歩いて帰ろう


 包丁を研ぐのは結構好きだ。

 30分以上水に浸けておいた砥石を濡れ布巾の上に固定し、包丁を当てる。角度をつけ、右手で持ち手を、左手の指先で研いでいる刃の裏側をそっと押さえ、一定の力を入れて研いでいく。

 刃が軽くめくれるくらいまで研いだら、裏返してそのかえりを削るように軽く研ぐ。

 親指の爪に刃を当て、ひっかかるならオーケー。

 俺は、研いだばかりの出刃包丁を右手に、よっしゃ、と気合いを入れた。

 これから、俺は、シンクの中にみっちりと詰まったこいつらの腹を片っ端から掻っ捌いて、スプラッターを展開するのである。

 俺はまな板の上に、シンクから持ち上げた一匹目を乗せ、ざくりとその頭を落とした。

 カウンターの向こう側で、お前と弟が、うわ、と声を上げて、顔をひきつらせた。


 土曜日、昼下がり。

 突然うちを訪ねてきたのは弟。玄関を開けると、キャップにサングラス、ジーンズに、妙に近未来的にも見えるやたらとおしゃれなマウンテンパーカーを着て、どでかいクーラーボックスを肩にかつぎ、困ったような笑顔を浮かべていた。俺の後ろから顔を出したお前が、あきくんだ、と言った。

「はあ? いつからそんな呼び方するようになったんだ?」

 思わず突っ込むと、お前はきょとんとして、

「この前から」

「あきくん、て」

「──やきもち? なんならあんたも、あっくん、とか、あさくん、とか呼んであげよっか?」

 にやにやしながらそう言って、俺の腕にくっついてくる。

「やめろ。そう呼ばれて喜べる年じゃない」

「いいじゃーん、かわいいよ?」

「かわいくない」

「かわいいのにー」

 俺とお前のやり取りをしばらく黙って見ていた弟が、うんざりしたような顔をして、溜め息をついた。

「客を待たせて、玄関先でいちゃつくのはやめてくんない?」

 ──おっと、忘れていた。

 俺は身体をずらして、スペースを開け、入れ、というジェスチャーをした。弟が重たそうにクーラーボックスを押さえて中に入ってきた。長靴というにはあまりにもかっこよすぎるそれをを脱いで、俺にクーラーボックスを渡す。

「シャワーと着替え、借りていい?」

 釣りの帰りだと言うことは格好と持ち物で分かった。最近の釣りの服装はやたらとおしゃれである。ガタイがよくて背の高い弟が着ると、ただの釣り、というよりは、フィッシング、と横文字で言った方がよさそうだ。釣り雑誌で「最新フィッシングファッション」などというグラビアでもできそうだな、と思うのは身内のひいき目か。

 受け取ったクーラーボックスは馬鹿みたいに重かった。お前が俺の部屋から適当な着替えを取ってきた。それを弟に渡すと、

「ところでさ、これ、中身何?」

「鯖」

 素早く着ていた服を脱いでバスルームに飛び込んだ弟が、扉を閉める直前に言った。

 俺とお前は顔を見合わせ、キッチンまで運んだクーラーボックスのふたを開けた。中身は、確かに、鯖だった。

 ただし、クーラーボックスいっぱいの、すし詰め状態。俺は思わずぱたんとそのふたを閉めた。

「────」

「何で閉めるの?」

「嫌な予感しかしない」

 結果的には、大当たりだった。

 シャワーを浴びてすっきりした顔でリビングにやって来た弟は、俺のスエットを着てタオルで髪を拭きながら、言ったのだ。

「兄ちゃん、その鯖、どうにかしてくんない?」

 俺は、とりあえず砥石を水に浸け、その30分でコーヒーを飲んだ。数え切れないほどの鯖と対峙するには、少し気合いを入れなくてはいけない。

 ──と、いうわけで、俺はキッチンで鯖の頭を落としまくり、内臓を引きずり出しまくっているのである。

「うーわ、グロ」

「なんか、頭がぼこぼことタライに溜まっていくのって、シュールだねえ」

 落とした頭は、金ダライに入れている。あとでまとめて新聞紙に包んで捨てるためだ。内臓の方は面倒なのでシンクに落とす。排水溝のネットに溜まったら、その都度まとめて水気を切っていく。20匹ほどの頭を落としたら、お前がタライの頭を全部上向きに並べていた。

「すごい絵面だね」

「遊ぶな」

 俺が注意すると、お前が古新聞を抱えてきて、適当に新聞紙に包んでいく。もちろん染み出さないように何重にも巻いて、ビニル袋に入れ、それをさらに大き目のレジ袋に詰め、ようやくゴミ袋に入れる。

 鯖は全部で34匹もいた。その全ての頭をと内臓を落とし、一旦きれいに洗う。次は三枚におろしていく。包丁を、まずは背側から入れて身を離し、次に頭を落とした切り口から身と水平に包丁を入れ、中骨に沿って身を切り分ける。中骨を挟んで両側とも切ったら、平たいザルの上に並べていく。

 全部捌くのにかかったのは一時間ほどだった。思ったよりかからないものだな、と思いながら、俺は包丁とまな板を洗う。お前と弟は2人でゴミの始末をしていた。

「飯、食ってくのか?」

「うん。ついでに泊めてくれると嬉しい」

「図々しいな」

 溜め息交じりでそう言ったが、弟が週末にやってくるときは、大抵泊まりになることが多い。とりあえず米をとぐことにした。いつもより多めにといで炊飯器のタイマーを入れた。

「決を取る」

 一旦キッチンを離れ、俺はリビングのソファに座った。床に座ったお前と弟が、こくこくとうなずく。

「和食と洋食、どっちだ?」

「どっちも」

 当然だが、これはお前。俺が呆れた視線を向けると、知らんぷりしてそっぽを向いた。そんな様子を見ながら、弟が困ったような顔をし、言った。

「和食」

「味噌煮と竜田揚げだったら?」

「両方」

「両方」

 これは、2人の声が揃った。間髪入れず、とはこのことで、2人ともきらんと目を輝かせている。

「──了解」

 俺は諦めて、うなずいた。食欲魔人の前で決なんて取れないことくらいは分かっていた。

「ちなみに、他はどんなメニューが?」

「そうだな──南蛮漬けとか、塩鯖、香草焼きにトマト煮、照り焼きやかば焼きもいいな」

「おいしそう……」

 お前がごくんと喉を鳴らす。

「売るくらいあるんだし、それ、全部作って」

「いやいやいや、どんだけ食う気だよ」

「あ、残ったらちゃんと持ち帰るよ。親父と母さんにも食べたいって言われてるし。──生ゴミ出るから頭付けたまま持ってこないでって言われちゃってさ」

「──お前、うちが生ゴミまみれになるのは無視かよ?」

「ええと……兄ちゃん、お土産があります」

 弟はどこから取り出したのか、さっとレジ袋を取り出した。顔をしかめて受け取り、中を覗くと、ブルーチーズとカマンベールチーズが入っていた。どうやら、うちに来る前にスーパーで買ってきたらしい。鯖34匹を捌く対価としては少し少ないが、俺の好きなものを買ってきたというところは評価することにした。

「──仕方ないな」

 俺は再びキッチンに戻り、チーズを冷蔵庫にしまった。専門店のものではなく、スーパーで手に入る大衆品だが、これも充分うまい。

「さて、と」

 俺はステンレス製のバットにたっぷりの塩を敷き、そこに3枚おろしにした鯖を10枚、並べた。全体的に塩がまぶされるように、上下ともしっかりと多めにかぶせるようにふる。真っ白に染まった鯖が、じわじわと水を出していくので、網に乗せてそのまま常温で1時間ほど放置。

 それとは別に10枚の鯖に塩を全体的に軽くふり、少し置いて、出てきた水分をキッチンペーパーで拭いて、さらにキッチンペーパーを敷いた容器に入れてふたをし、冷蔵庫へしまう。これは明日以降に料理する。残ったものは、1枚ずつラップに包んでジップバッグに入れ、冷凍庫行きだ。

 腹骨を削ぎ落し、大きい骨を骨抜きで抜いて、ぶつ切りにし、ネギ、しょうが、酒、小麦粉とともにフードプロセッサーにかけてから丸め、団子にする。これは煮立った湯に落として火が通るまで煮、アクを取って塩としょうゆで味付けし、お吸い物に。食べる前に千切りのネギを散らして完成。

 骨と皮を除いた鯖を包丁で叩いて細かくし、しょうがみじん切り、戻した干しシイタケのみじん切り、ニンジンみじん切り、ネギみじん切りとともに炒め、酒、塩、砂糖、みそを加えて水分を飛ばすようにしてさらに炒める、しょうゆ少々で風味付けし、さらに炒めて鯖そぼろ。

 2等分に切った鯖は水、酒、砂糖、しょうゆ、味噌で調味した煮汁の中に入れてくつくつと煮込み、鯖の味噌煮を作る。

 骨を除き、1枚を3~4つにぶつ切りしたものは、塩コショウして下味をつけ、片栗粉をまぶし、油でかりんと揚げる。しょうが醤油で下味をつけた方も、同じように片栗粉をまぶし、揚げる。竜田揚げの完成。

 塩漬けにしていた鯖を酢で洗い流して塩を落とす。バットに砂糖少々を入れた酢を注ぎ、よく混ぜ、鯖を漬け込む。15分ほどしたら裏返し、しっかりと30分ほど酢〆にする。酢から引き上げて腹骨を削ぎ切り、骨抜きを使って骨をきれいに取り除き、裏返して端から薄皮をぺろんと剥いていく。適当に切り分け、しめ鯖の出来上がり。

 お前がテーブルに取り皿や箸を並べ、しょうゆとわさびを用意した。弟はテーブルの前でにこにこしながら待っている。

 料理を並べてご飯を渡してやると、お前がうきうきと両手を合わせた。

「いっただっきまーす」

 俺は弟に缶ビールを渡してやり、とりあえず2人で軽く乾杯。気持ちよさそうに冷えたビールを流し込んでから、弟も箸を取る。まずはしめ鯖に箸を伸ばした。

「うわ、うま。絶妙だね、塩気も、酢加減も」

「結構脂乗ってるな。塩付け1時間で正解だったな」

 あっさりしたものなら短めに、脂がのっているものなら長めに塩漬けにしてしっかりと引き締める。この時間配分がなかなか大事である。

 酒のつまみ代わりにつまんでいく俺と弟とは対照的に、お前は今日も白飯と交互におかずを口に運んでいる。いつ見てもきれいなローテーションでぐるぐると余すことなく並んだ料理をどんどん食べていく。

「──食いっぱぐれるなよ」

 弟に忠告してやると、慌ててビールを飲み干し、俺にもご飯、と言う。俺は苦笑しながら客用の茶碗にご飯をよそい、渡してやる。

 ぱくぱくと2人で勢いよく食べていくさまを、俺はビール片手に見物だ。

 多分、夕飯だけで10匹近くの鯖を消費したに違いない。

 後片付けは任せてくれと弟が言うので、お前と弟が2人並んで食器を洗って片付けるのを、ソファで見ていた。ひとつしか年が離れていないせいか、弟の対人スキルの高さか、やたら楽しそうに喋っている。

 いつの間にか愛称で呼ぶくらい打ち解けているのは、俺の知らないところでメールのやり取りなんかをしているかららしい。まあ、仲がいいのは単純に嬉しい。父親とは不和だから、俺が唯一顔を合わせるのはこの弟だけだ。大事な人間同士が仲良くしているというのは、いいものだと思う。

 ──しかし。

 2人の会話を聞いていた俺は、何だかいたたまれない気分になってきた。

「兄ちゃんはさ、昔からかっこよかったよ。表立ってリーダーって感じじゃないけど、二番手に甘んじてしっかり縁の下で支えてるって感じで」

「かっこいいよね。うん、かっこいいよね」

「野球やってた時も、絶対キャプテンにはならないんだけど、必ず副キャプテンとかなんだよ。精神的支柱、みたいな」

「うんうん」

「パッと見目つき悪いから怖がられたりするんだけど、実はめちゃくちゃ優しいし」

「優しいよね」

「包容力あるし」

「頼れるし」

「余裕あるし」

「甘やかしてくれるし」

「かっこいいよな」

「かっこいいよねー」

 ──お前ら、どれだけ俺のこと好きなんだよ。

 俺はソファで1人、赤面する。

「そんなだから、実は密かにモテててさ」

「あー、やっぱり」

「昔から、ここぞ、って感じでモテるんだよね。無自覚に優しくして、その女の子狙い撃ち、みたいなさ」

「罪だねえ」

「何で彼女作らないんだろうって思ってたんだけど──理由知って納得」

「女は対象外だからねえ」

 お前がうんうんとうなずいている。

「まさか自分の兄がゲイだとは思わなかったけど──考えてみたら、女よりも男にモテるんだよ、兄ちゃんは。昔から友達も多かったし、先輩からもかわいがられて、後輩からは憧れられて、何でこんなに男に囲まれてんだ、って本気で思ってた」

「──へー」

 お前の目が心なしか据わっている。

「ハーレムだね」

「……違う」

 俺は思わずつぶやいた。流しで食器を洗っているお前に聞こえたのかどうかは微妙だが、弟は楽しそうに笑っている。こちらは確信犯。

「今までも、恋人いたのは知ってたけど、ちゃんと会わせてくれたのは初めてだよ」

「──本当に?」

 お前の機嫌が少し良くなった。照れたようにうつむき、スポンジを泡立てている。

「大事にされてんね。ベタ惚れだしね」

「そ、そうかな」

 何だこれ。

 俺は右手を額に当ててうなる。

 まるで公開処刑されている気分だ。

 片付けを終えた2人がキッチンを出て来たので、俺はコーヒーを入れた。お前用にデザートのマフィンを出してやったら、弟も手を伸ばす。プレーンなそれは、バニラとバターの香りがして、上に乗ったぽろぽろのクラムがアクセントになっている。

 ソファに座った俺とお前の前、床に胡坐をかいていた弟が、ふわあとあくびをした。釣りは朝が早い。たいして眠っていないのだろう。

「兄ちゃんのベッド借りる」

「ああ」

「昼まで寝るから、放っておいていいよ」

「分かった」

 コーヒーを飲み干して、弟が足を引きずりながら俺の部屋に向かった。ドアを閉めるときに、おやすみー、と声をかけて、引っ込む。

「──寝ちゃった。もっとあんたのこと聞こうと思ったのに」

「聞くな。あいつのは身内のひいき目がすごすぎる」

「お兄ちゃん子なんだね」

 昔から兄ちゃん兄ちゃんとくっついてくる弟は、確かにかわいかった。今じゃ俺よりも背が高くなり、あの頃のかわいらしさは皆無だが。

「今日は、俺の部屋で寝る?」

「そうする。──あ、しまった、着替え」

「洗濯物、畳んであるよ」

 お前がリビングに積まれた洗濯物を指さした。弟が寝静まった部屋に忍び込むのも何なので、積まれた中から明日の服を調達することにした。

「けどさ、すごかったね、鯖」

「鯖のバカアタリだな」

 うまく群れにヒットすれば、鯖はいい加減に釣り糸を垂らしていてもどんどんアタリがくる。調子に乗って釣っていると、食いきれないくらいの量になってしまうことはよくある。

「おいしいよね。明日は塩鯖?」

「朝飯はそうするか」

「炊き立てご飯にお味噌汁に塩鯖焼き。……あー、楽しみ」

「お前がいてよかったよ」

「そう?」

「1人で20匹くらい食ってくれそうだ」

「あんたが料理してくれるなら、食べるよ」

 にこりと笑ったその顔があまりにかわいすぎて、俺はカップを置いてキスをした。

「──あいつと仲いいのは嬉しいけど……あんまり仲良すぎると、妬くぞ」

「あはは」

 お前がおかしそうに笑って、俺に抱きつく。

「俺には、あんたが一番。──どんなに似てても、あんたじゃなきゃ嫌」

「なら、いい」

 お前の身体を抱き締めると、お前が小さくつぶやいた。

「──俺たちも、寝る?」

「お前の狭いベッドでな」

「狭いから、くっつけるんだよ」

「──隣の部屋だから、聞こえるぞ」

「くっつける、とは言ったけど、何をするとは言ってない」

 お前が唇を尖らせる。その尖らせた唇にキスをして、俺は笑う。

「明日、朝飯食ったら、散歩に行こう」

「──うん」

「焼きたてのバゲット買って、帰ろう」

「バゲット?」

「ランチは鯖サンドにする」

「鯖サンド?」

 お前が目を丸くして首を傾げた。

「軽く焼いたバゲットに、スライスオニオンをたっぷり挟んで、オリーブ散らして、塩コショウして焼いた鯖を挟んで、オリーブオイルと、たっぷりのレモン汁と、塩をかけて食う」

「──お、おいしそう」

「寝坊はなし。──よって、早く寝る」

 俺はお前の手をつかんで立ち上がり、カップを放置したままリビングを出て電気を消し、お前の部屋に向かった。

 弟は、一度寝たら、叩き起こすまで目を覚まさない。──いい弟だ。

 俺はお前をベッドに引っ張り込んだ。

 ──早起きして鯖の塩焼きの朝ご飯を食べて。

 お前が俺の首に両腕を巻き付ける。

 ──2人で並んで食器を洗って、散歩に出かける。

 俺はキスを落とし、狭いベッドの中で、お前の身体を抱き締めた。

 ──川沿いを歩いて、のんびりと空なんか眺めて。

 お前が笑う。

 ──最近お気に入りのパン屋の前で、店がオープンするのを少し待つ。焼きたてのバゲットを抱えて、歩いて帰ろう。

 その狭いベッドで、俺たちは笑い合い、抱き合って眠ったのだった。


 了

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