ガトーショコラにkissを
「今年のバレンタインは、ちょっと頑張ってもらいます」
真面目な顔をした恋人に正面で正座されて、そんな風に言われたら、大抵の男が考えることは決まっている。
──頑張る?
それは、あれか。金銭的にか。それとも、体力的にか。
高級レストランでバレンタインディナーと、デザート。そのあとでホテルスイートで高級チョコをつまみながら高級シャンパンなどというテンプレか。
もしくは、その日は一日中ベッドから出してやらないぜベイベー、ってやつか。
金銭の方は自信がないが、体力ならば、まだ、なんとかなるかもしれない。半端じゃない美しさ──と、食欲──を持つ、5つも年下の恋人を持つと、色々大変だなあ、などと一人うなずいていたら、お前が目の前にべらりとコピー用紙を並べた。
ソファの俺は、読んでいた雑誌を傍らに置き、身を乗り出して、広げられたその用紙を覗き込んだ。
やたら茶色い、丸い塊がずらりとならんでた。
コピー用紙はざっと10枚ほど。
そのどれもが、ガトーショコラのレシピを印刷したものだった。
「ネットで評判のレシピがこちらです」
お前の丁寧語に、嫌な予感がした。お前はさらにモノクロのコピー用紙を同じくらいの枚数取り出して、同じように床に広げた。
「そしてこちらが、人気の料理本から抜粋した分です」
家で探して印刷できるネットレシピはともかく、こちらのモノクロは、わざわざ図書館まで行って、ひたすらお菓子のレシピ本を眺め、めぼしいものをピックアップしてコピーしてきたのだという。
「……お前のその食べ物に対する情熱──というか、執念は、どこから来るんだ」
俺が呆れたように訊ねると、お前は両手を胸に当てて目を閉じ、
「心のずうっと奥深くから、自然と湧き上がってくるのです」
などとのたまう。
「まあ、高級ディナーとスイートルームじゃなくてよかったけどな」
「してくれてもいいよ」
「冗談だろ」
お前が満足いくまで高級レストランでディナーなんて、確実に破産する。
「──で、どれを焼けって?」
どうせこの中で気になるレものを焼いてくれということなんだろう、と勝手に判断して、俺は問う。
「全部」
「…………」
数枚持ち上げて目を通していた俺は、一瞬、自分の耳を疑った。
「今、何つった?」
「全部」
俺は、床に広がるコピー用紙を見下ろした。
ざっと、20枚。
「──冗談、だよな?」
「言うと思った。まあ、さすがに全部は多いかから、その半分でいいよ」
それでも約10枚。
「調べてみてびっくりしたんだけどさ、ガトーショコラってすごく沢山レシピあるね」
お前は広げたレシピを一枚ずつ品定めするように持ち上げては右に、左にと移動させている。
「チョコを使わないガトーショコラって、もうガトーショコラじゃないような気がするよね」
俺の手からも用紙を奪い取り、それも首をひねりながら、並べる。
「卵とチョコだけっていうレシピもあるんだよ。──こっちは、生クリームとココアパウダー入り」
床に列をなした用紙を見下ろし、腕を組んで、さらに何枚か入れ替える。
ようやく、お前がそのレシピに順位付けしているのだと気付いた。
「ブラックココアパウダーって、何?」
「アルカリ処理した、黒いココアだな」
「へー。普通のココアと違うの?」
「いや、色が黒いだけ。香りはいまいち」
「ふーん」
お前が順位をつけ終えた用紙を見下ろして、下位の7~8枚を排除した。まとめて、テーブルの上に置いて、残ったレシピをまた、吟味するように見つめる。
「──これ、絶対。あとこれ。それから、これも」
ひょいひょいと用紙を持ち上げ、俺に押し付ける。
「これね、しっとりと、ふわふわがあるんだけど、やっぱりしっとりの方がおいしい?」
「そこは好みだろ。──そのほかにも、どっしりタイプもある」
「ど、どっしり……それは、絶対食べないと」
「同じレシピでも使うチョコによっても変わる。ミルクやスイートなら、甘くて食感は軽い。ダークやビターなら、重めでもろっとした食感になるしな」
「……それも、両方」
「集めたレシピはどうすんだ」
「うう、だって」
お前がうなる。
「──昔、どうしてもチョコレートケーキ食いたくなってさ、でも、買ったものは甘すぎるし、もっとチョコに埋もれたい! って思って、業務用のダークチョコを買って作ったんだよ」
お前が目を輝かせて俺を見上げてきた。
「かなり甘さ控えめの、とにかくチョコまみれのガトーショコラだったけどな」
「おいしかった? おいしかった?」
「それはもう。しっとりしてるのに、もろっもろで、フォーク入れると、ずっしりしてて、食べるととにかく重厚で、これでもかってほどの苦くて濃いチョコレート味」
「うわあ」
今にもじゅるりと音を立てて舌なめずりしそうな顔のお前を見下ろして、おかしくなった。思わず笑うと、お前が我慢できなくなったように、
「それ、食べたい! それも! ただし、甘-いホイップつけて!」
実のところ、作ったはいいが、結局一人で食べきることができなくて、しばらく冷蔵庫に入れっぱなしにしておいた。結果から言うと、カビを生やしてしまい、夢の島行きになってしまったのだが、こんなことをお前に言ったら本気で怒られてしまいそうなので、黙っていた。
「カカオ含有分が高いと、結構な値段なんだよな、製菓用のチョコは」
「いいじゃーん、バレンタインだし。愛しい彼氏においしいチョコを食べさせてあげたくない?」
「…………」
俺も、彼氏なんだがな。
「業務スーパーに行けばいいの? いつ行く? 今? 今行く?」
「少し落ち着け」
「だって、世の中バレンタインだよ。売り切れちゃう」
「んな馬鹿な」
いくら何でも、キロ単位で売っているチョコレートが、そう簡単に売り切れるはずがない。店で使うとか、よほど大量にチョコレートを作るのであれば別だが、一般的な手作りチョコには向かない量だ。
「とりあえず、どれを作るか決めてからでも遅くない」
俺は、押し付けられたレシピを一枚ずつ確かめた。さすが、食べることが生きがいみたいなお前が選んだだけあって、どれもいいレシピだ。
「結局、何個焼けばいいんだ?」
「いくつでも」
「──どうすんだ、そんなに。腐るぞ」
「その前に食べちゃうから平気」
うん、簡単に想像できてしまった。
お前が、ホールのガトーショコラをぺろりとひとつ、飲み込む姿が、とても容易に。
「分かった。こっちで適当にいくつか選んでおく」
「うん」
「──で、愛しい彼氏の俺に、お前からのチョコはどうなってるんだ?」
お前はにっこり笑って、
「それは、当日までのお楽しみ」
まるで、末尾にハートでもつきそうな口調で言って、お前がウインクを飛ばした。
惚れた弱みというのは恐ろしい。
全部で9個のガトーショコラを焼いた自分を、褒めてやりたい。
ここ3日、夕飯のあと、オーブンはフル稼働。焼きあがった分は皿にのせ、ラップをかけて、冷蔵庫に入りきらない分はうちの中で一番涼しいと思われる玄関に並んでいる。キッチンどころか、部屋中チョコレートの匂いに侵されて、なんだか頭が痛くなってきた。
それでも、俺は頑張った。
初めに「ちょっと頑張ってもらいます」なんて言われ、それを了承してしまったのだから仕方がない。甘ったるい香りが充満する家の中で、逃げ場はない。いっそマスクでもしようかなと思ったけれど、そのうち鼻が馬鹿になってくれるのを期待して、そのまま耐えた。
ところが、今現在も、俺の鼻は、まだ正常に働いている。──とにかくチョコの香りが俺までも侵す。
購入した製菓用のチョコレートは、ダークチョコが500グラム、スイートが1キロ、セミスイートが1キロ。馬鹿げている。
ダークチョコのどっしりもろもろガトーショコラ、アーモンドパウダーたっぷりのもの、生クリーム入りのしっとりタイプ、バターとチョコレートのみで作るチョコがダイレクトに感じられるタイプのものもあれば、ふわふわのスフレタイプ、同じくチョコ少なめのふんわりスポンジタイプまで様々だ。
チョコレートまみれのものばかりだと飽きるだろうから、と、9個のケーキにさりげなくチョコマーブルのパウンドケーキと、チョコレートマーブルにしたチーズケーキも作った。
我ながら、呆れるくらい、お前に従順だな、と思った。
バレンタインの夜、控えめに食事を終え、俺は、用意したケーキを運んだ。冷蔵庫から、玄関から、ベランダに通じるガラス扉の前から、家中の涼しい場所を占領していたそれらを、一堂に集めた。ちょこちょこと覗き見して食べたいなあ、なんてつぶやいていたお前だが、さすがに全部を一気に見たのは今日が初めて。
「すっごーい!!」
お前が歓喜に震え、うひゃーと奇声を上げた。
「どれもおいしそう。ありがとう、ありがとう!」
俺の手を取ってぴょんぴょん飛び跳ねると、急に大人しくなり、テーブルの前に座って自分の顔をぱちんと叩いた。──臨戦態勢である。
俺は、すべてのケーキのラップを外し、大き目のフォークを一本、お前に渡してやった。
「好きなのから、好きなだけ、食っていけ」
お前がこくこくこく、と力強くうなずいて、ぐるりとケーキを見回した。そして、フォークでケーキをすくっていく。
「おいしい」
「よかったな」
「ああ、スフレ! ふわふわ! やばい、しゅわしゅわする」
「温かいうちもうまかったけどな」
「冷めててもおいしいー」
見事に、次々とケーキにフォークを入れ、一口ずつ食べている。
──すごい絵面だ。
9個のチョコレートケーキに囲まれたお前は、幸せそうにとろけるような笑顔を浮かべている。
「おいしい、たまんない、幸せ。もう、最高に愛してる!」
「──ケーキのないときも言ってくれ」
「言ってるよ」
確かに。
「ところで」
俺は、コーヒーを飲みながら、ばくばくとケーキを食べ続けるお前に訊ねる。
「俺も、かなり楽しみにしてるんだけど」
お前がフォークをくわえて思い出したように、あ、とつぶやき、急いで部屋に走った。フォークを持ったままで。
すぐに戻ってきたお前は、右手にフォーク、左手に小さな紙袋を下げていた。俺にそれを渡そうとして、右手のフォークに気付き、適当な皿に置いて、紙袋を両手で俺に差し出した。
「ありがとう」
俺はそれを受け取り、中の小さな箱を取り出す。ふたを開けたら、四角いチョコレートがおとなしく収まっていた。
さすがの俺でも知っている、ショコラティエの名前がまんまブランド名になった高級チョコレート。カラフルにも見えてシンプルなその装飾と、甘すぎない香りがさわやかだ。
「ビターだから、あんたでも大丈夫」
「きれいだな」
たった数個のチョコレートが、センスのいいシックな箱に収まっている。きっとびっくりするくらい高いのだろうけど、「当日までのお楽しみ」にするには、普通すぎるなと少し落胆した。
こちらは甘い香りに頭痛を起こしてまで山のようにケーキを焼いたのに。
「あのね」
お前が、それを、自分の口に運んだ。
「──お前が食うのかよ」
思わず苦笑したら、お前もチョコをくわえたまま笑った。そして、俺の上に乗り上げて、顔を近付け──
なるほど。
俺は、オプション付きのそのチョコを、受け取った。繊細なチョコレートはわずかな体温で溶け出していた。お前の唇に一瞬だけ触れ、その塊を口の中に収めると、ぺろりと唇をなめられた。
「ん、やっぱりおいしい」
「──俺のだろ」
「分け合うって、素晴らしいよね」
このままでは、俺のためのチョコレートまで食われてしまいそうだ。
「お前は、こっちを食えよ。必死で作ったんだから」
テーブルに並んだケーキを指さすと、お前がにこりと笑ってぎゅっと俺に抱きつき、すぐに身を起こした。
「食べる」
俺から下りて、さっきと同じようにテーブルに乗り切らなかった分まで全部ぐるりと見回して、一番手前のケーキに、えい、とフォークを刺した。
「これ、例のもろもろ? すっごいおいしい」
俺の思い出の──カビさせたことは、やっぱり内緒──ダークチョコレートケーキ。お前のリクエスト通り、甘いホイップクリーム付きだ。
「重いよ、重すぎる! 笑えるくらい重厚で濃厚!」
お前が、そのケーキの皿を持ち上げ、どっしりとしたそれにキスをした。そして、思いきり笑いだす。
けたけたと笑いながら、お前がまたケーキを食べる。ケーキが濃厚なだけでこんなに笑える人間もそうそういないだろう。
「あー、もう、幸せ!」
「それはなにより」
俺は、たった一粒のチョコレートしかもらってないけどな。
残りのチョコは5個。あと5回、口移ししてくれるんだろうか、と考えていたら、お前がひょいと俺の手からその箱を取り上げた。
「もっと食べる?」
「いや、今日はもういい」
散々チョコレートの香りに侵され、せっかくのお前からのチョコも、おいしさが半減しそうだ。
「──ねえ、買ってきた製菓用チョコ、まだ残ってる?」
「山程な」
「あのさ──」
お前が、いたずらっぽく笑う。
「チョコレートプレイって、興味ない?」
一瞬、思考が停止した。
溶けたチョコレートをぶちまけて、その白い肌が、茶色に染まる。
──甘い。
溶けるそれを、舐めとって。
お前のことだから、きっと、全部舐め尽くす。俺の身体にも、自分の身体にも散ったその温かい甘い香りを吸い込んで。
ぐらぐらと、世界が回る。
──勘弁してくれ、と俺は思った。
9個のチョコレートケーキ。
その甘い香りに包まれ、毒され、めまいがしそうだった。
「そういうのは、素面のときに」
「──お酒、飲んだっけ?」
お前がきょとんとする。
酒は飲んでいない。
俺が酔っているのは、チョコレートの絡みつくような香りと──
「お前にだ」
甘えるようなお前の視線と声に、きっと、平衡感覚を失う。
甘く、濃厚に。
「俺?」
お前はさらに目を丸くして、かくんと首を傾げて不思議そうな顔をした。
了
ええと……チョコレートプレイに関しては、目をつぶってください、血迷いました。
おいしそうだけどな……じゅるり。
ちなみに、一日に焼くケーキは、3個が限度です。疲れます。ていうか、家中甘い香りで、気持ち悪くなります。
オーブンは、休ませてあげてください(笑
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