第20話00010100 奈落
朝間はすぐに一枚のネームプレートを探りあてた。
ガサっと紙を鳴らして自分の顔の前までネームプレートを持っていく。
書かれた名前を眺める。
「このネームプレートはなんなんだ?」
「落ちてました」
「どこに? きみはいったいなにをしているんだ。あの日以来わたしはきみの行動に口を挟んだことはないだろう?」
朝間は数年前と同じように挙動不審になる。
体が小刻みに震えだすとそれは全身にも波及していった。
怒りなのか惨めさなのかストレスなのかなぜこんなに体が揺れるのかわからない。
「理事長。そうはいいますけど。捜査一課の初動捜査を
「ああ。そ、それは助かった」
「もうすこしで捜査二課にも家宅捜索されるところだったんですよ。わかってます?」
「たしかに帳簿類を押収されたら桜木先生とわたしの金の流れが公になるところだった」
「そうですよね。あれ以来、経理も僕が担当してますからね」
現在、アザミ高校の収支すべてを正確に把握しているのは神野ただひとり。
お飾りだけの朝間にアザミ高校の現状を知ることはもはや不可能だった。
ただ朝間は経営が傾いたあのころに比べれば天国にいるようなものだといつも思っている。
雇われの理事長でいい。
毎月、自分が満足する役員報酬が振り込まれるそれだけで充分だった。
神野はあのときからずっと約束は守ってくれている。
一度たりとも振り込みが遅れたことはないし報酬額を減額されたこともない。
それが別の意味で朝間が神野に信頼を寄せる
「けれどきみは校内をいろいろと改築しすぎじゃないのかね?」
「あれは税金対策ですよ~。それにもう工事は終わりました。完成です」
「そ、そうか。まだこの部屋の工事が終わってない気もするが……」
朝間は反射的に部屋を見回した。
「いいんですよ。それに生徒たちは改築を理事長の趣味だと思ってますけど?」
「そ、そう思われていてもわたしは別に構わないが……」
朝間は生徒たちになにをいわれようが特段不都合はなかった。
自分に対する噂などなにも気にならない。
悪口も陰口どうでもいい。
朝間が求めるのは毎月の安定生活だ。
朝間はあの恐怖を忘れない。
買いたい物が買えなくなる恐怖。
なにかを我慢しなければならない恐怖。
得ることよりも奪われていく恐怖。
増えるよりも減っていく恐怖。
ただただ怖かった、不自由な生活が、貧乏が。貧困が。
怖くて怖くてしょうがない本当に怖くて気が狂いそうになる。
「金の出所が気になる人間が存在するかもしれませんよ?」
「い、いっている意味がわからないが……」
思慮に欠ける朝間にこの意味を理解することは不可能だった。
神野は――まあ、いいです。といいながらゆっくりと部屋を歩き回った。
こつんこつんと足音を響かせるその様子はどこかの有名社長が聴衆に向けたプレゼンテーションをしてるようだった。
そして、神のはふたたび部屋の中央に戻ってきた。
神野は無言のまま雑然とした部屋の
そこで朝間に向けてクイっクイっと手招きをする。
朝間は神野のその規則的に曲がる指先に誘われて椅子から立ち上がった。
忠犬が
急いで向かったのは神野への配慮だ。
机の椅子の背もたれはいまもグラグラと揺れている。
「な、なんだね?」
「ここ見てください」
神野は壁の上部にある格子状の物体を指さした。
網目のある長方形のオフホワイトの換気口だ。
「空気の入れ替えでもしようと思いまして。悪い空気は良い空気に
脈絡のない神野の言葉。
朝間は神野がなにを言っているのかまったくわからなかったが、ただ従うしかなかい。
朝間はいつからか神野に服従しているという感覚さえ麻痺していた。
神野が
自分が手下というわけでもない。
朝間は自分と神野がどんな関係なのかいまもってわかっていなかった。
「……ん? いいんじゃないか。換気くらいしても。それで? それがどうしたんだね? 空気を変えるならさっさとやってくれたまえ」
朝間は首の肉をYシャツの襟に食い込ませさっと壁を見上げた。
その死角で神野は口角を吊り上げる。
神野が朝間の真横に並んで立つとその身長差は数十センチもある。
「理事長。この学校には焼却炉と直通になっている場所が幾つかあるんですよ~。たとえば理科室のカラーボックスの裏とか……こことか、ね」
神野はセコンドがボクサーを送りだすような仕草で朝間の肩を押した。
身長差分の力が朝間の背中にいっきに圧し掛かった。
朝間は体は
――え?っという一言だけが朝間の置き土産だ。
その場所は回転扉のような造りになっていて、扉は三百六十度回転して何事もなかったかのようにただの
朝間の悲鳴さえもはや脱出することは適わない。
「ゴミは焼却炉へ……俺も残り時間がすくないんでね。焼却許可も得たし理科室のゲートキーパーにもそろそろ退場してもらおうか。俺の作ったゲートシステムより優秀な門番はいらねーんだよ」
神野にとって数年のつき合いがあろうが朝間はただのゴミだ。
朝間はどこかを滑り落ちているとわかった、そしてようやく自分が神野にとってどんな存在だったのかはっきりと理解する。
――自分はいてもいなくても一緒、ただのゴミのような存在だ、と。
朝間の体がスラロームような場所を通り抜けてどこかへと落下していった。
神野は腐ったゴミが悪臭を放ちはじめたから換気しただけなのだ。
朝間は桜木ミサの父親に懐柔されたときから死へのカウントダウンは始まっていた。
朝間は落下した先で肥え太った体重のぶんだけ水飛沫を上げた。
※
神野は鼻歌まじりで理科室へと向かう。
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