仮登録しちゃった!

 俺を案内してくれた店員は、登山靴売り場のさらに奥にある扉の前に立つ。

 ——ここから先は、会員専用のスペースです。

 扉にはそう書かれている。

「私はここで失礼いたします。ここから先は、専門のインストラクターがおりますので、何でもご質問下さい」

 ゆっくりと開くドア。

 それを見届けると、今まで案内してくれた店員さんは売り場へ戻って行った。


 俺はドアの向こう側に目を向ける。正面にはカウンターがあり、その奥にはガラスで仕切られた広いスペースが広がっていた。先ほど見たクライミングマシンが十台くらい並んでいる。

「ようこそ、バーチャルクライミングクラブ『上を向いて登ろう』へ」

 カウンターに立つ若い女性が丁寧にお辞儀をする。

 チェック柄の襟付きシャツは、正にこれから登山に出かけるかのような格好だ。


「私、当店のインストラクター、山麓美風と申します」


 年は二十五くらいだろうか。挨拶する美風さんは、笑顔がとても可愛らしい。俺はビラを示しながら早速質問する。

「えっと、ここに書かれているバーチャル登山って体験してみたいんですが……」

 すると美風さんはニコリと笑って説明を始める。

「ありがとうございます。バーチャル登山を体験される方には、会員の仮登録をしていただくことになっておりますが、よろしいでしょうか?」


 えっ、仮登録?

 それってお金がかかるんじゃ……。


「当店のバーチャル登山は、VRゴーグルを付けてクライミングマシンに乗っていただくことになります。慣れない方ですと、ご気分が悪くなられたり、足を挫いてしまう方もいらっしゃいますので、万が一のための保険に加入するために仮登録をお願いしております」

 そうなのか……。やはりVRゴーグルを付けることになるのか……。

 確かにゴーグルを付けてあのマシンに乗るのは、最初はちょっと恐いだろう。

 保険に加入するという話を聞いて、俺は納得した。

「仮登録までは無料ですので、ご安心下さい」

 無料だったら仮登録してもいいかな。俺はカウンターに近寄ると、置かれている用紙に目を向ける。そして氏名や連絡先など必要事項を記入した。

「丘田さんっていいお名前ですね」

 そう、俺の名前は丘田步高(おかだ ほたか)という。

「当店のバーチャル登山を、きっと気に入っていただけますよ」

 ニコリと笑う美風さんはとても素敵だった。


 登録作業が終わると、美風さんの後についてガラス戸をくぐる。その先は広くて明るいトレーニングルームだった。

 手前にはクライミングマシンが五台並んでおり、奥にも同じように五台のマシンが並んでいた。両者が大きく異なるのは、奥のマシンはそれぞれがガラスのスペースで区切られていることだ。

 使用状況は、手前のマシンは二台が使われているだけだったが、奥のマシンは満室だった。きっとこのガラススペースに何か仕掛けがあって、人気があるのだろう。

「どうぞ、こちらのマシンにお願いします」

 手前のガラススペースに入ってないマシンに案内された俺は、じっくりと機械を観察する。基本的には先ほどの登山靴売り場のマシンと同じだったが、隣にコンソールパネルのような台が設置されており、そのテーブルの上にはVRゴーグルが置かれていた。

 きっと、このゴーグルを付けてマシンに乗るのだろう。そう思うと、なんだかワクワクしてきた。


「では丘田さんの会員証をスキャンします」

 そう言いながら美風さんはカードをコンソールパネルに挿入した。するとウィーンと音がして、マシンの階段部分が動き始める。

「先ほど入力していただいた身長や体重の情報を元に、登り幅などの設定を調整しています」

 確かにこれは重要なセッティングだ。身長の低い人が大きな段差を登るのは無理があるし、その逆も考えられるだろう。人には、それぞれ気持ちよく登れる高さが存在する。

「それでは、マシンの前のマークに合わせて立って下さい」

 俺はマシンの前に移動し、足跡マークに合わせて立った。

「これからゴーグルをお掛けします。画面に目の前のクライミングマシンが映りますので、まずは手すりを掴んで下さい。そうすれば位置情報の調整が終わります」

 美風さんが俺の前に回り、背伸びをしながらゴーグルを掛けてくれた。彼女の髪が肩に当たり、ちょっとドキドキする。

 実は俺は、バーチャルリアリティ体験はこれが初めてなのだ。

 装着したゴーグルの画像には、目の前のクライミングマシンが映し出されている。首を動かすと、それに合わせて画像も動く。きっとこの映像は、ゴーグルに付けられたカメラによるものなのだろう。俺は美風さんの言葉に従って、目の前の手すりを両手で掴んだ。

 すると、ゴーグルに付けられたスピーカーから声が聞こえてきた。

「あと三秒で設定が終わります。手すりから手を離さないで下さい」

 と同時に、隣に立つ美風さんが補足する。

「設定が終わると公園の映像に画面が切り替わります。今回は初回なので、手すりから決して両手を離さぬようお願いします」

 俺はゴーグルを付けたまま小さく頷いた。


 その時だ。

 俺の視界に、鮮やかな緑色と青色が飛び込んできた。どうやら公園の映像に切り替わったようだ。

 目の前にそびえる丘と、それを覆う芝生、そして丘の上に広がる快晴の空。耳元からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 思わず俺は、首を振って辺りを見回す。それはかなりのリアリティで、自分が公園の中に立っているとしか思えない。目の前の小高い丘には、上に向かって木製の階段が延びていた。


「それでは、目の前の丘に登っていただきます。一段目に足を乗せて下さい」

 俺は手すりにつかまりながら、右足を上げてみる。するとゴーグルの画像の右足も同時に上がった。そして画像の中の木製階段に右足をかける。足裏には階段の感覚。マシンの上に足が乗ったのだろう。

 その体験に俺は驚く。タイムラグや段差のずれは全く感じられない。どう見ても、公園の階段に足を乗せたとしか思えない。

「ではゆっくりと体重を右足に移して、一段登ってみて下さい」 

 俺は手すりを掴んだ右手で体を引き寄せるようにして、徐々に右足に体重を移して一段目を登ってみた。すると、動きに合わせてゴーグルの景色も移動する。これも全く違和感はない。本当に階段を登っているとしか思えない。

「慣れてきたら、一歩一歩自分のペースで登ってみて下さい」

 俺は今度は左手でより前方の手すりを掴み、左足を階段に乗せてゆっくりと登ってみる。完全に同期するゴーグルの画像。クライミングマシンの上に乗っていることは本当に忘れてしまいそうだ。

 だんだんと慣れてきた俺は、周囲の景色を眺める余裕が出てきた。一歩一歩高度が上がっていくにつれて、見える景色が良くなっていく。

「これ、本当に登っているみたいですね」

「みなさん、そう言われます。そこが当店のバーチャル登山のウリなんですけどね」

 ゴーグルの外側から美風さんの声が聞こえる。美風さんもこの公園内に登場してくれれば完璧なんだけどな。

 そんなことを考えていると、傾斜がだんだんとゆるくなってきた。どうやら丘の頂上に着いたようだ。いつしか俺は、平坦な丘の上を歩いていた。

 そこでふと気付く。

 俺はクライミングマシンに乗っていたんじゃないか——と。

「美風さん、丘の上に着いて平坦になったんですけど、それで自分も平坦な道を歩いているとしか思えないんです。一体どうなっているんです?」

 自分でも何を言っているのかわからない酷い質問だ。それだけ俺は混乱していた。

「当店のクライミングマシンは、形状を変えて平坦な道や下り坂にも対応できるようになっているんです。そろそろ下り階段が見えてきますよ。気をつけて下りて下さい」

 つまり、最初は上り坂だったマシンは、だんだんとその形状を変えて平坦な道になったってこと?

 これはすごい技術だ、と思っていると、美風さんの言う通り目の前に下り階段が見えてきた。

 俺はしっかりと手すりを掴みながら、一歩一歩階段を降りる。その度に、自分の膝に体重がかかる。本当に下り階段を下りているとしか思えない。

 違和感なく五段くらい降りてから、気が付いたように俺はクライミングマシンに乗っていることを思い出す。きっと下りの時は、マシンが上りエスカレーターのように動いていて、いつまでも下り続けられるようになっているのだろう。

「そろそろゴールですよ。画像の中の最後の階段の下に「ゴール」と書かれたマットが敷いてありますから、そこに両足で立って下さい」

 美風さんが言う通り、下り階段の先に何か赤いものが見えてくる。近づくと、その赤いマットには白文字で大きく「ゴール」と書かれていた。

 俺は手すりから手を離し、ゴールの上に両足で立つ。するとゴーグルの画像が公園からトレーニングコーナーに移り変わった。俺はクライミングマシンを乗り越えた先の床に立っていた。

「すいませんが、しばらくそのまま立ったままでお願いします。今、ゴーグルを外しますから」

 ゴーグルの画像に美風さんが映ったかと思うと、前方からゴーグルが外された。

 俺は現実の世界に戻ってきた。


「ご気分はいかがですか? 気持ち悪くなられませんでしたか?」

 気持ち悪くなるどころか、公園の丘の上の風景はとても清々しかった。これが景色の良い山だったら、さぞかし爽快だろう。

 何よりも、このクライミングマシンの性能とVRゴーグルとの親和性が素晴らしい。最新型とうたうだけのことはある。

「すごく良かったです! ぜひ会員になりたいと思います!」

 興奮気味に語る俺に、美風さんは満面の笑みになる。

「ありがとうございます。丘田さんは本日、仮登録していただきましたので、お試しチケットを十枚差し上げます。これを全て使われた際に、希望されれば本登録への移行となります。なお、チケット一枚につき、一時間のクライミングマシンのご利用が可能です」

 おおっ、それは有難い。

 それに十時間分のマシン利用が無料でできるなんて、かなりの大盤振る舞いじゃないか!?

「じゃあ、また来ます!」

「ご来店お待ちしております。クライミングマシンの空きをご確認いただき、ご予約されてからのご利用をお勧めします」

 こうして俺は、バーチャルクライミングクラブ『上を向いて登ろう』に毎週のように通うこととなった。

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