目覚め(期間限定イベント)
レイの声が聞こえた。
それなのに、どうにもこうにも瞼が、そして何よりも体が重くて仕方ない。
指の一本を動かすことすらできず、私は泥のような眠りの底に沈んでいった。
時折、意識が浮上していると自分でもわかっていた。
しかしどうしてもこの強い眠気に抗えない。意識のどこかで『これではいけない』と考えてはいるのだが、その先の思考にたどり着く前に意識の形は崩れ、淡く溶けてしまう。
甘い香り、温かな体温、いとしくてたまらない、優しい声を意識が浮上する都度感じてはいたものの、全てはあいまいで、どうにもはっきりとしない。
思慕や焦りのようなものがぼんやりと心に浮かぶこともあった。
眠りの底に沈んだまま、感覚を得ている筈でも全ては闇に溶け、何も認識できない。そのまま、また私は意識を手放してしまったのだろう。
落としたグラスが割れる時の唐突さで、
突風に紙切れが吹き飛ばされる時のあざやかさで、
ふいに、私の意識は浮上した。
全身を包んでいた布団を勢いよく剥ぎ取られたように、眠気が剥ぎ取られた。
体にはもうだるさがなく、行動には何の支障もない。
起きてみれば、そこは長年過ごした自宅の寝室だった。
記憶に残っている景色と違う箇所をあげるとすれば、隣に妻が寝ていないことくらいだろうか。彼女は私と一緒に寝て、起きることが多いのだ。
レイは、どこだろう。
疲れのようなものがないせいで、妙に体が軽い。今なら書類仕事であろうが実験研究であろうが非常に捗りそうだ。
家の中は静かだ。
寝室を出て、階段を下りる。
階下の様子も、私が覚えている昨日と何も変わりがないようだった。
家の中は耳が痛くなるほど、静かだ。時間が止まっているかのような錯覚さえ覚えてしまう。壁の時計は音が立たない仕様の物を使っているが、見れば秒針はしっかりと動いている。
唯一、分かりやすく私にわかる異常と言えば、テーブルの上にある、見たことのない契約書のようなものだろうか。きちんと揃えてはあるものの、無造作にそれは置いてあった。
どうやら、妻は大量の人員をなにかのために雇ったらしいが、書類は不備だらけだ。
よく、こんな書類にサインをした者たちがいたものだ、どんな状況でこれを作成したのだろうと苦笑いを浮かべてしまう。
レイはここにいないのだろうか。
家を出て、湖の方に行ってみる。
妻はあの湖を眺めていることが好きで、水辺にいることが多いのだ。
湖でなければ、林の中だろうか。あの中を散策することも妻は好んでいた。敷地の端まで行かれてしまえば、さすがにここから姿が見えるものでもないが、一応湖のほとりから周囲を見回してみた。
そのころには、どうやら妻はこの敷地内にはいなさそうだ、と感覚でわかってきていた。
そこで、私はなんとなくではあるが、違和感を覚えた。意識の端に引っ掛かりがある。不快ではないが、気になる。まずはそのうちの一か所に向かうことにした。
「この壁は、いったいなんだ……?」
敷地と街道を繋ぐ小道には、何故か茨でできた緑の壁があった。壁のせいで道の先は全く見えない。
なぜ、そうしたのかは自分でもわからない。
けれど、そうしたほうが良い、という確信があったので、私は無防備にも茨でできた壁に触れてみた。
途端、壁はほろほろと崩れ、消えていく。
壁の向こう、小道の遠い先に見える筈の集落がなくなっていた。集落があった場所には、草原や小さな木々の茂みがあるようだった。
何か、不思議なことが起きているらしい。
私は無性に妻の顔が見たくなった。
ふわふわした髪を撫でたい。
小柄な、温かく柔らかな体を抱きしめたい。
……声を聞きたい。
こんなに不安な気持ちになったのはいつ振りだろう。
レイが、もしかして消えてしまうかもしれなかった、あの時以来ではないだろうか。
けれど、細い、細い『つながり』を感じてもいる。
妻は、レイは、今はこの敷地内にいないだけで、アテルの大地のどこかにいる、とはっきりわかるのだ。
集落跡を確認してみた方がよいのはわかっているが、先にもう一か所、敷地内に感じている違和感の方も確かめてしまおう。
家に戻り、私は意識を薄く広げる。
「……地下倉庫か」
地下倉庫へ降りてみると、以前はいろいろなものが詰まっていた品物がだいぶ減っている。
代わりに、見慣れない扉ができていた。
ここから感じるのは魔力、ではない。
そこで私ははっきりと理解した。
レイが以前言っていた、『霊格があがる』とは、私の今のこの状態のことなのだろう。
この扉も、さっきの小道も、霊力を使って外の空間と上手く重ねた入口だと今の私にはなんとなく理解できる。
ここはおそらく、レイの保有する空間の中だ。レイは自分だけの異空間を持っていて、そこに自由に出入りしたり、異空間と通常空間の間を物置にしてみたりと、いろいろ不思議なことをやっていた。
どうにかしてレイは敷地ごと、私たちの家を自分の空間の中に取り込んだに違いない。
そのうえで、さらに、実際の空間にも家を繋げているのだ。
「魔法では無理なことだな」
外の空間に繋がる扉の先に何があるのかわからない。今度は一応警戒しつつ、私は扉に手をかけた。
扉の外は、普通の廊下だった。この廊下にも、私は記憶がある。ここは
廊下を見ただけだが、宰想館の中は以前とまったく変わっていないようだった。
ここも、探索などはあとでよい。私は宰想館を出てみる。
城の敷地は私がしばらく足を運ばないうちにかなり荒れてしまっているようで、まったく手入れが行き届いていない。働いている人員の姿を見るに、今代の王は制服を取り入れているらしい。あちこちに見かける使用人は皆、無能なのか動きがよくない。
城に勤めているのならば、もっと美しく振舞ってほしいものだ。
だが、私はまだ、王に挨拶を受けたわけでもないし、指導を求められてもいない。レイ次第だが、もしかすると今代の国王の政治方針によっては、今の私とは関わらないかもしれない。
なんとなく城の様子を見ながら、気になる方、意識を引かれる方向へと私は足を運んでいった。
「……ておっ!!!!!」
外回廊の角を曲がった時だった。
聞きたい声が、遠くから聞こえた。それだけで私の中にあった不安がかき消えていく。
「……レイ」
胸の奥で、果実がはじけたように何か甘いものが広がっていくのを感じる。
自然と私は早足になってしまったが、レイのほうは私に向かって駆けてきた。カピバラの姿から、私の妻、精霊であり『異世界より渡りし巫女』に相応しい装束をまとう姿に変化し、私との約束通り、素顔を他人に見せないためのヴェールもしっかり被ってくれている。
私はレイが抱きついてくれることを期待したが、レイは私の二歩ほど手前で止まってしまった。
一歩を私が詰めると、レイの手が伸びてきて、私の服を少しだけつまんでくる。
顔をよく見たくなってヴェールをあげてみれば、妻は目に涙をたくさん溜めていた。泣くのを堪えるように、まばたきの回数が増えて、呼吸が乱れている。
よく分からないけれど、かわいいと感じたので、抱きしめておく。
しがみついてくるレイの体からは甘い香りがして、私の心を満たしてくれる。そして、妻は震えていた。
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