ラボラトリーの中で①

 それは不思議な建物だった。先が見えないほどに長く、赤い絨毯が敷き詰められた廊下の両壁には膨大な数の扉があるのだが、表札やら看板があるわけではないので、どれが何の部屋だか全くわからない。


 そんな廊下を両腕に包帯を巻いた女が、ずかずかと歩いている。手には黒革のグローブをしていて、白いブラウスと白と黒のチェックスカートを履いた若い女だ。


 彼女は迷うことなく、ある部屋の前に立ち止まると、扉を数回ノックした。


「どうぞ」


 中から若い男性の声をがして、女はドアを開ける。

 部屋はこじんまりとした書斎のような作りとなっていて、部屋の壁中には本棚があり、ぎっしりと本で埋まっている。窓が一面だけあるのだが、カーテンが閉め切られていて薄暗かった。

 部屋の中央には大きな机。その椅子に座った男がにっこりと笑って女を出迎えた。


「やぁカナン。傷はもう大丈夫なのかい?」

「どうってことねーですよ。そんなことより、フレンちゃんの拉致を先延ばしにするってどーいうこってすか?」


 カナンは怒っていた。表情はほとんど表に出ないのだが、明らかに目つきが鋭く、相対する男を刺し殺すかのように威嚇していた。


「そんな怖い顔しないでよ。可愛い顔が台無しだよ?」

「怒った顔でも可愛いのがカナンちゃんのチャームポイントなんで。それで、詳しい説明はなし、なんてことはないですよね?」


 やれやれ、と困ったように肩をすくめる男性は椅子から立ち上がると、来ていた白衣を翻して後ろを向いた。


「宝剣使い。君たちの報告ではフレンという少年は宝剣使いということだけど、本当かい?」

「先輩と一緒に見ましたから。ってか、宝剣使いでもなきゃ普通に任務達成してるってもんですよ」

 カナンは先日のフレンが放った紅い竜を思い出して背筋に冷や汗をかいた。あれほどの力場を発生させるなど人間業ではない。


「それなら君もわかっているじゃないか。宝剣使いをどうにかする、なんて一筋縄じゃいかない。しっかり準備をしてから作戦を実行に移そう」

「そ、そりゃーそうですが」

「いい子だね。僕は素直な子が好きだよカナン。君も怪我をしたのだから、今はゆっくりと休みなさい」


 反論する余地がない。カナンが言いどもると男は、カナンの方へ振り向いて、屈託のない笑顔を見せて優しい声をかける。


「う、あ、はい……失礼しやす」

 すっかり毒気を抜かれたカナンは、その紳士然とした男の立ち振舞に少しだけ胸が高鳴るのを感じて頬を赤く染めた。



 すごすごとカナンが退室するのを確認すると、男はひとつため息をつく。


「厄介なことをしてくれるものだよ、カーミラさんは」


 男は白衣のポケットから赤い小瓶を取り出した。それは以前、フレンがライラに届けたものと全く同じものだった。しかし、液体が入っていたはずのその中身は空になっていた。


「気付かなかったライラが無能ってことじゃろ?」


 すると、男の背後にいつの間にか一人の女性が立っていた。いや、正確に言うならば一人の少女が立っていた。


「仕方ないだろ博士。あの追い詰められた状況じゃ、誰だって藁にもすがる思いで使ってしまうよ」


 博士と呼ばれた少女は男と同じような白衣を着ているが身長に全く合っていないため、地面をずるずると引きずっている。

 子どもとは思えない不遜な笑みを浮かべる口元には八重歯が覗いていた。


「かかっ、優しいものじゃの。カナンといい、ライラといい、年頃の女を弄んで何を企んでおるのじゃ」

「人聞きの悪いことを言わないでくれよ。僕はただ、彼女たちに無理強いをさせたくないだけさ」

「ふん、今はそういうことにしておいてやるかの。しかし、あのわっぱはどうするつもりじゃ? カーミラの手に渡ったまま放置するのも、いささか問題があるように思えるのじゃがのう? ん?」


 まるで老人のような口調で話す少女は男のすました顔を見やりながら、不敵に笑った。


「優先すべきはカーミラさんよりも、あの双子だよ。彼らを確保しなければ作戦は実行できないからね」

「そう簡単にいくかのー。かかっ」

 脳天気に笑う博士は男の影に隠れるように移動すると、やがて姿形が見えなくなった。まるで初めからこの部屋には一人の男しかいなかったかのように、跡形もなく消えさってしまったのだった。


「やれやれ」


 男はふっと笑みをこぼすと、深々と椅子に座り込み、空になった小瓶をゴミ箱に投げ捨てた。


がちゃんとガラスが割れる音がした。

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