ハリエットの『非』日常
通常、モンスターが発生する夜中に移動する者などいない。
お忍び用の車の扉を従者が開いたときに、ハリエットはほんの少しだけ甘く、そしてなんだか気持ちの落ち着く香りを感じた。使用人の配慮だろう。
「ハリエット様、ご安心ください。我々がきちんとお守りいたしますから。もし眠くなってしまっても、大丈夫ですよ」
従者の向こうから、護衛のひとりが微笑みながらそう言ってくれる。
夜中に外出することが初めてだったハリエットは、それでだいぶ体の緊張が抜けた。
きっと出掛けたのが遅い時間だったからだろう。車が動き出してすぐ、ハリエットは眠ってしまっていたようで、気づいたときには朝になっていた。その間になにか、不思議な夢を見たような気がしたが、内容をあまり思い出せない。だから、気にしないことにした。
別な車で一緒に着いてきてくれたロレーナによれば、グエンドリンとはすぐに会えそうにないらしい。
「危険だという夜中に来て差し上げたのに」
モンスターとの戦闘があったかどうか、危険だったのかどうか、寝ていたハリエットは何も知らない。けれど、わざわざ訪ねて来てやったのに、あまり長く待たされたくはない。
ハリエットが寝かされていた部屋の隣室には、暖かなスープと焼きたてらしいパン、それに鮮やかな彩りのサラダと小さなケーキ、という朝食が整えられていた。
スープには可愛らしい飾り切りでできた花びらが舞っている。パンはちょうど一口サイズで、透明感のある、発色の美しいジャムが何種類も添えられていた。サラダには本物の花が乗っているだけでなく、飾り切りの小鳥がちょこんと止まっている構図になっている。
小さなケーキは艶々としたチョコレートでコーティングされているもので、その上から金色のキラキラした粉や、銀色の粒々が落とされている。まるで夜空のように美しいとハリエットは微笑んだ。
「ハリエット様のためにあれこれと調整して、なるべく早くお会いになってくださるとのことですよ」
「そう、それなら仕方ないわね」
可愛らしく整えられた客室、美味しいだけでなく見た目も楽しい朝食に、ハリエットの気分は上向きになった。
何日も待たされるのは不都合だけれど、一日か二日程度であれば、待ってやっても良いかもしれない。……ただし、暇潰しになる何かが必要だけれども。
グエンドリンの屋敷はずいぶんと広い。
好きに出歩いて構わないと言われたので、衣装室から手頃なドレスを借りて着替え、部屋を出た。
図書室、遊戯室、茶会室。
その他にも椅子ばかりが並ぶ部屋に、手芸を楽しむ者たちが談笑しながら手を動かしている部屋。あちらの部屋ではダーツが行われているようだし、違う部屋ではパズルに取り組む男性がいる。
向こうでは、自分と同じくらいの少女がぶ厚い本を読んでいた。
ハリエットは庭にある、バラ園でのお茶会に招待されたことが数回ある。しかし、こうしてグエンドリンの屋敷を訪ねたことは初めてだった。
「ずいぶんと人がたくさんいるのね」
あちらこちらに、来客らしい姿が見える。中には、ハリエットも名前がわかるような者もちらほらいるようだ。
この屋敷は部屋ごとに壁紙や装飾、窓から見える景色や漂う香りまでが違うらしい。
ハリエットの他にも、部屋を見て楽しんでいる者たちもいるようだ。
「グエンドリン様とお話をするための、順番待ちの方々なのでしょう」
ロレーナの言葉にハリエットは目をまたたいた。
「こんなに?これほどの方々がグエンドリン様とお会いになろうとして、待たされているの?」
「ええ、一番長い方で、一週間ほど待たれているのだと聞いていますよ」
ハリエットはとても驚いたのだが、ロレーナはなんともないような顔をしている。
さらりとグエンドリン宅の使用人にお茶の手配を命じていた。ちょうどよい具合に空いていた、庭園の噴水や続く池と、小川のようになっている景色が美しい席を確保してくれる。
近くにはカードゲームをしている者たちがいた。上品に、静かに楽しむ集団らしかった。
あまりじっと見るのは失礼だろうが、席が近すぎるので、景色を視るときにどうしても視界に入るが、きっとその辺りはお互い様だろう。
「グエンドリン様はたまにお茶会を開くだけで、静かに暮らしてらっしゃるのかと思っていたわ」
「おや、あの方に『静かな生活』なんてありえませんよ」
カードゲームをしていた男女の中から、声がかけられる。声をかけてくれたのは、一度か二度、茶会の席で顔を見たことがある男性だった。
まるでおかしなことを思いだし、吹き出すのをこらえるような顔をした女性がうなずいている。
「グエンドリン様にかかれば、なんということはないカードゲームさえ、大変な大騒ぎになってしまいますから」
「そうそう、あのときなど……」
そうしてハリエットは彼らの世間話の輪に加わることになった。そのまま昼食も同席させてもらうことになり、午後にはもう、なんだか昔からの友人と話しているような気安さまで覚えていた。
ほとんど知らない面々だったけれど、彼らは皆、博識なだけでなく親切であり、そのうえ聞き上手だ。おかげでハリエットは退屈などしない一時を過ごすことができたのだった。
どれだけ待たされるのかと心配していたが、その日の夕方、ハリエットはグエンドリンに対面することができた。
「お待たせして悪かったわね」
まるで世界を手のひらの上で転がすことも可能な精霊の女王のように、グエンドリンは尊大に微笑んでいる。
しとやかな動きで座り心地の良さそうな椅子から首をかしげる姿は、例えようもないほど美しかった。
「それで、今日は一体、どんなご用件なのかしら」
豪華なドレスに、見ているものを深淵に引き込んでしまいそうな微笑み。指先まで丁寧に磨きあげられた、極上の貴婦人。妖艶。凄絶。
未だに水華会の筆頭ではあるものの、政治の一線からは退いて久しい筈だ。今、どれだけの貴族が彼女に従うのだろう。
グエンドリンと対面し、ハリエットは獰猛な獣の前に放り出されたような、落ち着かない気持ちになった。
レオリールと同じ髪の色を持つ女性。
ハリエットは三回深呼吸をしてから、背筋を伸ばした。
自分は、僅かにだけれどもヨヌイールチ王族の血を引いている。純粋な旧アテルの血統でしかないグエンドリンなどより、ハリエットのほうが高貴な身分なのだ。少なくともそう言われて育ってきた。
臆することなど何もない。
「レオリール様をわたくしにください」
きっちり、十秒の沈黙が落ちた。
グエンドリンの白い指が、柔らかそうな、熟れた果実のような唇に触れるのを、ハリエットはつい、しっかりと目で追ってしまった。
「それは……うちの息子と結婚したいということかしら?」
「いいえ、違います」
続けなさい、と仕草で促されたのでハリエットは母親仕込みの『完璧な』微笑みを顔に張り付ける。
「ここだけのお話ですけど、わたくし、来年にはフェリクス王子の妃になるのです」
「あら、おめでとう」
大輪の花が綻ぶように微笑まれ、ハリエットは胸が温かくなった。ふわりと香りの高いお茶を一口飲んで、自分はこの迫力ある女性と上手く話せていることに自信を高める。
「実は、近日中にレオリール様の側近が全員処理されてしまうらしいのです。ですからわたくしが、侍従として、レオリール様をいただこうかなと。
そうすればレオリール様のお身を守って差し上げられるでしょう?それで、まずはグエンドリン様にお話させていただこうと考えたのです」
「ハリエットは、本当にレオリールの身だけを案じてくれているのですね」
グエンドリンの優しい声音に、ハリエットはうなずく。
「ええ。もちろんです。本当は、レオリール様と結婚して差し上げたかったのですけど、ままなりませんものね。主従という形でも、レオリール様はわたくしのことを受け入れてくださるかしら?」
グエンドリンは流れるような仕草で扇子を広げ、ほんのわずかな時間だけ顔を隠した。
きっと母として、ハリエットの考えに感じ入ってくれたのだろう。
「それは、レオリールに直接聞いてみたら良いでしょう。……レオリールが了承するようであれば、また来なさい」
「ええ。そうさせていただきます」
パタン、と扇子は閉じられ、素敵な笑顔のグエンドリンが微笑んでいた。
「ところでハリエットのその髪型、素敵ね?」
この屋敷の客が聞き上手なのは、屋敷の主であるグエンドリンがそうだからなのだろうか?
グエンドリンに水を向けられ、気持ちよくあれやこれやと話をして、そのまま夕食もいただいて帰宅した。
何だかずいぶんハリエットばかりが話をしているようで、気が引けた瞬間もあったが、グエンドリンも、いつの間にか夕食に同席していた昼間の客人たちも良い笑顔で話を聞いてくれていたので、きっと失礼ではなかったのだろう。
しっかり夕食までいただいたものの、あまり遅くなる前に城に帰ることが出来たので、よく整備された道を使った帰路、モンスターとの戦闘は行われなかった。
ゴルの城に戻り、グエンドリンと話したことについて考えていたハリエットは、素晴らしいことをまた思いついた。そこで、まずはロレーナを呼びつけ、相談することにした。
「ねぇ、ロレーナ。わたくしが保護する前に、急にレオリール様までも『森送り』のリストに載せられたりとか、チェルノ叔父様ならしそうだとは思わない?」
突拍子なくもないが、チェルノならエグバートを出し抜き、そういうことをやりかねない、とハリエットは考えている。
ハリエットの思いつきにロレーナは目を見開き、黙りこんでしまったし、その時部屋にいた侍従に侍女、護衛たちもハッとしたような顔をした。
早足にひとりの侍従が部屋を出ていく。その可能性があるかどうか、まずはどうにかして確かめるつもりなのだろう。
「だからね、『森送り』が確定しているバティストに、こっそり武器とお金を与えて、もし万が一そんな厄介なことが起きてしまったときに、レオリール様を助けられるように手配できないかしら?」
そうやって恩を売れば、きっとレオリールは感謝して、もしかしたら自分にキスしてくれるかもしれない、とそこまでハリエットは想像してしまい、頬を染めた。
「ヤニックと、アークイワも懐柔できればいいのだけど。ねぇ、誰か、その方向で手配してちょうだい」
「……ハリエット様。その手配、わたしがいたしましょう」
そっと温かく手を握ってくれたロレーナに、ハリエットは心から感謝した。
「わたくしのドレス用の予算を全て使って構わないわ。よろしくね」
「かしこまりました」
『森送り』が行われると、レオリールはあまり部屋から出てこなくなってしまった。
ハリエットはレオリールの部屋に直接様子を見に行ったり、代わりに侍従や護衛を向かわせたりしたのだが、やはり、明らかに落ち込んでいる。
そろそろ侍従の話を持っていってもよいかとハリエットが考え始めた頃、コーマックとデータスが気分転換に、という理由でレオリールを連れて馬での遠乗りに出ていったそうだと、後で聞いた。
その日はちょうど、ハリエットはタレックという新しい教育係からの『挨拶』を受けていた。
「ハリエット様。妃として必要な作法や、フェリクス王子を満足させる技術を私が全て、お教え致しましょう」
するりと手を取られ、ハリエットは驚きの声をあげてしまった。
「え?……え?…………ええっ!?えっ!?そんな事……っ!?」
ハリエットがタレックにさっと抱き抱えられてしまったとき、部屋は『お勉強』の為にしっかり人払いが済んでいて、扉は施錠されていた。
近くにロレーナがいれば、いきなりそこまで過激な教育が始まることは無かったのだろう。しかしその日はたまたま、ロレーナが休みの日だった。
タレックは整った顔立ちに、色っぽい黒髪で、どんな女性でもうっとりとするような魅力を持っていた。そして何より『教え方がとても上手かった』。
なので、翌朝、朝食の為に食堂に向かうまで、ハリエットはレオリールの身に起きたことを全く知らなかったのだ。その日に限り、ロレーナやその他の侍女や侍従、護衛からの報告は朝食の後に行われる予定になっていた。
レオリールが席に居ない。ハリエットがそう気づいたのは、たまたまその食堂に病床のカーティス以外、家族……いや、一族全員が食堂に揃ったときだった。
ばん、と派手な音を立てて食堂の扉が開き、入ってきたのはグエンドリンだ。
「わたくしの息子はどこかしら」
グエンドリンの声は落ち着いていたし、彼女は確かに微笑んでいた。
カツリ、コツリと硬い足音が響く。グエンドリンの背後には数十人からなる集団がついていた。
「昨日、コーマックとデータスがレオリールを連れて門を出た事は確認済みです」
グエンドリンの背後の集団に、見たことのある面々をハリエットは見つけていた。前に会話を楽しんだ、カードゲームをしていた男女がいる。あの男性はダーツをしていた者だったろうか。あの少女は確か、ぶ厚い本を読んでいたあの子だろう。
「ねぇ。わたくしの、息子を、一体、どこにやったのかしら?」
とん、とん、とグエンドリンは扇子でコーマックとデータスの肩を軽く叩いた。あまりに冷たい声に、二人とも顔がみるみる青くなっている。
「プロスペリという事務官のゴミ箱から、面白い書類が回収されています。あと、アークイワという男の自宅からも」
続いて、チェルノとエグバートが顔色を失った。
今朝はここにレオリールが居ないらしい。どうやら何か、チェルノ、コーマック、データス、更に父までもが、何かの失敗をしたらしい。
ハリエットは暖かなオートミールをスプーンで口に運びながら、誰もが顔色を失っている食堂をぼんやりと眺めていた。
「もうあなた方には任せられません。水華会筆頭として、わたしがこれよりアテルの領主です。
まずは、レオリールの捜索を!」
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