第一楽章

 薄暗い空の下。枯れ草のように見える一面の麦畑。

 その終わり際の一角に、軍の基地がある。


 一人の少女が背の高いフェンスにもたれて、砂利だらけのアスファルトを眺めている。

 シンと冷える、冬の大気。鳥の声すら聞こえない。

 刺すような痛みを感じ、マフラーを鼻の上まで引き上げる。

 隙間から、息を吐く。

 しろいもやが空にのぼっていくのを眺め、両手で魔法瓶を握る。

 かじかんだ白い指。ぎりぎりまで伸びた袖。

 そして長い睫毛と、俯く視線。


 制服姿の彼女は、誰かを待っているようだった。

 しかしその佇まいに浮ついた調子は見られない。

 滲むのは、諦観のようなもの。

 フェンスに半ば同化するかのように、暗く、沈黙してそこに居る。

 彼女は、もう一度息を吐いた。


 しばらく後。

 フェンスの向こう側から冷たい風が吹いてきて、少女の身体を煽った。

 急激な冷気に身を縮ませて、マフラーが飛んでしまわないように指先で抑えつける。

 振り返って上を見ると――灰色の雲の裂け目から、輝く何かが落ちてくる。


 更に風が強くなって、少女は目を瞑る。

 砂利道の向こうに広がる麦の穂の群れがしなを作って倒れ込む。

 一瞬の豪風。

 スカートがめくれあがり、髪が千千に乱れる。

 吹き飛ばないように固く目を閉じたまま、うずくまる。


 それから数秒後。

 風は急激にしぼんで、完全に沈静化する。

 麦畑は元に戻り、髪やマフラーが彼女の身体にしなだれかかる。

 再び寒い空気だけが漂って、沈黙がいっぱいに広がる。

 ――輝く何かは、フェンスの向こう側に吸い込まれ、姿を消した。


 そこから、けっこうな長い時間、少女は俯いていた。誰かを待っている。


 フェンス横で、何かが開く音がした。

 顔を上げて、そちらにやや身体を向けた。

 ひとりのシルエットが歩いてくる。

 ポケットに手を突っ込んだ、モッズコート姿の青年。


「よう、小夜子」


 彼は手を挙げて、少女に声をかけた。

 背中を離す。フェンスがたわむ音。青年に歩いて行く。

 向かい合う。

 青年の姿を見て、少女――小夜子が口を開いた。

 また、白い息が大気を舞った。


「今日は、いちだんと酷かった」


 薄い肌と、空模様とおなじ髪色をした、痩せっぽちの青年。

 彼は、その顔に困ったような笑みを作って、後ろ髪をかいた。

 言葉には理由がある――彼の顔と、それから手に、無数の傷がついていたからだ。

 笑みには、どこか疲労感。

 青年はそれをごく当たり前のように自然と受け入れていたようだった。

 少女と出会うことも、何を言われるか、ということも。


「まぁ。こんなもんだろ」

「そう」

「これから、もっとひどくなるかも」

「……そうかもね」


 青年は肩をすくめて、小さく喉を鳴らして笑った。子猫のあくびのよう。

 小夜子は笑い返すこともなく背を向けて、少し離れた所に置いてある自転車を取ってきた。


 サドルに座って、待つ。青年が、後ろに乗る。


「……おかえり、『レイ』」


 小夜子が、静かに言う。

 平坦な口調だが、僅かに語尾が震えていた。

 青年は一瞬口を開けて、別の何かを言おうとした。だがやめて、呟いた。


「ただいま」


 ……ヘッドライトがついて、小夜子は足を蹴り出した。

 タイヤのまわる音。砂利を跳ねていく音。

 青年を載せて、暗い道を行く。

 少女は何も言わなかったし、青年も何も言わなかった。

 自転車が、進む。

 ライトの明かりで、前方に光の列が出来上がる。

 少女の後ろに、華奢な青年の身体。そこに宿る確かな熱――。



 一年前、小夜子は彼と出会った。

 名前は『レイ』。

 あのスキンヘッド達とは違う、特殊な試験体だから、『レイ』。

 多少勝手が違うだけで、彼も使い捨ての兵器には違いなかった。


 ではどうして彼は、こうも彼らと違っているのか。

 同じ兵器なら、住む場所は基地地下に備わった宿舎でよいのに。


 青年を載せた自転車はいま、暗い道を通って角を曲がり、街の中に入り込んでいった。

 遠くに、上級市民たちが働き過ごす摩天楼の卒塔婆がゆらめく。

 街はそのふもとにあり、基地の手前までべったりと横たわるように広がっている。


 低階層の集合住宅。工場。商店。農地。

 排気を立ち上らせるパイプの群れ。合間を縫うように流れるどぶ川。


 進んでいくと、そこに人々は居る。

 僅かな店先の灯り、街灯。

 粗末な布を着て裸足で走り回る子どもたち。

 それに怒鳴り声を上げる男。

 疲れ切った顔で単車に乗り、仕事場へ向かっていく作業着の群れ。

 電信柱にくくりつけられたスピーカー。

 『今日の戦果』を声高に叫び、勝利のための倹約と資材の供出をうながしている。


 絶え間ない生産と開発のための機械音が、工場地帯の森からわずかに流れてくる以外は静かなものだった。

 少女は自転車をこいで、いくつかの角を更にまがって、そこにたどり着く。

 ちいさな木造のアパートが見える。ベージュのくすんだ灯りが目印だ。



 入り口付近に、一台のセダンが駐車されているのを見て、小夜子は露骨に顔をしかめた。


「やぁ、おかえりなさい」


 一人の男が近づいてきて、言った。

 白いスーツに黒髪のポニーテイル。

 貼り付いたような笑顔の男。

 明るい声音でありながら、どこか無機質な調子を帯びている。

 小夜子は無視して、レイは中指を彼にくれてやった。


 その男は監視役だった。

 レイと、その『父親』である『ドクター』と、それから、小夜子の。

 これこそが、二人がこんな場所に住む理由。

 小夜子も第二種職務を帯びている身なのだから、あの摩天楼の中に居を構えていても良いはずだ。

 なのにそうではない。

 あのスキンヘッド達に、上司に中指を立てるなんて反抗的な真似は出来ないし、まして、音楽の一部を自分なりに解釈して隊列を離れ、独断で敵に挑むなんて無謀も出来るはずがない。


 現行の『彼ら』とは真逆の設計思想。

 自立して考え、動き、翔機バードを操る存在。


 そして、そんなムチャを譜面上許しているのが小夜子。

 大衆の望む勝利に導くことが出来るのであれば規律違反にはならない。

 だから許されている。

 しかし、限度がある。その領分を確かめ、彼の『思考』と『自律』が、楽曲をはみ出さないように管理する必要がある。

 そのための独立した場所が必要だった。

 それなりに『市民』として扱う必要があった。

 だからこその、この場所であり、本来の功績に見合わぬ環境を、甘んじて受け入れている。


 そんな、首輪をつけられた二人がアパートの二階に上っていっても、その男は意に介さずに車のそばに居た。

 しばらく経って彼女たちが何も問題を起こさなければ、ようやく帰るのだ。



 部屋の郵便受けに、封筒が挟まっていた。

 取り出すと、送り主は小夜子の母と、妹だった。

 だいたい内容は分かる。その場で乱雑に開封して、中の手紙を読んだ。

 ため息。かわり映えしない。


 ――お母さんは国のためによく働いて頑張っています。そちらはどうですか。貴女の活躍を聞くたびに誇らしい気持ちで胸がいっぱいになります。貴女は希望です。勝利の暁にはきっと、好きだったかぼちゃのスープをたっぷり作ります。


 ――美佳は学校で、お姉ちゃんみたいになれるようにべんきょうしています。オートをひいている時のお姉ちゃんはほんとうにきれいです。きっと楽しくて嬉しいんだろうな。それとねこを飼いました。今度会うときは、名前をつけてあげてね。


「どうだった」


 横からレイが口を出してきた。


「変わらない。夢があっていいな、と思う」

「そうか」


 それ以上は言わなかった。彼が前に立って、鍵を使ってドアを開けてくれた。


 部屋の窓から、空が見える。

 調度品のたぐいはろくにないから、まっすぐ見通せる。

 しかしその灰色は、結局何も変わらず、ちっとも明るくならない。


 どこまでも簡素な部屋。

 レイは畳張りの上に寝転がり、小夜子が荷物を下ろす。

 その間も会話はなかった。

 する必要もない。沈黙の中で、何かが通じ合っている。


 小夜子は部屋の一角で着替える。

 レイは黙って背中を向けて外を見る。ごく手慣れた動作。

 外には灰色の闇。流星の一つさえ、見えやしない。


 何も変わらない。

 レイが出撃して、小夜子がオートコフィンを演奏する。

 そして迎える。一緒に帰ってくる。

 僅かな夕食を一緒にとって、公共施設にシャワーを浴びに行って、それから床につく。

 ここに住み始めてから、循環するように繰り返してきた。


「そういえばさ」


 その循環のなか、沈黙を破ったのはレイだった。

 小夜子は着替えを終えていたが、返事はない。

 彼は他人事のような口調で、言葉を継いだ。


「なんでお前、俺と一緒に居るんだっけ」


 部屋の隅には本棚。

 教科書や任務のための教本が殆ど。

 小夜子はその前に居て、言葉を受け止めた。


「あなたに、返す。その質問」

「俺が聞いてるんだけどな」


 いささか不満げに、レイは口をとがらせた。

 小夜子はため息をこぼしてから、仕方なく答えることにする。


「私、音楽が好きだった」


 棚の一番上に積もっている埃を払う。

 その動作は鍵盤に触れる時と似ていた。


「この国が、こうなる前の。おぼろげだけど、ちょっとだけ覚えてる。でも、それも……一度目の第二種職務の時に終わった。あのおじいさんを撃った時に、終わった。その後は」


 指先が僅かに震える。

 そのまま、本棚に手を持ってきて、一冊を取り出す。

 それは教科書でも、教本でもなかった。埃を被っていた。

 表紙には、この国から忘れられた『音楽記号』が描かれていた。

 彼女はページをめくろうとしたが、その勇気がなくて、やめた。


「私という奏者は、私である理由がなくなった。私がいなくても、すぐ代わりが補充される。アドリブも楽曲のなかにパターンとして組み込まれてるから、だから同じ」


 本を棚に戻し、後ろを振り返って言ってやった。


「そう。おんなじなの。私と、あなた」


 無理矢理笑ったような、喉に引っかかった声が響いた。

 小夜子は棚から離れて、レイの反対側に座り込んだ。

 ちょうど、背中合わせになる。

 互いの体温が、冷たい空気の流れ込んでくる中で混ざり合う。


「どのへんが?」

「表情。全部を諦めたような笑い方が、私と似てる。上も、そう思ったんでしょ。だから、一緒に住まわせてる……ぜんぶ一緒の、消耗品なかま」


 そこで言葉が区切られる。ためらいがちに、また吐き出される。


「おんなじだから。見捨ててなんて、おけない」


 小夜子は背中側から手を伸ばして、床に放り出されたままのレイの手に重ねた。

 二人の皮膚の色が、僅かな光の中で透けている。


「ははは」


 レイは笑った。外で見せた時と、全く同じ笑い方だった。


 小夜子は唇を噛んだ。目に、不意な涙が滲んだ。

 それから耳をふさぐ代わりに、背中から離れてレイの正面に。


 そのまま、彼の服に手をかけた。


「おい、何してんだ――」


 彼女は答えない。モッズコートを脱がせて、見えたシャツを無理矢理開かせる。

 すると、見えた。


 小夜子よりもずっと白い肌に、おびただしい傷。

 裂けて、焼かれて、膿んで。

 ありとあらゆる傷口が、彼の皮膚の上で悲鳴を上げていた。

 それは服という鎧で無理矢理に封印されているかのようだった。

 いつの間にやらレイは地面に寝かされて、小夜子が馬乗りする形になっていた。


「おいおい」


 レイは軽い調子で言ったが、笑顔ではなかった。

 目の前に、涙を溜めた少女の顔がある。


「……あー」


 諦めたかのように、両手を左右に投げ出す。

 顔を反らせて、見ないようにする。涙は、更に溢れかえった。


 小さな手が、レイの服の端をギュッと握った。

 水浸しの視線は、肌の傷に注がれる。焼け付くほどに、注がれる。

 小夜子が、声を絞り出した。


「さっきのは」


 レイの視線は宙を泳いで、どこにも着地することはない。


「さっきのは、怒るとこでしょ、馬鹿」


 それから、レイの腹に顔をうずめる。

 震える少女の背中が見える。

 レイは放り出していた手を空中に持ってきて、どうすべきか思案した。


 昨日。その手は剥き出しの殺意となり、敵の血で染まっていた。

 しかし、結局……。


 レイは舌打ちをして、小夜子の背中を撫でた。


「そうだな。きっとそうだ」


 泣き止むまで、優しく優しく、撫で続けた。

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