これ、赤城山そのものだよ!
「今日はチケットを一枚利用したいと思うんですが、どこか良い山はないですか?」
一週間後、開店と同時に『上を向いて登ろう』に入店した俺は、美風さんにチケットを一枚差し出す。
運良く、今日も彼女に対応してもらえることになった。
「一枚分を使われるいうことで一時間ですね。そうですね、一時間くらいで登れるところといえば……そうだ、赤城山はいかがですか?」
「ほぉ、赤城山ですか。それはいいですね」
赤城山なら何度か登ったことがある。山頂近くまで道路が通っているので、一番標高の高い黒檜山でも駐車場から一時間ちょっとで登ることができる。
「じゃあ、赤城山の黒檜山で設定いたしますね。ちょっとお待ち下さい」
そう言いながら、美風さんはクライミングマシンの隣のコンソールパネルを操作し始めた。
彼女は今日も登山風の服装をしている。チェック柄のシャツに、ボトムはストレッチ性のあるカーキ色のロングパンツだ。
「設定が終わりました。次は個人設定をスキャンしますので、会員証をお願いします」
俺が会員証を渡すと、美風さんは機械に挿入した。すると、前回と同じようにクライミングマシンがウィーンと音を立てて作動を開始した。いくらか段差が大きくなったような印象だ。
「この機械のすごいところなんですけど、前回のデータを用いてその人に合った登山ができるように毎回調整してくれるんです。手すりやゴーグルから心拍数や血圧値を測定していて、なるべく無理のない段差幅に変更されていると思います」
「えっ、それって、この間の公園の丘に登ったデータで……ですか?」
「そうです。これからどんどんこのマシンを使用していただければ、さらに丘田さんに合った登山が可能になりますよ」
そいつはすごい。健康面も管理してくれるのは本当に助かる。これから年齢を重ねても、その時の体力に合った登山を提供してくれるのだろう。
「もちろん筋力アップのための負荷の高い登山も可能ですが、今日はどうされますか?」
「いやいや、快適な方でお願いします」
気持ち良く登れる方がいいに決まっている。無理をして筋肉痛になるのも嫌だし。
俺は、このクライミングマシンの性能を信じることにした。
「黒檜山登山口スタートで、設定終了いたしました。本日はチケットが一枚ということなので、登りだけでいいですね?」
「はい、それで構いません」
登りだけで良いっていうのもバーチャル登山の特徴だろう。普通の登山だったら、登った以上は下山しないといけなくなる。若い頃は下りの方が楽だったが、年を重ねるにつれて膝に負担の大きな下りが苦手になってしまった。
「では、マシンの前にお立ち下さい」
すると前回と同じように美風さんがゴーグルを掛けてくれる。そして手すりを握ることによって、最後の調整が完了した。
「どうぞ、黒檜山への登山をお楽しみ下さい」
こうして俺は、一八二八メートルの山頂目指して、一歩一歩クライミングマシンを登り始めた。
黒檜山への登山道は、火山岩である安山岩の岩塊がゴロゴロする尾根をひたすら登る。
俺は、ゴーグルの画像を見ながら、安山岩の岩塊を何度も踏みしめた。前回の公園の丘の木の階段よりも、足の感覚が硬いような気もする。地面の様子も再現できているのであれば、これは本当にすごいマシンだ。
やがて眺めの良い場所に出た。猫岩と呼ばれる場所だ。眼下にはカルデラ湖である大沼が広がっている。
それにしても天気が良い。眺めといい、適度な疲労感といい、本当に猫岩まで登ってきたとしか思えない。これで気持ちの良い風が吹いてきたら最高なんだが、さすがにそこまでの再現は不可能だろう。
でも、天候を気にせずに登れるのはバーチャル登山の良いところだ。登る前は晴れていても、山頂に着いたらガスっていて何も見えなかった、という悲劇も回避できる。
猫岩を出発した俺は、再び岩塊がゴロゴロする尾根を登る。そして登り始めてから一時間後に黒檜山の山頂に到着した。心地よい疲労感と達成感に俺は満足する。都会の真ん中にいながら、ここまでリアルに登山体験ができるとは思わなかった。
「いかがでしたか、黒檜山?」
マシンから降りてゴーグルを外してもらった俺は、汗をぬぐいながら美風さんに親指を立てた。
「最高です。こんなにもリアルだとは思いませんでした」
すると美風さんはニコリと微笑む。
「ありがとうございます。有料になってしまいますが、奥に会員様専用のシャワールームがありますので、よろしければご利用下さい」
これだけ有意義な時間を無料で過ごせたのだから、シャワーくらいはお金を払っても構わないだろう。
「それは良かった。シャワー、使わせてもらいます」
オープンしたばかりのお店だけあって、シャワールームもとても綺麗だった。五百円を投入して、俺はシャワーブースに入る。
シャワーを浴びなら俺は考える。
この一時間分のチケットは、一枚いくらなんだろう——と。
一枚千円だったら、安いと思う。それだけ今日は、充実した時間を過ごすことができた。
一枚二千円だったらどうだろう。それでも俺は買ってしまうかな。
一枚三千円だったら、ちょっと考えてしまうかもしれない。というのも、赤城山なら都内から三千円くらいで行けてしまうから。値段が同じなら、本物の方がいいに決まっている。
「でも、下山しなくていいのは楽だし……」
このはバーチャル登山の良いところだ。
それに交通費だって、往復を考えれば赤城山でも六千円くらいはかかる。
俺の心は激しく揺れ動いていた。
「美風さん、このチケットって、一枚いくらするんですか?」
気になった俺は、着替えが終わると早速美風さんに訊いてみた。
すると驚きの答えが返ってくる。
「正会員になっていただけますと、一枚千円で購入できます。ただし、年会費が別途、五千円かかってしまうのですが」
ええっ、一枚千円だって?
それは安い。年会費の五千円はちょっと高いけど、頻繁にここに通えばすぐに元が取れるだろう。
「年会費の方は、大変申し訳ありませんが、これ以上はお安くできないんです。お客様の個人データの管理や調整に必要となりますので」
まあ、それは仕方がない。
登る度にその人に合った登山が調整可能というのなら、それはとても画期的なシステムだし、データの管理にお金がかかることも理解できる。
そんなすごいシステムを一時間千円で利用できる方が、本当に信じられない。
「チケットを追加していただくことで色々なオプションを楽しめますので、チケットの単価はお安くなっているんです」
ほお、そんなシステムになっているのか。
「オプションって、例えばどんなものがあるんですか?」
気になった俺は美風さんに訊いてみる。
「そうですね。まずは全天候対応のクライミングマシンです。奥の方に、ガラス張りの個室に入ったクライミングマシンがあるのをご覧いただけますか?」
あれか。初日に気になっていたけど、クライミングマシンがガラススペースに入っているやつだ。あの個室にはそんな仕掛けがあったんだ。
「全天候対応のマシンは、チケットを一枚追加していただくことでご利用いただけます。季節や天候、風速や気圧なども設定することができるんですよ。例えば、夏の天気の良い日に登り始めると、高度が上がるにつれてだんだんと気温や気圧が下がっていって、山頂に着いたら心地よい風が吹いている、という本物に近い体験をすることができます」
それだよ、俺が先程ちょっと物足りないと感じていた要素は!
やっぱり補完する方法がちゃんと考えられていたんだ。
「もちろん、強風や豪雨の中で登るという体験も可能ですよ」
いやいや、そんなのを望むのは、ごく一部の人だけだろう。
「さらにチケットを追加していただけると、季節や場所に合ったエフェクトを追加することもできます。例えば、花の香りなどですね。ヤマユリの季節を選んでいただけると、本当に素晴らしい香り体験ができますよ」
それは素晴らしい。が、チケット二枚追加となると、ちょっと考えてしまう。
「プロの方用に、極寒や酸素濃度を低くした条件にすることも可能です。ただしこれは安全面を考えて専属トレーナーが付きますので、かなりお高くなりますが」
まあ、ヒマラヤなんかに登る人なら、こんなトレーニングも必要となるに違いない。俺には全く関係ないが。
「その他に、オプションってないんですか?」
全天候対応マシンは一度試してみたい。もしその他にオプションがないのであれば。
「そうですね、丘田さんにお勧めなのは、バーチャルサポーターのオプションでしょうか」
「バーチャルサポーター?」
「簡単に言うと登山ガイドです。ガイドが先行して、その人に合ったペースを作ってくれるので、皆様からご好評をいただいています。と言っても、サポーターのモデルは私なので、ちょっと恥ずかしいんですが……」
ええっ、それって……?
美風さんと一緒に登れるってこと!?
選ぶなら、絶対そっちの方がいい。
「じゃあ、今度来た時は、そのバーチャルサポーターを試してみます!」
「わかりました。覚えておきますね。今日はお疲れ様でした」
また来週末も来よう。
そう誓いながら、俺は店を後にした。
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