明日何する?

ひじ

明日何する?

 目が覚めた時、彼女が最初に聞いたのは朝食を作る音だった。ベーコンの焼ける匂いが鼻を掠める。時計を見上げてから彼女は呻き声を上げながらもベッドから這い出した。彼女の中ではまだ起きるには早すぎる時間だけれど、仕方ない。お腹も空いてきたし、何より先ほどから母親が「起きなさい!」と大きな声で呼んでいるのだ。

 キッチンに足を踏み入れると、案の定母親がフライパン相手に忙しそうにしていた。リビングでは父親がちょうどテレビの電源を入れるところだ。家中が騒がしくなる。これだから朝は嫌いだ。

 ニュース番組では、昨夜遠いどこかの惑星に隕石が衝突したと報道されていた。キャスターによると、10年前にも同じような現象が観測されているらしい。番組が真面目な話題から気の抜けた星座占いに変わる頃、朝食を終えた父親がいそいそと立ち上がった。しかし彼女は横目で見送る事もしないし、父親もなるべく彼女を視界に入れたくないようだった。2人はもう何か月も言葉を交わしてない。たぶんまだ怒ってるんだろうな、と彼女は内心だが飄々と呟いた。

 入れ替わるようにして、母親がキッチンから出てくる。彼女の前にベーコンと卵、それにトーストが載せられた皿を置いた。傍らに牛乳を添えられる。反射的に顔が歪む。

「……私、牛乳嫌いだって何回言ったら分かるわけ?」

 聞こえないフリなのか、はたまた本当に彼女の声が届かなかったのか、母親からはなんの返事も帰って来ない。無視かよ、と彼女はため息をついた。仕方なくトーストを1口かじる。

 その時、視界の端に何かが映った。窓の外で猫がこちらを見つめているのだ。父親が残していったボウルを引き寄せ、グラスの中の牛乳を移す。そして窓を開け、ボウルを置いた。

「ほら、お前もお腹空いてるんでしょ?」

 猫はぴくりともせず、未だに彼女を見つめている。

「ところで、今日こそ学校行く気になったのかしら?」

 母親が彼女の背中に向かって尋ねた。彼女は振り向きもせず、ただ首を横に振る。ため息と共にキッチンへ戻っていく音がした。

 猫は警戒しながらもゆっくりとこちらへ近付き、牛乳を舐める。

 けれど彼女が手を伸ばすとすぐにどこかへ行ってしまった。

 辺りを見回しても姿は見えず、ただどこかで毛玉を吐こうとする音が聞こえたのだった。


   *****


 我々の惑星Txplsmに隕石が衝突すると発見されたのは私の仕事の初日だった。

 惑星のメインコンピューターであるマザーの計算によれば、その隕石は3分の1世代分の期間中に衝突するとのことだ。幸いな事にこの時我々は全人口を収容する宇宙船を作るだけの技術を既に有していたので、計画はすぐに実行に移された。私は国家機関の作戦部隊に配属されており、この日から信じられないほど忙しかった事を覚えている。

 隕石がTxplsmに衝突したのは、我々が宇宙船に乗り込んでから5分の1世代分の時間が経った後の事だ。マザーの予測した座標よりも0.0058tkm左にズレたが、それすら予測の範囲内だった。同じ頃、我々は別の銀河系にある第三惑星に我々が住めるような環境を発見した。我々の技術をもってすれば、その惑星まで移動するのは困難なことではないだろう。


   *****


 誰もが学校や仕事に出かけた後の、朝と呼ぶには少し遅く、昼と呼ぶにはまだ少し早いこの時間帯が彼女は好きだった。どこへ出かけたとしても、誰に会わずとも済むから。両親は彼女が家から一歩も出ていないと思っているようだけれど、正確に言えば彼女は結構な頻度で学校に通っていた。もっとも、『通う』というよりかは『教員に見つからないよう外から見ている』という方が正しいのだけれど。

「今日は木曜日だから……」

 独り言をつぶやきながら、校舎の外から音楽室を覗き込んだ。彼女の友人だった女子生徒がふたり、教科書の下に隠れながらおしゃべりをしているのが見える。

 すると不意に聞こえたのは猫の鳴き声だった。辺りを見回すと、生垣から見覚えのある猫が顔を出す。

「お前、こんな所まで来るんだね」

 思わずそう話しかけ、ゆっくりと猫に近付く。しゃがみこんで手を差し出すと、おずおずといった様子で猫が彼女の手を嗅いだ。今朝誰がお腹を満たしてやったのか覚えていたらしい。満月のような目が彼女を射抜いたかと思うと、猫は音も立てずに遠ざかる。けれど視線はずっと彼女を捉えたままで、まるで「着いて来い」と語りかけているかのようだった。



 猫に着いて行くまま彼女が訪れたのは校舎のある一角だった。今まで誰の目にも止まらなかったんじゃないかと錯覚するような暗く影の薄い場所で、でもそこでは少女がひとり蹲っていた。制服を着て、カーディガンの中に隠れるようにして膝を抱え込んでいる。

「ここで何をしてるの?」

 思わず漏れた言葉はその少女の肩を跳ねさせた。けれど声の主が教師でない事を知って、少女はほっと胸をなでおろす。

「……いっかいズル休みしたら、行き辛くなっちゃって」

 そう言って苦笑する少女の隣に、彼女は座り込んだ。上手く言えないけれど、彼女はこの少女がどこか自分と似ていると思ったのだ。

 猫がふたりに近寄り、投げ出された彼女の脚に登る。毛玉を吐くような音を出した後、くるりと丸まった。急に懐いてきた、と驚きながら撫でようとするとその手を噛もうとしてくる。まだ完全に心を開いたわけではないらしい。

「それ、あなたの猫?」

 少女が問いかける。彼女はただ首を横に振り、少女を見やった。誰かの目を見たのは久しぶりのような気がする。

「……きみって、私に似てる」

「私が?」

 彼女は頷く。この少女の何かが、頑なだった彼女の心を素直にさせるようだった。

「友達が急に私のこと無視し始めてから、もうずっと欠席してる」

「私はお休みするほどの勇気はないなぁ。親がうるさいから、毎日登校だけはしてるの」

「勇気なんていらないよ」

 猫を抱きかかえながら彼女は立ち上がった。もうすぐ母親が買い物から戻ってくるだろうから、その前に帰らなければいけない。

「明日ここで待ってて。サボり方の勉強しよ……なんてね」

「えっと……うん、分かった」

 少女が微笑む。彼女も自分の口角が上がるのが分かった。

 猫がするりと腕から抜け出る。そしてあっという間に何処かへ行ってしまったのだった。


   *****


 件の太陽系に到着する直前、我々はその第三惑星についてよく調べる事にした。惑星は驚くほど大きいという事以外、我々の星とほとんど変わらぬ自然環境をもつようだ。大方の予想通り、惑星には既に知的生命体が誕生しており、彼らは自分達の事を『人間』、そして彼らが住む惑星の事を『地球』と呼称しているようだった。人間は未だ発展途上にあるようで、彼らのテクノロジーは我々のものと比べて約100世代ほどの遅れが生じている。

 早速この惑星へ移住するにあたって、どのような方法をとるかという会議が開かれた。当初は侵略という意見が多かったが、マザーによると今ある社会に溶け込む方がコストと時間を節約できるらしく、我々はその通りに動くことにした。

 人間という生物は四つ足の生物をライフパートナーにする傾向が強いため(彼らはその生物の事を『DOG』もしくは『PET』と呼んでいるようだ。どちらも同じ生物に見えるが、後の研究で違いを発見できる事を期待する)この習性を利用する事にした。この強大な星で違和感なく生きていくため、新しい外套を製造する事にしたのである。

 外套はこの惑星を構成するありとあらゆる物質––炭素を主な成分としている。人間の幼児のような丸い顔に、彼らが庇護したくなるよう手触りを重視した体躯、大きめの耳と髭はマザーからの情報を受信する為のものだ。更に我々の感情を人間にも分かりやすく表現するため、長い尻尾も取り付けた。

 作戦の最終段階では私を含めた先行部隊が、地球に存在するありとあらゆる記録媒体に我々が人間と歴史を共にしてきたフレンドリーなパートナーだと書き加えた。人間たちは「自分達で確かめた事のない事柄でも、記録に残っていれば簡単に信じてしまう」という面白い習性を持っていた為、それを利用したのである。

 しかし我々の科学力をもってしても、この外套には一点だけ致命的な弱点があった。それは炭水化物、脂質、タンパク質のいずれかを摂取し続けなければ腐ってしまうと言う点だ。だがこの3つは地球には豊富に存在しているので、経口摂取をし続ければ問題ではないだろう。

 我々はこの新しい外套を地球で最も普及している言語を借りて“CFP Archaic Txplsm”と名付けることにした。縮めてCATである。彼らにはいくつかの言語形態があるようだが、勝手に自分の言語へ翻訳してくれるだろう。

 このようにして我々の作戦が完成したのだった。

 そして、我々がこの作戦を実行してから実に半世代分の時間が経過している。


   *****


 同じ日の夕方、彼女は家のすぐ外で例の猫を発見した。

「お前、また来たの?」

 今朝と同じように窓を開ける。この猫は随分と人慣れをしているようで、今朝の警戒心が嘘のように彼女の元へやってきた。何かを訴えるような目でじっと見つめてくるので、そうだ、とキッチンへ向かう。冷蔵庫を開けると中にはいくつか猫の好きそうなものが入っていたけれど、彼女は迷わず牛乳パックを取り出した。こうして少しでも減らして置けば、明日の朝飲まずに済むかもしれない。

 白い液体を適当な深皿に満たして、猫の前に置く。猫は寸分おかず牛乳舐め始めた。そっと頭に触れる。今度は逃げられなかった。

「……お母さん」

「どうしたの?」

 母親がキッチンから顔をのぞかせる。彼女は猫の腹を撫でながら尋ねた。

「この子、飼ってもいい?」

 母親が彼女の隣まできて、密かに目を丸くした。ここ数ヶ月一度も見ていなかった娘の笑顔が、そこにあったのだ。

「ちゃんと自分でお世話するのよ」

 断る理由などどこにもなかった。


   *****


 重大な事実が送られてきた。マザーが新たに計算した結果によると、この惑星の資源はあと3世代分の時間で枯渇してしまうらしい。我々がこの星に着陸する前の計算では少なくともあと3000世代分の時間が残されているとの事だったので、こんなに早く資源不足になられては移住しても意味がなくなってしまう。しかし、正直なところこの結果には納得せざるをえない。半世代分ほどの時間、人間を間近で観察してきたが、彼らは我々の想像を上回る速さで資源を消費しているのだ。

 マザーの計算は止まらない。翌日には更に新しい情報が届き、それによると我々は庇護対象として人間社会に溶け込むよりも彼らに取って代わった方が良いという結論に達したようだった。幸いにも、我々が地球で生きる為の外套は人間の身体と成分上あまり変わりない。我々が侵入してもすぐに馴染むことができるだろう。

 母星Txplsmを離れたとしても、私が先行部隊の一員であることに変わりはない。私がこの作戦を最初に実行し、人間について更に深く学ぶべきだろう。


   *****


 月の綺麗な夜だった。彼女はベッドの上で何度目かの寝返りを打つ。もうずっと目を瞑っているのだけれど、どうも眠れないのだ。

 頭の中を巡るのは、今日学校で出会った少女の事と、その子とした約束。とても短い時間だったけれど、会話を思い出すだけで胸の中が妙にそわそわした。

 明日は何しよう、と歌うように心の中で呟く。

 そんな彼女を尻目に、猫が音も立てずにベッドへ飛び乗った。彼女の顔を覗き込むと、おもむろに毛玉を吐き出す。それは偶然にも彼女の半開きの口の中へ入り、彼女は飛び起きてすぐに毛玉をつまみ出した。

「ちょっと!……って」

 思わず怒鳴り声をあげそうになったが、すんでのところで止める。猫が既に無垢な顔をして深く眠り込んでいたからだ。きっとこの子もわざとではなかったのだろうと自分に言い聞かせ、彼女はため息をひとつついて再び横たわる。

 今度は何故か、気を失うよりも早く眠りにつくことができた。



 日が昇ると、彼女は朝食の匂いを嗅ぐ前に目を開けた。服を替え、カバンに必要な物を詰めて部屋を出る。キッチンでは父親がパジャマ姿のままコーヒーを飲んでいた。

「おはよう、お父さん」

 声をかけると、父親は混乱したように彼女をじろじろと見つめる。

 やがていつものようにベーコンの焼ける匂いがして彼女が鼻をひくひくと動かす頃、同じように戸惑いの顔色を見せる母親が、それでも朝食の乗ったプレートを忘れずに運んできた。父親と彼女の前にそれぞれ皿を置くと、すぐにミルクの入ったグラスが続く。彼女はグラスを手に取ってひとくち飲み、顔を歪ませた。

「何これ、まっず!」

「……今日こそ学校へ行く気になったの?」

 そんな彼女の顔を覗き込み、戸惑いを半分期待に変えた母親が尋ねる。彼女は頷き、少し笑った。

「だって、たくさん勉強しなきゃ」

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