第9話00001001 一年C組 担任 高田美津子
年齢不詳ではあるが老け込んだ印象の女性教師、高田美津子。
ここ何年も髪の毛を同じところで結びつづけたため額にシワが集まってきている。
ほうれい線もくっきりと現れていて、目の周りも窪んでいてクマもひどい。
その容貌のせいからかあまり生気が感じられず不健康にしか見えない。
健康の見本があってその反対があるならばそれは高田そのものだ。
視力も極端に衰えているためなにかにつけて目を細める癖がある。
高田は教科書片手に黒板にチョークを走らせていた。
ときどき黒板が反発するように高田の腕を薙ぎ払う。
それほどまでに筋力が衰えているようだった。
手の動きも鈍く身体の老化が急激に悪いほうへ傾いた印象だ。
「ここですがフットの反射神経――」
「先生。ラットだと思います。ネズミの意味ではないと前後の記述に矛盾が生じます」
高田はその生徒の忠告に顔を覆うほど教科書を近づけた。
そのまま紙のなかに沈んでいくのではないかというほど、しばらく教科書を凝視した。
「すみません。フとラを見間違えました」
高田は目をしばたたかせ訂正を求めた生徒を探すがどの生徒かわからずにクラス内をきょろきょろと眺めている。
当の生徒本人はそんなことを気にせずにノートと教科書を交互に見返して文字を書き込んでいた。
生徒たちから――はははは!!と冷笑が起こった。
本来は尊敬の念を集めるはずの担任教師。
だが高田は教え子たちから陰口を叩かれるほど教師の権威を失くしていた。
教育現場で信頼という言葉が死んでからどれくら経っただろうか? 三回忌、七回忌、十三回忌もう誰も覚えていないほどずっと前に信頼は死んだはずだ。
だからこの場合は高田がどうこうという問題でもない。
神野のいう教師の鑑とはほど遠い高田がそこに居た。
誰も高田を敬うこともなく耳を傾けて話を聞くこともない。
いまも数人の生徒が集まって噂話に花を咲かせていた。
「高田先生ってヤバイよね?」
「ヤバい、ヤバい」
「前に美穂がいってたんだけど高田先生蜘蛛を食べてるの見たって!?」
「え~うそぉ。キモ~イ!!」
「本当らしいよ。あとはすごい借金があってお金に困ってるみたい」
「麻奈美も先生が壁に向かって話してるの目撃したって!!」
「……なんでそんなふうになちゃったの?」
すこしだけ声のトーンを下げて小声になる生徒たち。
こんな騒々しい教室でもすくなからず場を
高田もそれに気付きながらいっさいの干渉をしない。
ただ、なぜか微笑ましそうにその様子を眺め、ふたたび黒板に文字を書きはじめた。
もっとも高田にその光景が見えていたのかは定かではない。
黒板を鳴らすチョークの音が教室の黄色い声に消されていく。
細めたはずの声はたちどころに倍増していった。
「それが……むかし自殺した生徒を発見して精神に異常をきたしたんだって」
「そんなのに遭遇したら私もおかしくなるかも」
「え~私が聞いた話だと。事件の第一発見者でなにか秘密を握ってるらしいよ」
「……どうしてまだ教師やれてるんだろう?」
「まさか。高田先生がその犯人とか?」
「ドラマならその展開ありそう……」
「私が聞いたのは娘さんが行方不明になってて、それ以来あんなふうになったって。しかも……うちの生徒だったみたいだよ」
エスカレートした噂話にまた数人の生徒が加わった。
ついには高田と黒板に背を向ける生徒も現れはじめた。
話の中心人物の机に両手を乗せる者や、ほかの生徒の膝に座る生徒もいる。
そこ一帯がまるで寄席のようだ。
誰かが――しー。と形ばかりの注意を促した。
授業の手前、声を潜めて噂話はつづく。
現在、理科の授業に耳を傾けているのはクラスの三分の一ほどにも満たなくなっていた。
高田がふたたびのそりとクラスの生徒たちのほうへと体を向き直す。
そのまま生徒たちが騒いでいる光景を優しげに見守っている。
たとえ生徒の表情がわからなかったとしても母が子に寄せる慈悲のように生徒ひとりひとりへと視線を移していった。
「身近な先生が殺人犯とかある。ある」
「いっつも疲れた感じでてるしね~?」
「だね。外見ひどすぎ!!」
高田には以前から誰が流布したのかわからない真偽不明な噂があった。
それもこれもある種閉鎖された女子高ならではのものかもしれない。
彼女たちの会議はこの授業の終りまでつづいた。
――――――――――――
――――――
―――
――五月八日 早朝。
黒木がメールを受信した同時刻、高田のタブレットにも一通のメールが届けられていた。
タブレットは己の意を伝えるように明滅している。
チカっチカっと持ち主を呼び寄せた。
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送信者:divine judgement
件名:前田美沙緒 岬カンナ 死亡
本文:http://www.azami-ghs.jp/17-19.html/
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高田もURLをタップした。
タブレットを顔に近づけリンク先のページに貼られた画像を凝視する。
高田の目に人の肌の色と赤と青の荒いドットが飛び込んできた。
高田が焦点を合わせようと目を細めるとようやくフォーカスが合い人間だと判別できた。
そして、その人間は自分が働いている高校の制服だと気づく。
(ま、前田さん。岬さん……ミサの刻印……どうして?)
目元に横一直線の切り目を入れたような細目をさらに細めた。
それでも左右に眼球が動き動揺を隠しきれずにいる。
くっきりしたほうれい線と梅干のような口元がぴくりと動く。
脳裏にあの日が
けっして忘れることはないあの
まるで太陽が自殺したような闇の一日。
その日すべての教師は心をすり減らしていた。
日常では起こりえないことが起こったからだ。
――三浦さん。大丈夫? ひどい出血じゃない?
――高田先生。私の復讐はこれから。最初は三日後、つぎは一週間後、そのつぎは五ヶ月後、そして二年後……
――……いいから、もう、しゃべらないで。すぐに救急車を呼ぶから
――私は必ず……
――…………三浦さん
高田の腕のなかで三浦は息を止めた。
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