エントロピー

hiyu

エントロピー


 例えば、熱いコーヒーが注がれたカップ。

 猫舌の俺にはそれをすぐに飲むことができない。

 だから、しばらくその場に放置する。

 1分、2分、3分。

 さっきまで上がっていた湯気が薄くなり、ゆっくりと口をつけるとそれが俺の舌を焼くことなく口内に広がり、容易く飲み込めるようになっている。

 あんなに熱かったコーヒーの熱を下げたのは、そのコーヒーよりも低い温度の外気である。

 二つの温度は干渉し合い、歩み寄る。

 どちらか一方に同化し始めたそれは、いつか全く同じ温度になり、その差をなくす。

 俺はカップを置いて、正面でグラスの氷をストローでからからとかき混ぜている友人を見た。目が合うと、友人は慌てて視線を外し、今までよりも乱暴にストローを回した。

 猫舌の俺が平気で飲めるくらいにぬるくなったコーヒー。

 何分経ってしまったのか分からない。友人がかき混ぜるグラスの氷も、この席に着いたときから比べれば、ずっと小さくなっていた。溶けた氷で薄まってしまったアイスラテは、はたしておいしいのだろうか?

 スワークルってうまいのか?

 レジの前で先にごくごく普通に本日のコーヒーなんてものを注文した俺に、友人は訊ねた。季節はもう秋の終わり、肌寒くらいである。

 冬でもコールドドリンクを好むこの友人ならば平気かもしれないが、見ているこっちが寒気を覚えるので、それはやめてくれ、と頼んだ。友人は首をひねりながらそうか、とうなずいで、無難にアイスカフェラテを注文した。

 あいたテーブルを見つけてそこに向き合って座り、俺はカップに手をつけずそれが冷めるのを待つことにし、友人がストローをグラスに差し込む。そして、俺は言った。

 お前が好きだ、と。

 そして、それからずっと、友人がグラスの中身をかき混ぜている。

 ようやく飲めるようになったコーヒーを俺が一口、二口、と飲んでいるのに、友人のグラスの中身はちっとも減らない。それどころか氷が溶けて、固体だったときには揺れなったものが、今は水に変わりグラスに立つ波は高くなり、今にもこぼれそうだ。せめてかき混ぜるのをやめるか、やめられないのならその勢いを抑えた方がいい。

「おい」

 俺が声をかけると、友人はびくりと目に見えて動揺したようにその身体を揺らした。

「ちょっと、その手を──」

 止めろ、と言おうとした。思わず手を伸ばすと、友人が、俺の言葉よりも先にそれに反応し、持っていたグラスを勢いよく倒した。重みのあるグラスはテーブルに倒れ、友人に向かって中身が広がる。離した手からグラスが転がり、床に落ちた。

 グラスは、割れなかった。ただしまだ一口も口をつけていないアイスラテは友人の腹の辺りから太腿を濡らし、床にも被害を広げていた。

「うわ」

 友人は立ち上がり、着ていた服をつかんだ。

「大丈夫ですか?」

 店員が飛んできた。友人は慌ててこくこくと何度もうなずいた。俺はダスターを渡してくれた店員に礼を言って、立ち尽くしたままの友人を、とりあえず空いていた別の席に座らせてやった。

 店員はバケツと雑巾を持ってきて、手早くテーブルや、椅子や、床を片付けた。俺はショックを受けているかのように呆然とした友人のはいているジーンズの太腿をきれいなダスターで拭いてやったが、濡れたシャツは大きくしみを作っていた。店に設置された小さな手洗い用の水道に、俺は友人を連れて行った。友人は俺を見上げてから水道を見、うつむいて自分のシャツを着たまま水でゆすいだ。

 俺は荷物とカップを別のテーブルに移動させ、戻ってきた友人に目の前の椅子を勧めた。

「平気か?」

 友人はこくんとうなずいたが、顔は真っ赤になっている。濡れたシャツは、多分そのうち乾いて目立たなくなるだろう。

「ごめん……」

 うつむいたまま、友人がつぶやく。

「何が?」

「恥ずかしい、だろ」

「別に」

 店員の仕事は速かった。ほんの数分でもう店内は元の状態に戻っている。さっきまで俺たちが座っていたテーブル席も、何事もなかったかのように元通りだ。

「ホットじゃなくて良かったとは思ったけどな」

 俺の言葉に友人がそっと顔を上げた。

「ホットだったら、大やけどしてる」

「ホットだったとしても──とっくに冷めてるから、やけどなんてしない」

 どれだけだんまりのまま時間が経っていたのか、ちゃんと意識はしていたらしい。

 確かに、俺が平気で飲めるこのコーヒーなら、やけどなんてしそうにない。

「お客様」

 背後から声をかけられて、俺は振り向く。

「よろしかったらこちらをどうぞ」

 にっこりと笑顔の店員が、手にトレイを持っていた。そこにはテイクアウト用のプラスチックのカップに入ったアイスラテと、同じようにテイクアウト用のコーヒーカップが乗せられている。

 俺のカップにはまだ半分ほどコーヒーが残っていた。

 店員はトレイをテーブルに置いた。

「金、払います」

 俺が言うと、店員は再び笑顔になった。

「いえ。──ごゆっくり」

 ぺこりと頭を下げて、店員は去っていく。

 俺は、またうつむいてしまっている友人の前に、アイスラテを置いた。

「せっかくだから、もらおう」

「──俺、早く、出たい」

「せっかく新しいの入れてくれたのに?」

「だって、こんなの──恥さらしてるだけじゃないか。お前だって──」

「俺?」

 俺は、新しい方ではなく、冷めてしまった陶器のカップのコーヒーを飲んだ。今受け取ったコーヒーは、とてもじゃないが熱くて飲めそうにない。しかもこのテイクアウト用のカップは、ご丁寧にふたつきである。冷めるまでに時間がかかりそうだ。

「グラスひっくり返したやつの連れだって、笑われる」

「そんなこと──」

 別に気にならないのに。

 そういおうと思ったけれど、やめた。うつむいた友人の顔だけじゃなく、短い髪の毛では隠せない耳までが真っ赤になっていた。

 元はといえば、俺が告白をしたから。そして、不用意に手を伸ばしたから。なのに、友人はそれを責めもしない。単に気付いていないだけなのか、それとも、責める余裕もないのか。

「でも、まだ返事を聞いてないし」

「返事って」

 赤くなった顔を上げる。眉間にしわが寄り、どこか泣きそうな顔をしている。

「さっきの告白の返事」

「そ、それは──」

「それに、服ももう少し乾いてから出た方がいい。まだ目立つ」

 友人は濡れたシャツをぎゅっときつく握り締めた。湿った状態でそんなことをしたら、しわしわになってしまう。

「こんなの、そのうち乾くしっ。これ、テイクアウトできるんだから、早く──」

「返事」

 俺はカップのコーヒーを飲み干した。

「…………」

 友人は唇を噛み締め、シャツを握り締めたままだ。

 俺はカップをテーブルの端に寄せ、新しくもらったコーヒーの蓋を開けた。ふわりと湯気が立つ。熱い。とても飲めそうにない。

 多分、このコーヒーも、しばらくしたら俺にも飲み頃の温度に変わる。それが何分後かは分からないけれど。

 アイスラテに手をつけようとしない友人が、黙ってうつむいたままでいる。

 グラスをひっくり返したときにいた客は、半分以上、もう席を立っていた。コーヒーショップの客は入れ替わりが激しい。中にはのんびりと本を読んでいたり、話し込んでいる客もいるが、大抵は数分もすれば席を立つ。

 だから、このコーヒーが完全に冷める頃には、さっきの友人の失態を目撃した客はほとんど姿を消すはずだった。

「好きだ」

 俺は、周りには聞こえないくらいの声で、言った。友人が目線を上げて俺を見た。

「好きなんだ」

 友人はまだ少し泣きそうな、困ったような、そんな顔をして俺を見ている。

「好きだ」

 俺はささやくように、何度も告げる。

 熱いコーヒーは、店内の空気に影響され、その温度を下げていく。

 さっき、友人が作った短い喧騒も、いつの間にか掻き消え、BGMと別のテーブルでの客の話し声へと変わる。

「好きだ」

 何度も、その言葉を繰り返す。

 友人は赤面したまま、けれど俺から目をそらせないでいる。目の前のカップの氷は、ストローでかき混ぜているわけでもないのに、少しずつ溶け出していた。

 このままずっと手をつけられないままのこのコーヒーの温度が店内の温度と変わらなくなっていくように、俺が好きだと言い続けたら、友人の気持ちも俺に干渉し、影響され、俺の気持ちに近付きはしないだろうか。

「好きだ」

 カップの湯気は、さっきよりも薄くなっていた。琥珀色の表面に、ゆらりと白い湯気が浮き上がり、消えていく。友人の前に置かれた透明なカップの表面には、うっすらと水滴が浮かんでいた。

「好きだ」

 あとどのくらいで、俺はこのコーヒーを平気で口にすることができるだろう。

 せめてそれまでは。

「お前が好きだ」

 俺のその言葉に、友人が、突如、目の前のカップを持ち上げ、勢いよく中身を飲み始めた。ごくり、ごくり。

 中身が減っていく。

 一度もストローから口を離さず、一気に飲み会えると、友人はカップをテーブルに戻した。

 しゃ、と中の氷が音を立てた。カップは、空になったのに、さっきまでアイスラテの入っていた高さまで、その身体を曇らせ、水滴を浮かせていた。友人の手に触れた水滴は、カップをすべり、テーブルにしみを作っていた。

「そんなに──」

 友人はテーブルに肘をついた両手で頭を抱え込む。

「何度も、言うな」

 顔は見えなかったが、隠し切れない耳は、さっきよりもずっと真っ赤になっていた。

 俺は身を乗り出すようにして、友人に近付いた。そして、その耳元で、もう一度、言った。

「好きだよ」

 ぴくりと肩を震わせた友人が、ゆっくりと両手を外して、俺を見た。

「好きだ」

 ほんの数センチ先で、俺は言った。

 友人は真っ赤な顔で、俺を泣きそうな顔のままでにらみつけ、

「ああ、くそっ」

 まるで吐き捨てるようにそう言ってから、肘をついたままの両手で、俺の顔をつかんだ。

「俺も好きだ、畜生」

 その声は、充分近くにいるはずの俺だけでなく、店内にいる客や店員にまで聞こえるくらいに大きく響いた。

「────」

 俺が口を開こうとした瞬間、友人の顔が急に近付き、俺の唇を奪う。ほんのわずかの時間だけ重なっていたそれが離れたとき、俺は呆然として目の前の友人を見ていた

 店内はしんとなり、低く流れるBGMがやけに大きく聞こえた。

「これでお前も恥ずかしいだろ」

 友人がにやりと笑い、俺の顔を離した。

 客や店員の視線が俺たち二人に向けられていた。

「ざまあみろ」

 そう言った友人の顔はまだ真っ赤だったけれど、してやったり、という表情を隠そうとはしていなかった。

 なるほど。

 俺は目の前のカップを見た。もう、湯気はほとんど目に見えなかった。

 温度が、好きだという気持ちが、そして恥ずかしさが。

 全てが干渉し、影響し、同化する。

 店内はゆっくりと、元に戻りつつあった。

 俺は目の前のカップを持ち上げ、ぬるくなったコーヒーを一息に飲み干した。


 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エントロピー hiyu @bittersweet

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ