第33話00100001  H2O(水)

 すべてが静まったなかでカメラの微音だけが息をしている。

 麻生と地居のいた場所はまるで体育館倉庫に一度、雨が降って上がったように楕円形の大きな水溜まりになっていた。

 

 ただし水溜まりの中心にはYシャツ、リボン、スカート、靴下、下着の上下が残っている。

 ふたりの衣類は着用していた順番に積み重なっていた。

 靴下、ショーツ、スカート、ブラジャー、Yシャツ、リボンそんな順番だ。


 「へー。初めて使ったけど人間が液体になるのか? これはシオンに危害を加えていた人間にだけ効くのか? それともいじめの加害者全般なのか? すこし試す必要があるな」


 神野は手元の小瓶を眺めた。

 自分の手にも数滴の雫が飛び散っているがなんの異常もなかった。

 それで自分は大丈夫なのだと確信する。


 「服はあとで燃やすか」


 神野は子どもが新しい玩具を手に入れたように笑みを浮かべた。

 そのまま水溜まりを避けて高田の元へと歩み寄って爪先で脇腹を小突いた。

 ぶよん、とした弾力が返ってきた。

 神野は麻生が振り回していたいまはリノリウムの床に転がっている金属の棒に足の裏を乗せてゴロゴロと転がして遊んでいる。


 「仲間割れかよ。けど絶好のチャンスだった。感謝するよ」


 神野は屈んで高田の顔にかけられたカーテンを剥がそうとするが顔とカーテンがひっついていた。

 カーテンがすこし濡れていることに気づいたが気にも留めない。

 

 「取れねーな。なんか引っかかってる。まあ、いいや。シオンを傷つけるやつは死んでても許さねー。死んでるけど。死ね」


 神野は高田の体の上で小瓶を真っ逆さまにした。

 底に残っていた液体がサーと垂れていった。


 それでも麻生と地居に使用した量よりは圧倒的にすくない。

 ぶくぶくとも、じゅわじゅわともとれない音がして制服の下から小さな泡が溢れてきた。

 しばらく時間がかかったけれど高田の寝ていた場所も水溜まりになった。


 「これで処理完了。死んでるやつも水になるってことはシオンをいじめたやつは、ぜんぶ水になるってことか。原液をかけたらどうなるんだ? あっ、さっきカーテンが濡れてたのは地居に降りかけたときの水が飛んでいってたのか? それで顔がすこし溶けてて骨か歯に引っかかったんだ」

  

 当然ながら高田も衣類だけが残っている。

 同じく靴下、ショーツ、スカート、ブラジャー、Yシャツ、リボンその順番で重なっていた。

 まあ、原液を使い切ったら意味がない。

 これからの使い道を考えないと。


 神野が思案していると高田のYシャツの胸ポケットからはみだしている直角三角形の紙を見つけた。

 神野は汚い物をつまむようにして指先で引き抜いた。

 直角三角形だと思っていたものはじっさいは長方形をふたつ折りにした便箋だった。


 【私のことを思ってだって知ってる。だから……】


 面積のわりには数少ない文字数だった。

 そのあとにつづく文字はないけれどシャプーペンで書いたグシャグシャとした落書のような文字。

 なにかを書こうとしたけれど、そのあとの言葉が浮かばないそんな様子が見てとれた。


 「誰かへの感謝か。おおかた親へのメッセージだろう。なにかにほだされて万引きを止めたってことか。それが仇になって友達に殴られて死んでりゃ神も仏もねーな」


 神野にはまだとある疑問があった。

 それはあの化粧品の山だ。


 「店側もさすがにこの量を見逃すとは思えない。店長と援交・・とかか? まあ、三匹かたづいたから、どうでもいいけど」


 神野はこの後始末をいかにキレイに収めるか順序立てて考える。

 まずは使える衣類でここに残っている血痕を拭く。

 あいにくここには水もある。


 血痕は金属の棒の先と高田が寝転んでいた場所にすこしある。

 あとはレースカーテンにも残っている。


 Yシャツと水を使えば金属の棒の先の血はすぐに拭きとれた。

 だが神野はどこか効率が悪いことに気づく。


 体育館倉庫内のロッカーを開いて常備してあるモップとバケツと雑巾をとりだしてきた。

 Yシャツに水溜まりの水を沁み込ませてバケツの上で絞る。

 それをなんども繰り返す、徐々にバケツの水位は上がっていった。

 いまバケツにはなみなみとした水がある。


 床に残っている拭き残しをモップで拭いていく。

 ついでに高田が横たわっていた場所の血も洗う、神野はその場を何往復かした。

 これで血痕が残っているのはレースカーテンだけになった。


 レースのカーテンの血のついた赤い面が内側にくるようにしてなんどか折り返す。

 それをいまもぽっかりと口を開けているの跳び箱のなかに投げ入れた。


 同じように衣類すべてを無造作に掴んで飛び箱のなかに放っていった。

 あとはカーテンの前に置かれている跳び箱の一段目をとって跳び箱に被せればいい。

 これで服が収納されただけのただの・・・跳び箱の完成だ。


 そこで、おっとと思う。一応化粧品も入れておくかと。

 ふたたび跳び箱の一段目をとり外して、抱き抱えるようにして化粧品の束を投げ入れた。


 あとの抱えきれなかった化粧品は手づかみにして、それも放り込んでいった。

 また跳び箱の一段目でふたをする。

 神野は上をポンポンと軽く叩いてから、金属の棒を手して数字の傾いていた得点ボードの右側に戻した。


 神野は隠しカメラで観ていたために麻生が振り回していたこの金属の棒がどこから現れたのかを知っている。


 とりあえずという意味での隠蔽はこれで完了だ。

 神野は掃除箱にモップを戻してほくそ笑んだ。


 カメラの数をもっと増やさないと、とも思いながら体育館倉庫の扉に施錠する。

 あらかじめスペアキーを持ってきているので、これでもうここには誰も入れない。

 

 がちゃん。――扉の閉まった音がした。

 ――これで完璧だ。神野にはそんな言葉のようにも聞こえた。

 

 バケツの脇に雑巾を乗せて、そのバケツを持ち体育館入口へと向かう。

 ちょうど入口に差し掛かったところで神野は真正面から声をかけられた。


 「神野くん」


 バカ面をした理事長の朝間だった。

 朝間は左を向いている、つまりは神野を発見しなければ十字が交差してそのまま素通りしていたということだ。


 「神野くん。掃除かね?」


 「はい。体育館倉庫がびっちゃびちゃで」


 神野は思った。

 どうしてこんな状態なのに朝間はこんなにも呑気なのかと。

 体育館倉庫で同級生が同級生を撲殺するそんな事件があったのにどうしてもこんなに危機・・を察知する能力がないのかと。


 もちろん朝間は麻生が高田を殴った場面を見たわけではない。

 神野が思ったのは目に見えない運を引き寄せるそんな六感のようなことだ。

 

 だから経営が傾むいてあたふたすることになる。

 生まれ持ってっていないそんな種類の人間なのだろう。


 「なぜだね?」


 訊ねた朝間はズボンに入れ忘れたYシャツがはみだしていた。

 滑稽だ。あまりに滑稽すぎる。

 神野は侮蔑でもなく憐憫でもない複雑な気持になった。

 そう嘲笑することさえためらうような。


 こいつもわりと早めに殺してやる、そんな感情が薄れていった。

 こいつは本当にシオンの、いや、校内で起こっているなにもかもに目を向けていないのではないか。


 つまりは、この歳になっても単純なのだった。

 学ぼうとすることをしない・・・のではなく学習すれば知識が増えるその発想さえ思いつかないのだ。


 「さあ、雨漏りじゃないですか?」


 「ここ一週間、雨なんて降ってないぞ」


 朝間は窓から空を見上げた。

 いま空を見たところでなんの意味もない。

 天気の話が会話にでたから空を眺めたそれだけだ。


 「じゃあ原因不明です。やっぱり改築工事が必要ですね」


 「そ、そうか。まあ、きみが望むなら」


 これが朝間の思考だ。

 突き詰めて考えれば神野のいった体育館倉庫の雨漏りは本来なら職員会議にかけて教師全員で情報共有するべきものなのだ。

 水がもれてきた原因を探ることもせずにすべてを神野に一任する。


 「お願いします。あっ、、用務員なんで引きつづき掃除、頑張ります」


 「あっ、ああ、よろしく……たのむよ」


 使い易い、じつに使い易い人間だ。

 道具として最高じゃないか。

 神野は朝間をしばらく観察することにした。

 さらにもっと使い易い道具になるかもしれない。


 「ええ。はい。あの理事長。桜木ミサさんってまだ家出中なんですか?」


 「なんでそんなこ……と」


 鈍感な朝間でも神野の顔つきで察した。

 思わず――あっ、と声をあげる。


 「あっ、ああ、ま、まだなんの連絡もないから、そ、そうだと思う」


 「そうですか」


 「ああ」


 神野は朝間に背を向けてテクテクと歩きはじめた。

 途中廊下で何人かの生徒とすれ違う。

 生徒たちは神野を一瞥していく、なかには友人同士で立ち話をしている者もいた。


 「あっ、はじめまして。僕、用務員になりました。神野と申します」


 朝間に見せた顔とは真逆の笑顔で小さく会釈しながら廊下を進む。

 水飲み場の前にあるゴミ箱に高田マヤの便箋を棄てたあとシンクの横に雑巾を干すようかけて置いた。


 バケツを持ったままそこを通過して玄関へと向かう。

 いったんバケツを置き職員玄関で外靴に履き替える。


 玄関扉を開いてバケツを手に花壇へと歩みを進める。

 薊の花の咲き乱れていた。

 花壇を囲っているレンガにそっとバケツを置く。

 かぐわしい花の匂いが花壇一帯を包んでいた。


 神野はいちど深呼吸をしてバケツも持ち直す。

 血を拭き、床を拭き、雑巾をしぼったれた水の入ったバケツだ。

 いったん肘をうしろに引いて勢いをつけ花の根元ねもとに向けザバーと水を撒いた。


 「薊にはいい養分になる」


 ――なんせ人が溶けてるんだから。

 

 神野は心で唱えた、そしてボソボソと呟く。

 「G」はしばらく自由でいてもらおう。

 俺とシオンが復讐心をつねに持ちつづけるために。


 朝間もしばらくあのままでいい、あとはメインの桜木ミサだ。

 薊の花の根元でプツプツと気泡が立っている。

 まるで花壇の土が汚水をドクドクと飲み込んでいるようだった。


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