーズのなかで、彼らは自分たちがひとりではないことを確認する、そして連帯感を育てていく。

 ある者は微笑み、ある者は散っていった自分たちの欠片を思い、決意を顕にする。


 そんな中にあって、ただひとりレイだけは違った。

 胎内の内側――機体の方向から見た景色を映し出す丸いモニター壁には、あの押し花の栞が貼り付けてあった。

 あれから考え続けても、それを捨てるという結論には至らなかった。

 彼は前方に意識を集中させながらも、それをちらりと横目で見て、物憂げに顔をうつむけるのだった。


 接敵地点へ。

 今度は海の上ではなかった。

 街を越えて、いくつかの山を越えると見えてくるものがあった。


 それは無人に違いなかったが、自然の地肌がむき出しになっているわけでもなかった。

 さびたクロームメッキの色合いが複雑な凸凹を作り出し、それが全面に広がっている空間。

 街を過ぎ去ったあとに来るその場所は途方もなく広大に感じられる。


 通称、グラウンド・ゼロ。

 見ると、焼け焦げた大地の上にひび割れたアスファルトが敷き詰められ、その上に折れ曲がった廃墟の群れが屹立しているのがわかる。

 かつての人々の営みの残滓。

 電線や道路標識、車などの残骸が至るところに広がっていて、奇妙な鉄の森のようになっていた。

 皇国が皇国になる前に激しい戦闘が起きて、そして、誰も居なくなった場所――。



「『奴ら』はなぜあんなところにまで来るのです。前回よりもさらにこちらがわ、国土が目の前に迫っているような場所ですよ。協定違反ではないのですか」


 霧崎は苛立たしげな声で端末の向こう側に話しかける。

 かえってくるのはつれない返事。


 曰く。

 最近、世論のこちら側への不満が高まっているので、釣り合いをとるために。

 彼にとっては不愉快きわまりない話だった。


「大勢……死んでるんです」


 向こうは、少し黙ってから答えた――「こちらもおなじだ」。



 かつん、かつん。

 ポイントは、頭上から糸で引っ張られているように歩くこと。

 そうすることで背筋が伸びて、頭から爪先までが美しいエス字をえがく。

 袖からいかめしいオートコフィンまでのスポットライトを、綱渡りのようにして歩いていく。

 観客席から、既に感嘆のため息が漏れている。

 服の奥の肌が透視されているようなむず痒い感覚。

 一刻も早く逃げ出したいという気持ちは、端末に接続していなければあらわになっていただろう。


 そうして、両足を揃えて、ほんの少しだけ腰を浮かせながら、オートコフィンの前に座る。

 いつ見てもそれは、かつてのグランドピアノという楽器の上に、大量のゴテゴテとした装飾を施した城塞だった。

 鍵盤の後ろから、いくつもの巨大な錆色の管が天に向かって伸び、複雑に絡み合いながら、兵士たちに遠隔で届く仕組みになっている。


 その時……また、指先が震える。

 先生は舞台袖で見ている。

 味方は大勢いる。それでも。


 ……声が、聞こえる。観客席からでも、左右からでもない。自分の内側から。


 ――「はじめは音楽があった」。


 ええ、知ってる。そして、今からのこれが、そうと呼ばないことも。


 ――「嘘つき」。


 ええ、知ってる。

 私は美しいプラスチック製の旋律を奏でて、その裏側で人が死ぬ手伝いをする。

 その立場に甘えて、そのままで居続けようと画策している。


 ――「かわいそうに。その指で、もっと多くのことができるだろうに」。


 ええ。そうかもね。

 でも、私にはこれしかない。

 これ以外に、何かをやる勇気なんて、ありはしない。

 そうなれば、自分は、自分ではなくなる。


 彼女は声を振り払って、あまつさえ嘲笑しようとした。

 しかし、どうあっても細かな震えはとまらず、口の端は強張ったままだった。

 理由は分かっている……忘れられそうになかった。

 あの時、こちらに向いたあの笑顔。

 傷だらけのはずなのに、それがなんでもないかのように、こちらに向いたあの笑顔。


 ……レイ。頭からしめだそうとしても、腕の中で感じた細い身体の僅かなぬくもりと、夜の明かりに照らされた泣き顔と……別れる直前のあの笑顔が出ていかない。

 かさぶたのように。


「……嫌だ。置いてかないでよ、レイ」


 廃墟の群れの上を、彼らが飛んでいく。

 誰にも観測されない飛行機雲を引き連れて。

 接敵まであと一分もない。

 分かっている。そこにレイがいる。

 声は、音楽を通してしか、届かない。


 鋼鉄の怪物たちが、彼らの命を奪いにやってくる。

 じりじり、じりじり。彼らの視界が、灰色の向こう側を見る。

 それ以外にやることを知らない者達。


 そうして今、彼らのために、小夜子は震える指を、鍵盤に押し付ける――。



 音楽が始まる。

 彼らは空を駆けていく。

 接敵まで僅か。その前に、気持ちをもり立てよう。


 肝心なのはインパクトのあるつかみ。

 前回はアルペジオではじまった。


 今回は違う。完全なるオーケストラで始めよう。

 小夜子は指先をなめらかに動かす。

 鍵盤から音が伝わって、オートコフィンの内側に働きかける。


 そうして、最初の数音が、完全な状態で放出される。

 それはかつて数多くの名前がついた弦楽器、金管楽器、打楽器による交響曲。


 音が、空気をビリビリと打ち破って、観客席に届いた。

 奏でられ始めるのは――この『音楽』の、メインテーマとなる部分。


「今回は、これか」

「わたし、好きよ。前回のやつより」


 いくつかあるパターンのうちひとつ。

 鍵盤が、数多の他の音色を引き連れながら、勇壮なメロディを奏で始める。

 そこには、戦地に赴く若者たちの勇気を鼓舞する、そんな情景が浮かぶ。


 それは誰もが口ずさめる、シンプルで高揚感を伴うものでなければならない。

 かつてであれば、そこに言葉を乗せることも可能であっただろう、強烈で耳に残る部分。


 それこそがメインテーマ。

 何度も繰り返される、この『音楽』を象徴する部分。

 短調でなく長調を。音階は全音階。


 全ての音色はメロディに従属する。

 それが音楽。誰もが、そうだと信じて疑わない。


 聞こえてくる音楽に、『彼ら』の戦意は更に研ぎ澄まされる。

 大丈夫だ、俺たちには女神がついている。

 互いに左右を見た。

 そこには同じように、二対の黒い羽根を持った同胞たちが居る。


 悲鳴のような高音をなびかせて、彼らは寒空を切り裂きながら、廃墟の上を進んでいく。

 メインテーマが響き続けている。

 戦え、勝て。

 皇国万歳、皇国万歳。

 接敵まで、あと数秒。


 ……彼らの視界が、薄い雲の切れ間、さらにその向こう側から近づいてくるものをとらえ、赤くマーキングし始める。

 数は十、二十……こちらと同じぐらい。

 まもなく戦闘が始まる。

 三、二、一――……。


 アラートが鳴った後、一瞬だった。

 突如として、彼らのうち一機に筋のような炎が迸ったかと思うと、それは墜落し、爆発した。


 小さな火球になって廃墟に埋もれた同胞を見下ろして、再び前を向く。

 一人減った。

 まだ奴らは見えない。

 事故ではない。

 では、どうやって……。


「……狙撃」


 レイは胎内で小さく呟いた。この距離で可能なのはそれしかない。


 それはフードを被った下肢のない小人のような姿をしていた。

 装甲が積層されて作り出されたシルエット。

 はるか前方に展開する翼竜たちとはまるで違う。


 フードの奥に、ぎらりと瞳のようなものが光っている。

 そこから、ぶすぶすと、一筋の煙が立ち上っていた。


 ――魔道士プリースト。そう呼ばれる、『敵』。




 まもなく彼らは混沌の中に入り込むだろう。

 だがしかし今、椅子の上に座り、無機質な声を通して、一機が撃墜され、『一体』が失われたことを知った小夜子は、その戦況に別の名がつくことを知っている。


 彼らは知らない――それを、『プランB』と呼ぶことを。

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