第19話00010011 駆け引き

 ――五月十日 午後五時三十分


 私立アザミ女子高等学校 理事長、兼、校長 朝間猛。


 歪な構造の部屋を不快に思うこともなくごくごく普通に仕事をこなしている。

 ときどき柱に膝をぶつけたりもするが、元来より大雑把な性格のためそんなことは気にならない。


 工事の途中のような部屋の書類棚にはいくつものファイル帳がある。

 青で統一されたファイルのなかに赤いファイルが混ざっていようがどうとも思わない。


 形式美にも様式美にもこだわりはなく整理整頓は大の苦手。

 食べ終えたカップ麺の容器を植木鉢にして薊の花を育てている。

 自己主張の強い「醤油」が薊の美しさを殺していた。


 ボールペンを失くせば買えばいい、定規が見当たらないなら買えばいい。

 購入後に発見された文房具は数知れない。

 机の上はそんな物たちで溢れかえっている。


 朝間は机上にわずかなスペースを作ってそこで事務仕事をしていた。

 とはいえ訳も分からずに白舟書体はくしゅうしょたいで作られた朝間猛の判を押すだけだ。


 複雑な文言もんごんの書類が「朝間」の印を欲っしているから自分はただそれに応える。

 昼飯ひるの残り香がまだ混ざっていそうな息をはぁはぁと吹きかけて、ぐいぐいと朱肉を抉る。

 白い紙の決められた枠からはみ出さないように斜めに傾かないように丁寧に判を押していく。


 流れ作業は今日もつづいていた。

 印鑑の輪郭がかすれることはないから、誰よりも判を押すのが上手くなったという自負がある。

 

 紙の真上で印鑑をかざし腕がブレないように垂直に印鑑を下ろしたあと左の手のひらでさらに上から圧をかける。

 これで芸術的な象形文字のような【朝間猛】が現れる。

 

 ――こんこん。口頭だけでノックもせずに神野が入ってきた。

 この時点でふたりの主従関係が逆転していることは明白だった。

 

 神野は無表情で「前田」「岬」「根元」「工藤」「三浦(サツキ)」五人分のネームプレートを朝間のいる机に向かって放り投げた。


 ネームプレートが朝間の目の前で四方八方に散らばり机の上の物に埋もれていった。

 紛失物は買えばいいと思っている朝間でもさすがに誰かのネームプレートは買えないと思い溢れ返った物たちに手を潜らせまさぐっている。


 「な、なんだ?」

 

 朝間は眉間にしわを寄せて困惑の表情を浮かべている。

 手の先が山のなかでなにかの動物のように蠢いていた。


――――――――――――

――――――

―――


 ――数年前。


 朝間はその男にすべてを見透かされて焦っていた。

 朝間にとって学校経営とはビジネスだ。

 だがその読みは甘かったブランド化した私立高の経営が傾くとは露ほども思わなかった。

 親から譲り受けただけの経営者。

 

 そんな世間知らずは教科書どおり社会通念が欠落していた。

 もともと浅はかな人間ではあったがここまで急速に世界経済が悪化するとは思わなかった。

 予測さえしなかった。


 「朝間理事長。桜木議員から寄付金を受けとってますよね?」


 「な、なんのことだ?」


 「理事長。デジタル苦手ですよね。あのメールは俺が送信したんですよ?」


 神野は朝間よりすこし遠い距離で携帯電話をかかげた。

 その行為には――おまえから赴けという意味が含まれている。


 「これですよ」


 「ど、どれだ」


 朝間が神野のパーソナルスペースに進入した。

 このとき朝間の人生そのものが神野に捕獲された瞬間でもある。

 いわば自分から罠にかかったということだ。

 

 朝間は光の反射でよく見えない画面に顔を近づける。

 内容を確認したとたんに狼狽うろたえる。


=======================


送信者:divine judgement


件名:寄付金の件


本文:桜木だ。今日、使いの者をやる。

    詳しくはそいつに聞いてくれ。



========================


 「こ、ここ、これは?」


 「これを送信したら見事に釣れた。寄付金を受けとってようが贈ってようが俺にはどっちでも良かった。あんたからの返信さえあればな。私立校が寄付金を受けとるのは問題はない。ただし相手が国会議員なら受け取る側もどうなるかわかりますよね?」


 言葉の最後の語尾にとてつもない悪意が込められている。


 「そ、それは?」


 「あんたは桜木ミサの非行に目をつむる代わりに多額の寄付金を受けとってきた。違うか?」


 「そ、そうだ。わたしと桜木先生の利害関係は一致したんだ。キミの目的はなんだ? 警察に告発する気か? 相手は国会議員だぞ!?」


 朝間は視線をきょろきょろとさせ挙動不審になりながらもささやかな抵抗とでもいうように小さな握り拳を作って憤慨する素振りを見せた。

 あまり感情を表にださない神野が声を上げて笑う。


 「あんた頭大丈夫か? 告発が目的ならとっくにしてるだろ?」


 「た、たしかに……」


 朝間は呆然して目を見開いた。

 自分のとった行動の矛盾点を指摘されて不利になりながらも感心している。

 

 朝間は神野の言葉に反論できなかった。

 さきほどまで宙を彷徨さまよっていた朝間の視線は一点を見つめ神野のつぎの行動に怯えている。


 「理事長ってのはバカでも務まるんだな? だから本アド載せた名刺をばら撒く危険性もわかってない」


 神野は朝間の名刺のメールアドレスを指差してからくしゃくしゃに握り潰した。

 そのまま背後も確認せずに後方へと放り投げた。


 歪に丸るまったまま名刺はぽつんと床を転がっていった。

 朝間猛の名刺は三浦シオンの事件当時メディア関係者などに配布した物でその場に居れば誰でも入手可能な物だった。


 「わ、わたしはパソコンとかが、と、とにかく苦手なんだよ。メール返信がゆ、唯一できることなんだ……そ、それでなにが望みだ?」


 「俺の望みはただひとつ。ここで雇ってもらいたい。三浦シオンの居たこの学校に」


 「み、三浦シオン……? あの亡くなった三浦さんのことか。どういう関係なんだ?」


 「ただの幼馴染だ。俺の提案を受け入れるか?」


 「そ、それは桜木先生にも相談しないと……」


 「いいかおまえが選べるのは“イエス”か“イエス”だ?」


 神野は朝間の胸ぐらを掴んで無理やり椅子から立たせ自分の拳を右下へと捻じった。

 朝間のYシャツの生地が朝間の首元にくい込んで、まるで吊るし鮟鱇あんこうのように息苦しそうにしている。


 朝間はふんふん。と鼻を鳴らして両頬をなんども膨らませた。

 唇がすぼんでいき今にも両頬が破裂しそうだった。

 神野は捻じっていた手の力をすこし緩めると、朝間の口から空気がドバっともれた。


 「わ、わかった。や、雇おう。大丈夫だ。わ、わたしが保証するよ」


 「早くそういえばよかったんだ」


 神野はふたたび右拳を捻じった。

 そこからさらにもうひと巻きYシャツの生地を巻き込む。

 やがて朝間の顔面がうっ血し茹蛸ゆでだこのように紅潮した。


 「あと焼却炉をすこし改造したい。これで俺も共犯だ。よろしくな」


 神野はそういい終わると拳の力をいっきに緩めた。

 朝間はダラっと椅子に腰かけて全体重を預ける。

 朝間の両腕はスキージャンプの選手のように後方に伸びていた。


 朝間は自分の首をなでながら堰き止められていたダムが決壊したように咳き込みはじめた。

 赤らんだ顔はスポイトで色を吸わていくように徐々に白んでいった。


 「わ、わかった。ゴホッ。桜木先生には上手くいっておく……ゴホッ、ゴホッ。いま娘さんが家出中で。ゴホッ。事後報告になるかもしれないが……」


 「永遠の家出にならなきゃいいがな?」


 神野は絶対零度の笑顔を浮かべた。

 朝間はその言葉にどんな意味があるのかまったくわからない。

 もっとも喉の痛みと苦しさとでそれどころではなく、いまだが喉になにかが引っかかったように咳をしている。


 「あ、ああ。ゴホッ」


 「おい。そこに落ちてる名刺。ごみ箱に捨てておけよ?」


 「あっ、ああ、わかった」


 神野はこうして朝間を飼い慣らす。

 飼うには飼うだけの餌を用意して。


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