ハリエットの日常(2)
側近たちに控室での待機を命じ、ハリエットは今夜も兄であるイブリンと共に『家族の居間』に入った。
外扉に施錠してから、少し先の内扉を開く。
内扉にも施錠すれば、ここはだれにも盗み聞きなどされる心配のない空間だ。ハリエットは建物の構造などはよく知らないけれども、イブリンの話では、この部屋の壁や天井はとても頑丈に作られているらしい。もし万が一のことがあっても、ここに隠れていれば、数日間は安心だと聞いている。
内扉を施錠したとたん、険しい顔をしながらアルコールを口にしていた父のエグバートがはじけるように笑い出した。
「見たか!?お前たち、あのファニーの顔を!それに、あの苦り切ったチェルノの顔もだ!!」
「ああ。コーマックもデータスも、いい顔だった」
イブリンも笑いながら、壁際の棚から瓶を取り、酒をグラスに注いだ。ハリエットはまだ酒を飲むような年齢ではないのでその隣で自分用のお茶の準備だ。
「あのデザート、クリームも皮もかなり工夫されていたわ。あれなら、王子が出席するようなお茶会にも出せたんじゃないかしら?」
「お茶会ならな。けど、この城の、歓迎の晩餐には向かないよ」
イブリンがいつも座るのは、ふかふかとした茶色のソファだ。エグバートは黒い革張りのゆったりとした椅子。ハリエットはいつも通り、華奢な装飾の、繊細なデザインの椅子に腰かけた。
でも、不思議ね、とハリエットは小さな焼き菓子を一つつまんだ。
「あんなに大々的にするなんて。ファニーはシュークリームをよほど珍しいお菓子だとでも思っていたのかしら?」
「チェルノはヨヌイールチの王城に親しい知人がいないらしいからな」
アテルではまだまだ珍しいものの、ヨヌイールチの王都ではさほど珍しいお菓子ではないはずなのだ。
ハリエットの母は、この領主の城は空気が悪いと言って、去年からヨヌイールチの王都に滞在している。それで、手紙のやり取りなどからハリエットはかなり王都の流行に詳しい。
「父さんがあれこれ手をまわして、アテル領に王都の情報が入って来ないようにしてるからじゃないか」
イブリンがからかうように言うと、エグバートはにやりと口の端を持ち上げた。どうやら北の方の街道の整備はかなり滞っているらしい。それとも、検問を厳しくしているのだろうか。
「それはそうと」
エグバートが、懐から大事そうに王家の紋章の入った封筒を、取り出した。
「ハリエット。お前に縁談だ。フェリクス王子から、お前を妃にしたいと正式に申し込みがあったぞ」
「今度フェリクス王子がこっちにいらっしゃるのは、ハリエットを迎えに来るってことか?……父さん、チェルノ叔父さんは王子が来る理由を知ってるの?」
「いや……おそらく、ただの視察だと思っているな。やたらと準備に張りきりだしたから、今回のもてなしで領主代理だとでも言い張って実績を積むつもりだろう。
それと、今回はハリエットとフェリクス王子の顔合わせだけになる。会ったこともない夫では不安だろうという王子のご配慮だな。結婚は来年の今頃になるらしい。
もう、王子には第一王妃がいらっしゃるのだから、しきたりや作法については城についてから学ぶので問題ないそうだ。気楽にしていて構わないとおっしゃってくださっている」
「まぁ……あれだけ妃を抱えてたらな……ハリエットには、一回お手がつけばいいほうか?」
「いや、それでは困る」
兄と父の間でどんどん話が進んでいく。どうしたらよいのかわからなくなったハリエットの顔を、エグバートがまっすぐ見た。戸惑いながらも。ハリエットは背筋を伸ばした。
「ハリエット。フェリクス王子との間に子供を作り、イブリンの子供と結婚させなさい」
「そんな無茶な」
大体俺、まだ結婚してないし、とイブリンが笑いながら、ソファの背もたれに身を預ける。
しかし、エグバートは真剣な表情になって、続ける。
「ハリエットがフェリクス王子と結婚すれば、レオリールについていた貴族も、チェルノに従ってた貴族も俺につくだろう。そして俺が、このアテル領の領主になる。
その頃にはイブリンも妻はよりどりみどりだ。複数のこどもを作りやすいのはやはり男だから、イブリンにも頑張ってもらうぞ」
「はいはい。けど、せめて四人で納めてくれないと、俺の元気がもつかどうかわかんないけどな」
ハリエットと違い、イブリンはこの話に乗り気なようだ。
しかし、ハリエットには、心に決めた人がいる。
「お父様……そしたら……レオリール様は? わたくし、レオリール様と結婚はできなくなってしまうのですか?」
「レオリールとハリエットが結婚してしまうと、レオリールが領主になってしまうからな」
まだその話をあきらめていなかったのか、とエグバートが眉をしかめた。
ハリエットは領主の孫だ。貴族として、百万歩、いや一億歩くらい譲ればレオリールとの結婚をあきらめてもよい。だが、それには譲れない条件が一つだけある。
「それではどなたがこれから、レオリール様をお守りするのです!?」
「ハリエットがそのまま守ってやればいいじゃないか」
「……はい?」
王都で、王子の妃として生きて、子をなして、それでどうやってアテル領のレオリールを守るのだろう、とハリエットはいきなり投げられたイブリンの言葉に首を傾げた。
チェルノも、エグバートも、イブリンも、レオリールを疎ましく思っている。皆、何年も時間をかけ、レオリールの周りから部下や側近、使用人を減らしていった者たちだ。
ハリエットがあまり頼むので、エグバートとイブリンはレオリールの暗殺から手を引いてくれているらしいが、チェルノをはじめとした他の者たちは違う。
王都から護衛を送ったところで、離れてしまえばレオリールを守ってやれない。
「父さんが言ってた。今度また『森送り』をするんだってさ」
レオリールの身の安全と、『森送り』にどう話が繋がるのかわからず、ハリエットは一口お茶を飲んだ。どうして侍女たちはあんなにおいしくお茶を入れられるのか、どこか呆けたような頭の片隅で、関係ないことを不思議に思う。
ああ、と頷いてエグバートはたくさんの名前が書かれた紙を見せてくれた。
「近日中に、また『森送り』をする。今回の『森送り』でバティストもアークイワも処分することになったから、お前たち、注意しておくんだぞ」
「バティストは便利だったんだけどなぁ」
「その分、あっちからはヤニックを捨てさせるから、おあいこだろう。……これに、引率としてイスメールとパルヴィーンを同行させる」
ハリエットは息をのんだ。イブリンが、エグバートによく似た笑いを洩らす。
「レオリールを守るやつはもう、ハリエットだけだな? ……レオリールを従者にして連れていってもフェリクス王子は気付かないと思うな、俺」
「お兄様……」
王族は、正式な婚姻の制約を結ぶ。
エグバートはフェリクス王子との間に子を作れ、などと言うが、フェリクス王子にはすでに十四人もの妃がいる。どうせハリエットのところになんてほとんど来ないだろう。
制約さえあれば、浮気など絶対に心配されないのだ、と母から聞いたこともある。
レオリールが自分にかしづき、常に侍り、自分につくしてくれるだろう未来は、かなり、
「悪くないわね……」
「では、ハリエット。明日からこっそり、嫁入りの準備を始めなさい。こっそりとだ。それと、嫁入りということで新しい教育が必要になったからと、母さんが教育係を送って来るそうだ。到着次第、挨拶に向かわせよう」
「はい。お父様」
ハリエットは部屋に戻り、一番信頼している侍女のロレーナに、これからこっそりと嫁入りの支度をしなければいけないことを伝え、教育係が一人増えるらしいと言った。
「……ね、ロレーナは、レオリール様がわたくしの従者になることについて、どう思う?」
「そうですね……お母様でいらっしゃる、グエンドリン様のお口添えがあったほうが、スムーズにことが運ぶのではないでしょうか?」
「あら、そう?」
「ええ、そうですよ。ハリエット様。……お話が早い方が、グエンドリン様はお喜びになって、ハリエット様によくしてくださるかもしれませんね。今からこっそり、グエンドリン様のところに参りませんか?」
「でも、今は夜だわ。いきなりではさすがに失礼だと思うの。だから、明日になったら先ぶれを送ってちょうだい」
「いいえ。ハリエット様。大丈夫です。さ、わたしは馬車の支度をしてまいります」
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