城下町の夜④

 無我夢中で足を動かす。


 自分がこれほどまでに上手く走れないなんて思わなかった。肺が痛くて、喉が焼けるようだったが、それでも走るスピードを落とさない。


「はぁっ、はぁっ!」


 後ろを振り返ることもできないフレンの感情は、恐怖と困惑と罪悪感でいっぱいだった。


「あっ!」


 そのとき、フレンの足がもつれて地面へと倒れ込んだ。それでも勢いは収まらず、フレンの身体がゴロゴロと転がった。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」

 やがて仰向けになって止まった身体は汗だくになっていて、荒い呼吸に合わせて胸が上下した。

 城下町の夜空は満天の星が瞬いていたが、フレンは星の綺麗さなど心に響かない。


「――やぁ、少年。そんなに急いでどこへ行くんだい?」


「え?」


 急に夜空を覆うような影が伸びたと思ったら、影は口を開いて軽快に喋りだした。


「君が急いだところで時の速さは変わらない。世界から見れば、君も僕もみんなちっぽけな存在さ。だったらのんびり生きた方が楽じゃないか。そう思わなかい?」

 影はなんだかよくわからないことを口にしながら、フレンに手を差し伸べた。


「はぁっ、はぁっ」


 差し出された手が、自分を引き起こしてくれることはわかっていたのだが、フレンは起き上がりたくなかった。きっとここで起き上がれば、また走り出すのだろう。みっともなく、恐怖から逃れるように。


「君は、逃げるのが嫌なのかい?」

「はぁっ、はぁっ」

 影の問いかけにフレンはただただ頷いた。


「それなら君は戻るのかな?」

「はぁっ、はぁっ……わ、わからない……逃げなくちゃ、ダメなんだと思う……けど今逃げたら絶対に……後悔する……」

「君が戻ってどうにかなるとでも?」

 あのカナンという女と先輩と呼ばれる男は尋常じゃない。サニアが自分を逃がすような判断をするのなら、それが最善の選択のはずだ。自分が戻ったところで足手まといになることはわかっていた。


「どうにもならないのはわかってるよ……でも、僕はもう……」

 両足は熱を持ち、呼吸する肺はぜえぜえと苦しい、頭は割れるように痛いし、このまま眠ってしまえればどんなに幸せなことだろうかと心は願うが、フレンはそんな心をねじ伏せて、よろよろと立ち上がる。


「二度と、家族を失いたくない……!」


「そうかい。それなら頑張らないといけないね」

 フレンが両の足で地面を踏みしめると同時に、さっきまでいた影がいつの間にか消え去っていた。


「?」

 辺りを見回しても、その痕跡を捉えることはできない。何か、狐に化かされているような気分になる。

 ふと、先程まで何も握っていなかった自分の右手に目をやる。


「これは……!」


 そこには神々しく紅色の光を放つ短剣が握られていた。





 レンガというものはそこまで脆かっただろうか。

 どうにも釈然としない気持ちを抱えながら、サニアはカナンの攻撃を紙一重で避け続ける。

「ひゃー、速い速い! 忍者かなんかですかぁ!?」

 一方のカナンは自分が放つ攻撃が一発も当たらないことに戸惑いつつも、その凄まじい速度で動き回るサニアに尊敬の念すら抱いていた。


 カナンは黒革のグローブを両手に嵌めて、徒手空拳でサニアに襲いかかる。その拳はまさに“鉄拳”といったところで、サニアの避けた先にある地面だろうが家の壁だろうが、軽々と粉砕する怪力の持ち主だった。


「貴女こそ、熊か虎か。とにかく人間の腕力ではありませんね」

「どいつもこいつも、年頃の娘に向かって失礼じゃねーですか!」


 石畳の地面にヒビが入るほどに力強く踏み込んだカナンは迅速なステップで持って、サニアの眼前へと肉薄する。


 左ジャブでサニアの動きを咎めると、ほぼ同時と言っていいほどの刹那の瞬間に右ストレートを繰り出す。轟音を響かせ鉄球のような拳がサニアの頬をかすめた。


「今のは危なかったですわ」

「ぐっ!?」

 明らかに優勢だったカナンの顔が歪む。渾身の攻撃を放った右腕に意味不明な激痛が走ったからだ。


「い、いつの間に!?」

 一度距離を取ったカナンが自分の右腕を確認すると二の腕に飛刀が深々と突き刺さっていた。


「いい攻撃でしたが、腕を伸ばしっぱなしにしていては攻撃して下さいと言っているようなものですわ」

 サニアは空中で腕を振ると、袖口からさらなる飛刀を取り出し、それを握った。どうやらサニアは全身に武器を隠し持っているようだ。


「おーいカナン。そろそろ諦めようぜ。その姉ちゃんヤバイわ」

「くっ、仕方ねーですね。どうやら私よりも強いみたいですから」


 今まで傍観者を決め込んでいた先輩がカナンに近づき横に並ぶ。

 一方のカナンは突き刺さった飛刀を勢いよく引き抜くと地面に投げ捨てた。

 傷口から盛大に血が吹き出す。


 すると、先輩がおもむろにカナンに近づき、二の腕に顔を寄せると、その傷口を先輩がゆっくりと舐め取った。


「じゅるッ……」


「ハァ、マジキモいっす先輩」

 カナンは二の腕を舐められ心底嫌そうな顔をしたが、特にぶん殴ることもなく、されるがままになっている。


「さて、二人がかりで申し訳ねーが、これも仕事なんでね。恨むなよ姉ちゃん」

 そう言って、唇についたカナンの血を手の甲で拭い、不敵に笑った先輩はポケットから小さな十字架を取り出した。


「そちらの男性、プリーストでしたか」

 十字架はアリシアが以前使っていたものによく似ていた。プリーストならではの装備品と言える。


「ご名答。ただし、俺は純粋なプリーストじゃないんでな。気をつけて戦ってくれよ!」

 先輩が十字架を空中に放り投げた瞬間、カナンは先程と同じ力で大地を蹴り込むとと一直線にサニアに向かっていった。


 馬鹿正直に真っ直ぐ迫ってくる敵を見逃すわけがない。サニアは持っていた飛刀を全てカナンに向けて放出する。合計8本もの飛刀が目にも止まらぬスピードで襲いかかる。


「フッ!」


 しかし、カナンは腕を眼前にクロスさせて飛刀を真っ向から受け止めた。肘や手の甲に飛刀が突き刺さるがお構いなしと言った様子だ。血しぶきをあげながらその速度は衰えない。


「何をッ!?」


 玉砕覚悟の突進に驚いたのはサニアの方だ。飛刀で動きを止められると思っていたのだから焦るのは当然のことだった。

 急いで懐から新たな飛刀を取り出し、今度はカナンの足を狙って低空に弾き出す。


「甘ェです!」


 それを読んでいたのか、カナンは両足をついて勢いよく飛び上がると宙返りをしながらサニアの頭上へと迫る。

 空中で腕に刺さった飛刀を引き抜き、お返しと言わんばかりにサニアに投げ返した。


「そんなもの通用しませんわ!」

 しかし、カナンは飛刀を使いこなすことはできない。狙いもまばらで、速度が無い飛刀は簡単に撃ち落とされてしまう。


「うっ!」

 そのとき。無傷なはずのサニアがうめき声を上げて、顔を背けながら後方へと飛び退いた。


 ダメージはないものの、飛刀に付着したカナンの血が目に入ってしまったのだ。


「よくやったぞカナン! ――愚か者! 神の御姿を盗み見る愚かな咎人を制裁するは我が紅血! ブラッディカーズ!」


 サニアの目にカナンの血が混入したことを確認した先輩は、両手を前方に突き出して魔法を唱えた。空に浮いた十字架が赤い光を放ちながら猛烈に回転する。


「ガッ、アァァアア!?」


 そのとき、サニアの目に激痛が走る。


 あまりの痛みにサニアは叫びながら目を抑えてうずくまるが、痛みはどんどん増すばかりだ。視神経の痛みにより吐き気や頭痛まで併発し、その苦しみはサニアをのたうち回らせた。


「あぐぅうッ! き、貴様ッ、一体何をッ……!」

 目の前がチカチカして何も見えない。すぐにでも眼球を抉り出したくなる痛みに耐え、サニアは口を開く。


「普通のプリーストじゃねえって言ったろ? 俺は呪い専門のプリーストなんだよ」

「呪、い……だとぉ……!?」

「カナンの血を舐めて情報を共有したから、今やカナンの血は俺にとって立派な触媒になるわけ。それを目に入れちまったんだから、こうなるのも止むなしってね」

「ホントに舐めないといけねーんでしょうね? 嘘ついてたらぶっ殺しますよ?」

 血が止まらない二の腕を抑えながらカナンは塵を見るような目つきでもって先輩を睨みつける。


「まさか、こんなことが……!」

 呪いと言われて思い出したのがカーミラの言葉である。彼女は解呪薬の説明をする際、本来は人に使うものだと言っていた。サニアは呪いというものが人体にかけられることが決して皆無ではないことを知っていたはずなのだ。


「油断しましたわ……」

 解呪魔法がプリーストの専門スキルであることを考えれば、その逆に呪法もプリーストの専門分野であることを理解するべきだった。

 そうサニアは心の中で後悔するのだが、それはあまりに遅い後悔だった。


「これでアンタの視界は閉ざされたままだ。ま、一生そのままってわけじゃないから安心しろ。そのうち誰かに治してもらうんだな。さっきのガキを追うぞ、カナン」

「合点!」


 カナンと先輩はトドメを刺さない。視界を奪って戦闘力を無力化してしまえば、戦う意味もないからだ。地面に倒れ込むサニアを無視して、フレンが逃げた方向へと走り出した。


「待てッ! 待て貴様らァアッ!」


 何も見えない暗闇の中、無作為に取り出した飛刀をありとあらゆる方向に投げるが、聞こえてくるのは壁に当たる甲高い音ばかり。


 二人の声すら聞こえない。


「……フレン様ッ、フレン様ァ……!」

 サニアは視力を失った瞳から涙を流して、地面を這いずる。


 擦れた膝から、地面をひっかく指の爪から血が滲んだが、フレンが殺されるかもしれない恐怖の前に、痛みは露ほどに感じなかった。

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