第5話掃除ばかりをさせられる毎日の始まり

 ダーとかいう名前の、お粥に似た料理を食べきり、食後の茶を口にしたあたりで強い眠気に襲われた。うららちゃんが微笑んだような気がする。カピバラの表情だから、ちょっとよく分からないけど。


「そっちにベッドあったよね?寝ちゃいなよ」

「すまない、そうさせてもらう」


 今のは優しい声だったなと思いながら、ありがたく寝室に向かわせてもらうことにした。眠気が強すぎて寝間着に着替える余裕はない。ぼふりとベットに倒れるようにして、横になる。


 ……イスメールとパルヴィーンは、無事だろうか。


 生きていてほしいと願う。もう会えなくてもいい。どうか無事でいてくれ、と強く祈りながら瞼を閉じた。


 翌朝は空腹で目が覚めた。


 知らない場所だとおどろいてしまってから、昨日カピバラに助けられたことを思い出した。


 ……だから、今朝は誰も起こしてくれなかったのか。


 カーテンを閉めないまま寝てしまったせいで、窓から庭園がよく見える。うららちゃんが水に浸かって、幸せそうに浮かんでいた。


「おはよう」


 窓を開けたら、新鮮な空気はもう早朝のものではなく、花の香りを乗せて柔らかい。


「おはよ」


 俺の声を聞いたうららちゃんが小さな耳をぴっと動かした。ざぶ、と水から上がり、ふるふるっと水を払う。……立派なカピバラだ。羽があるけど。

 その羽を使って、音を立てずに窓からうららちゃんは部屋に入ってくる。サイドテーブルの上までふわりと羽ばたいて、お座りの姿勢をとった。それから、スッと目を細める。


「ねぐせ」


 ぼそりと言って、はぁぁ、とため息を吐かれた。人間のように首を振る仕草は、俺の教育係がよくするものと似ていた。


「着替えて、朝ごはんにしよっか。どうせ行くところなんてないんでしょ?」


 ……今の言い方なんて、母親にそっくりだ。


 着替えにはまた苦労した。ずいぶん時間をかけてしまったような気もするが、昨日よりは勝手がわかってきたぞとひとりでうなずく。

 隣室には朝食が並べてあった。今朝のメニューはダーとスープ、サラダと卵を炒めたものだ。茶は保温ポットに入れてあって、熱いままを楽しめた。


 もそもそとサラダを食べるカピバラと一緒の朝食はかなり戸惑ったと言いたい。


「食器はレオリールが台所まで片付けてね」


 なんで、俺が?


 文句を言おうとしたら、怖い目で睨まれた。仕方なく俺は従うことにする。このカピバラは、なんだか乳母や母親を相手にしたときのように、逆らってはいけないような空気を出してくる。

 食洗機とかいう名前の引き出しに、何度も注意されながら食器を入れ、ボタンを押した。


 ……なんで、使用人の仕事を俺がやらされてるんだろう。


「次は洗濯ね」


 うららちゃんに案内されて、調理場の奥にある扉から、使用人エリアにあるという洗濯場に向かう。ここでもうららちゃんにあれやこれやと命令されながら、昨日使った服やタオルを洗濯機という装置に入れた。

 うららちゃんの指示は細かい。やっと洗濯機のボタンを押したら、今度は城の別棟の掃除をしろと言いつけられた。どうやら俺は、この城の使用人になったらしい。


「疲れた」


 この城の使用人は何をしているんだ。全然姿を見かけないぞ。

 掃除などしたことがあるわけがない。ここでもあれこれと教わったが、やっぱりうららちゃんの指示は細かすぎる。


「もー!全然きれいになってなーい!」


 一息つきたくなって、掃除が終わった部屋の長椅子にカバーの上から座ったところで、どこかに行っていたうららちゃんが戻ってきた。


「やり直し!」

「……なんでだよ、綺麗になったじゃないか」


 さすがに文句がでてきてしまう。うららちゃんが俺をじろりと睨む。羽をバタバタと動かしたせいで、ほこりが舞った。


「今夜、ここでレオリールは寝られる?」

「……寝られない」

「だよね?」


 保護してもらっている身の上だと、俺は諦めて掃除用具を再び手に取った。


 起床、身支度、朝食、食洗機、洗濯機、別棟の掃除、昼食、食洗機、別棟の掃除、おやつ、別棟の掃除、入浴、夕食、食洗機、夜食、就寝。そんな生活を何日か過ごしている。

 食事はそこそこにおいしいし、城にいたときよりもなんだか楽しいような気がしてきた。


 掃除のダメ出しや、洗濯が甘いとき、うららちゃんは苛立たしげにトントンと足を踏み鳴らす。そんな様子をなんだかかわいらしく見えてきたから俺はもう、領主の孫としてはダメなんだと思う。これからは優秀な使用人として生きていこう。


「ここも、お掃除いちからやりなおし!」

「なんでだよ、かなり綺麗じゃないか」

「窓の汚れがスジになって残ってるもん」

「……悪かった」

「じゃ、ここ終わったらお風呂ね」

「わかった」


 まだ明るいうちに夕食を食べる。陽が傾いてくると、うららちゃんは夜食があるからねと言って、毎日どこかに出かけていく。


 そのうち、うららちゃんが朝まで帰ってこないことを知った。


 最近の俺の夜の日課は、城内の探検だ。幸いなことに、この城は誰も近寄ってこないだけでなく、モンスターもいない。

 昨日までに城の本館、別棟と回っている。昔の王族の肖像画や、保存のためか要らないと判断されたのか、いくつかの国土や国民の記録、武器。宝物庫に王冠が入っているらしい鍵付きの箱を見つけたときは驚いた。


 今夜こそは、この建物だ。


 俺たちが寝起きしている、敷地内で一番綺麗な状態のこの建物だが、階段から上に俺は行ったことがない。なんとなく、後回しにしてしまっていた。

 一階の廊下は青緑色の絨毯。階段は青色の敷物がある。

 そろそろ、うららちゃんがいないだろうと見積もった時間になったから、俺ははそっと階段へ足を乗せる。きしんだ音などが一切しないことに安心した。途中の踊り場までたどりつくと、窓からは林のような木々が見えた。


 二階の間取りは、一階とそう変わらないような印象だ。

 広い廊下、そして、


「ここは……主寝室、か?」


 大きく豪華な彫刻の入った扉に、鍵はかかっていなかった。中をちょっと見るだけだ。置いてもらっている身分なのだから、泥棒のようなことをするつもりはない。……けれど、変にうろつくなと言われた手前、罪悪感はある。だから緊張しながら扉を開いた。


 石壁の、倉庫だった。


「……は?」


 あまり広くはない、今はきっと使われていない倉庫だ。不思議に思いつつ、倉庫の隅に上に続く階段があったので、更に登ってみる。

 今度は木の床の、なんだか温かみのある台所。小さな窓があって、庭らしい緑が見えた。ここは、一階らしい。


「……いや、ここはどこだ?」


 一階から、二階分の階段を俺は上って来たはずだ。

 城の敷地に、少なくとも寝泊りしていた建物は平坦な地面の上にあったことを内心で確認する。あの建物で、入口を複数階に作れるわけがない。


 そして、この建物は、明らかに城の建物より小さかった。

 台所と食堂とを兼ねているらしい部屋を抜けて居間。

 居間の階段が気になって、一階の他の部屋を見るより先に、二階へ向かった。

 二階に部屋は二つ。

 引き寄せられるように、花の模様が刻まれた真鍮のドアノブを引く。


 そこは寝室だった。

 窓から月光が降り注いでいる。ベッドに美しい男性が寝ていた。

 その隣にいたのは白い服を着た女の子だ。

 女の子はこちらを振り返った。


「でてって、レオリール。今すぐ自分の部屋に行って」


 うららちゃんの声だった。


 白っぽい、水色や緑、ピンクの色が混じり合う、ひらひらとした衣装を着た女の子。

 女の子はヴェールを被った。手に持っていた剣を抜き、鞘を男性の上に置く。と、鞘から植物の蔓のようなものが伸びた。ぐんぐん蔓は伸びて刺を生やす。


 俺と女の子の間に茨の壁が生まれた。


「出てって」


 被ったばかりのヴェールをめくって、女の子は寝たままの男性に口づけを落とす。頬を撫でる手つきは名残惜しそうだった。背中にあったフクロウの翼をばさりと広げ、大きく開いた窓から飛んで行くのがどんどん埋まっていく茨の隙間から見えた。


 窓の外には大きな湖。


 蔓はもう、緑色の壁になり、俺は今見た光景に衝撃を受けていたのだと自覚する。理由はわからないけれど、衝撃を受けていた。

 見たものが一体なんだったのか、わからないままノロノロと階段を降りて、言われた通りに大人しく部屋に戻った。もう、探検する気は失せていた。


 ほとんど眠れないまま、朝を迎える。

 あの女の子は、うららちゃんだったのだろうか?

 あの男性は、誰なのか?

 人の姿になれるのであれば、なんでカピバラに……?


 窓の外が白んで、朝になったと知る。


 空からあの、フクロウの翼をもった女の子が庭に降り立つのが見えた。溶けるように形が変わって、まばたきをした次の瞬間にはカピバラになっていた。うららちゃんは池に入っていく。少し疲れているように見えたのは、うららちゃんがふう、と大きく息を吐いたからだった。


「……夜の間、どこに行ってたんだ?」

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