甘く煮る


 仕事に忙殺され、しばらくまともな料理もできなかった。

 新しい上司はあまり物分かりのいい方ではなく、頭ごなしに若い連中を押さえつける。俺から見れば、なかなか出来のいい部下だと思うのだが、自分の息子よりも若い彼らのことを、あまり上手に扱えないその上司の矛先が俺に来るのは当然のことで、その忙しいさなかにすら、いちいち俺を経由して部下を使おうとする。

 つまり、その上司との相性が、よくない。

 俺にしろ、部下たちにしろ、そろそろストレスが溜まってきている。

 週末、ようやく大きな仕事が片付き、飲みに行くことになった。そこでもひと悶着。羽目を外した部下を、上司がねちねちと叱り始めた。

 元々、うちの会社は社風もゆるく、一般企業よりは頭の柔らかい柔軟な人間でないとなりたたないような仕事である。うちの課なんて特に、毎日毎日小さな企画から大きな企画まで数え切れないくらいに案を出し、選別され、営業に掛け合ってひたすらプレゼン三昧。

 机にかじりつき、パソコンとにらめっこしながら目新しいものを考え出す。固い頭じゃ、やっていけない。

 本来新しく赴任してくるはずの上司が、急病で半年ばかり休職することになった。空いていたポストにやってきたこの上司は、イレギュラー。短い期間だけの限定上司。一定期間が過ぎたら別の部署に戻ることになっている。

 期間限定だからといって、相性の悪さで仕事に支障をきたすわけにもいかない。

 結局、酔えない。

 同僚と2人、思いきり板挟みだ。

 最後の方は、上司が愚痴りだした。どうせ異動するのだから、と最後にぶちまけられた時には、さすがの俺も癪にさわった。大人として、暴力沙汰は良くない。だから、酔いつぶれたその頭にしょうゆでもかけてやろうかと、しょうゆさし片手にじりじり近付いて行ったら、同僚に止められた。

 子供か、とツッコまれ、渋々しょうゆさしをテーブルに戻した。

 上司はタクシーに押し込み、1人で帰ってもらった。

 残った部下たちが、頭からビールをかけたかった、とか、マヨネーズまみれのマカロニサラダをぶつけたかった、と言うのを聞いて、やれやれ、と思った。同レベルかよ。

 そんなわけで、俺は、終電になんとか間に合い、足を引きずりながら帰ってきた。

 お前は風呂上がりの濡れた髪のままソファで本を読んでいた。

「おかえり──ひっどい顔」

「分かってる」

 鞄を放る──のは中に入っているノートパソコンが壊れるので放ったつもりでそっとソファに立てかけ、上着を脱ぎ捨て、ネクタイの結び目に指を引っ掛けて緩めた。お前がにこりとしたままその様子を見ている。

「くたびれた顔でネクタイ緩めるのもいいねえ」

「……そうか」

 襟元からしゅるりと抜いたネクタイを放ったら、お前がそれをキャッチする。首を傾げるようにして俺を見上げ、再び笑った。

「普段はもちろんかっこいいけど──疲れた顔も、また別の魅力だね」

「お前、本当に俺のこと好きだな」

「うん」

 上着をハンガーにかけ、お前が近付いてきた。

「全部、好き」

 俺の頬に手を当てて、短くキスをする。

「ちょっと元気出たよ」

「ならよかった」

「──飯、何食った?」

「ピザ」

 畳まれて、ぺちゃんこになったデリバリーピザの箱を見て、俺はううむ、と頭を抱える。この大きさはどう見てもLサイズ。1人でぺろりと食べてしまったらしい。

「最近、まともな料理作ってないな」

「うん、忙しいから、仕方ないよね。──我慢する」

 1人でいるときは、コンビニ弁当やインスタント。一般的な量を食べている間は問題ない。しかし、一定のラインを超えると、過食傾向に変わる。俺の作った料理ならばいつものことだが、ジャンクフードを際限なく食べ始めるというのは、お前もストレスが溜まって来た証拠である。

「明日からは、ちゃんと作るよ」

「──忙しいの、終わった?」

「ああ」

「やった」

 お前が俺に抱きついて、嬉しそうに笑う。

「本当に、忙しかったね」

「ああ。──ストレスでイライラしてる」

「珍しい」

「──豆だ」

「はい?」

 お前が首を傾げた。

「豆」

「──豆?」

 俺はべりっとお前を剥がして、キッチンに向かった。俺に押しやられたお前が、両手を宙に浮かせたまま唇を尖らせ、俺をにらむ。剥がさなくてもいいじゃん、などとぶつぶつ言いながら、カウンターにやってきた。

 キッチンの食器棚の上に収まった大きな籐のカゴを下ろした。中には、様々な乾物が詰まっている。干しシイタケ、きくらげ、高野豆腐、昆布、ひじき、車麩、豆麩、板麩、切り干し大根、春雨、ビーフン、桜エビ──そして、豆。

 大豆、小豆、黒豆、金時豆、トラ豆、ひよこ豆──

 俺は、白花豆と青大豆をつかみ、カゴを食器棚の上に戻した。

 大きなボウルを二つ、用意する。ざらざらとそれぞれ豆を入れて、水で洗う。黒くなっているものや傷んでいるものを取り除き、4~5倍の水を注いで浸け込む。

「──豆、だね」

「豆だ」

 作業台に置かれたボウルを見つめて、お前がつぶやく。

「煮るの?」

「煮る」

「俺、豆に負けた?」

 さっき引き剥がしたことを根に持っているらしく、恨めしそうな目をして俺を見ている。

「……悪かったよ」

 お前が、無言で両手を伸ばす。俺は小さく溜め息をついて、キッチンの電気を消し、お前のところまで歩いて行き、その身体を抱き締めた。お前の両手が俺の背中に回る。

「悪いと思ってるなら──」

 俺の耳元で、お前の声が甘くささやく。

「──了解」

 俺はよいしょ、と気合いを入れてお前をそのまま抱き上げ、寝室まで運んだ。途中、お前が手を伸ばしてリビングの電気を消した。

 ベッドに押し倒したら、

「よいしょ、は、オヤジくさいね」

 と言いながら笑った。俺はむっとして、おかしそうに笑うお前の唇をキスでふさぎ、その笑いを止めてやったのだった。


 つまり、豆である。

 朝、俺のベッドでまだ寝こけているお前を置いて、俺はさっさと起き出し、シャワーを浴びて目を覚まし、キッチンに向かった。

 一晩水に浸けた豆は、わずかにふくらんでいる。厚手の煮込み用鍋を用意し、浸けた水ごと白花豆を移し、火にかける。煮立ったら弱火にして、アクを除きながらじっくりと1時間程煮込む。

 白花豆を煮ている間に、今度は青大豆。こちらも浸した水ごと鍋──こちらは普通の鍋──に入れ、火にかけ、アクを取りながら20~30分ほどゆでる。

 豆を煮る、というのは、なかなかに落ち着く作業である。

 ことこととわずかに揺れる豆を見つめながら、浮いてきたアクを無心ですくっていく。澄んだ汁の中で、ことことことこと。まるで踊るように、豆が揺れる。

 精神統一。

 そして浄化。

 ──上司にしょうゆをかけようとしたことも忘れることにした。

 俺は二つの鍋から交互にアクをすくい、昨日までのイライラを追いやった。

 青大豆の方は、少し硬めで引き上げる。俺は歯ごたえの残る方が好みなので、柔らかくならないように注意。ザルに上げて水気を切り、空いた鍋を洗って、だし汁と塩、しょうゆを加えて火にかけ、煮立ったら火を弱め、ゆでた青大豆を加えて5~10分煮る。そのまま冷まし、保存容器に移して冷蔵庫で休ませ、味をしみこませる。

 ひたし豆の完成。

 白花豆の方は、ゆで続ける。キッチンに突っ立ったまま、ひたすら鍋を見つめて、豆が顔を出さないようにひたひたを保って差し水しつつ、アクをすくう。タイマーがぴぴっと音を立てたので、豆をひとつ引き上げてみる、硬くなく、柔らかすぎなく、丁度いい。豆の70~80%ほどの砂糖を量り、ひとまず半量を鍋に加え、弱火のまま30分ほど煮る。

 甘い香りがキッチンにただよい、別にもう見ていることはないのだけれど、ぼんやりと鍋を見下ろして、俺は再びタイマーが鳴るのを待つ。

 30分後、残りの砂糖とひとつまみの塩を加えて、再び20~30分ほど煮る。

 鍋の前でただただ約2時間、ぼーっと突っ立っていた。

 ことことと揺れる豆を見つめて、無心になる。

 ──ああ、落ち着く。

 豆の踊る鍋を2時間も見つめることでストレス解消、などというのは、少し異常かもしれない。けれど結局、俺にとって料理が一番有効なのである。

 そして、豆は、とても役に立つ。

 手のかかる料理や、大量の料理を作るのもいいが、時にはのんびり鍋を見つめているのもなかなか楽しい。

 頭を空っぽにしてこの重たい厚手の煮込み鍋を見つめていると、大抵のことは許せてしまうような気さえする。

 豆を煮るという行為より大事なことは、多分、今はない。

 タイマーの音にはっとして、俺はコンロの火を止めた。試しに一粒、食べてみた。

 ──甘い。

 俺には甘すぎるくらいの甘みだが、一般的な量よりは砂糖も少な目である。豆と砂糖が同量くらいだと、しっかりと甘く、日持ちもする。

 鍋のまま冷まし、甘みを浸透させていく。

 時計を見たら、まだ昼前。休日のブランチは何にしようか、と考えながら、冷蔵庫を漁ってみた。忙しさにかまけて、最近はほとんど買い物もしていない。お前が定期的に買い足してくる乳製品や野菜──多分、マヨネーズをつけてそのままかじっているのであろうきゅうりやセロリ、トマトなどはいくつか残っている。なぜか卵がふたパック。特売でもしていたのだろう。

 キッチンで腕を組んで首をひねり、しばらく考えていた。

 今から買い物に行くのも面倒だが、パンの一枚もない。米を研いで炊飯したとしても、すぐにできるおかずもない。

 俺は、鍋の豆を見た。

 甘いものは食事にならない俺だが、お前は喜ぶだろう。

 ボウルに牛乳と砂糖、塩少々を入れてよく混ぜ溶かし、サラダ油を加え、薄力粉とベーキングパウダーをふるい入れる。だまにならないようによく混ぜたら、さっき煮た白花豆を、汁気を切って加え、ざっと混ぜる。紙カップに流し入れて、蒸気の立った蒸し器で15分ほど蒸す。竹串を刺して、何もついてこなければオーケー。豆入り牛乳蒸しパンの出来上がり。

 同じように、プロセスチーズと、引き出しに入っていた魚肉ソーセージを角切りにして、甘みを抑えた生地に混ぜ込んだ蒸しパンも作った。

 卵は小さめのボウルに割り入れ、生クリーム──はないので、コーヒーフレッシュと牛乳少々、塩を加えてよく混ぜる。フライパンにバターを熱し、じゅわりと泡立ったところに卵を流し入れ、手早く混ぜながら火を通す。半熟になったら、ちぎったクリームチーズを加え、包み込むようにして形作る。チーズオムレツの完成。

 きゅうりとセロリはスティック状に切って、柔らかく練ったクリームチーズに牛乳を加え、なめらかにしてブラックペッパーを挽いたディップと、レモン汁──瓶入りの濃縮還元を利用──を混ぜたマヨネーズを添える。

 ついでに、余ったクリームチーズを練り、ひたし豆とかつおぶしを混ぜ込み、しょうゆ少々で調味。ひたし豆のクリームチーズあえを作ってみた。

 テーブルに料理を並べ、部屋に向かった。

 お前は、まだベッドの中でくーくー寝息を立てている。

 俺はベッドに腰を下ろし、屈んでお前の頬にキスを落とす。

「起きろ。そろそろ昼だ」

「……んー……」

 ぼんやりと目を開けたお前が、俺を認めてにっこりと笑顔になった。

「おはよ」

「おはよう」

「豆は?」

「もう、煮た」

 お前が起き上がり、俺に抱きついた。後頭部にぴょんと寝癖が一筋。思わず撫でてしまう。

「甘い香り、する」

 煮ていた豆か、、蒸しパンの香りが移ったのだろう。俺の胸に顔を押し付けたまま、すーはー深呼吸をする。

「いい香り」

「そのいい香りの飯が出来てる」

「起きる」

 お前がばっと顔を上げ、ベッドから出た。ぱたぱたと洗面所に向かう後ろ姿を見て、俺は苦笑いした。

 リビングでコーヒーを入れると、お前がテーブルの前に座った。

「いただきます」

「オムレツ、冷める前にな。チーズ入ってるから」

「うわーい」

 ふわふわ蒸しパンと煮豆の相性は良かった。もう少し塩分を足した方がアクセントがついておいしいかもしれない。

「白いんげん豆、おいしいねえ」

「いっぱい煮てあるから、好きなだけ食え。──あとで、加工するから、全部一気に食うなよ」

「うん」

 釘を刺しておかないと、いつのまにか容器が空っぽ、なんてのはよくあることだ。

 煮豆を混ぜ込んだ和風のパウンドケーキ──桜の花の塩漬けなんかを加えたらおいしそうだ──とか、黒糖寒天とともにみつ豆もいいかもしれない。マッシュにして、あんこのように使うのはどうだろう?

 お前より先に食事を終え、俺はソファに移った。お前の真後ろに座るような格好だ。

「あとで買い物行かないとな」

「うん。ついでにお散歩しよう」

「そうだな」

「今日からはまた、あんたのご飯食べられるね」

「待たせて悪かった」

「──うん」

 もぐもぐと、お前がテーブルの料理を食べ続けている。身体を少し斜めにずらして、俺を振り返り、お前が訊ねる。

「ストレスはどっかいった?」

「ああ」

「──豆のおかげ?」

 どこか、不満そうな表情。俺は苦笑した。

「──豆のおかげ」

 お前が、軽く口をとがらせ、うなだれる。

「それから」

 俺はお前の身体を引っ張り上げ、膝の上に引き寄せた。背中から抱きすくめるような格好で、言った。

「お前のおかげ」

 俺の身体にひたりと抱きつき、熱っぽい目をして俺を見上げる。そんな夕べのお前の姿を思い出す。

 かすれた声で、大好き、とささやく。

 あんなに疲れていたはずなのに、容易く眠りに落ちることはできなかった。

 あんな表情をされたら、そりゃ、眠気も吹っ飛ぶってものだ。

「──本当に?」

「本当に」

 ──暗闇で、俺を見上げ、俺の名を呼ぶ。

 ぎゅっと、すがるように抱きつきながら。

 イライラも、ストレスも、消え去ったけれど──

 仕事が忙しかった、ということは、料理ができないだけじゃなく、お前と触れ合う時間も取れなかった、というわけで。

 忙しかった分の埋め合わせを、昨日の一夜で終わらせるつもりなど、さらさらない。

「なあ」

「んー?」

 お前はまだしつこく何か食べていた。俺の誘うような甘い呼びかけも、察し悪く、適当な返事をしている。

 首筋にキスしたら、お前が振り向いて、笑った。

「くすぐったい」

「──くすぐったく、してる」

「まだ食べてる。──これ、おいしい」

 俺の膝の上、お前が、甘く煮た白花豆の入った蒸しパンをかじる。

 ──それ、何個目だ?

「おいしいねえ」

 俺の作った料理に飢え、食欲の権化となったお前が、そうそう食べるのをやめるはずがなかった。テーブルの上の料理がなくなるまでは、どんなに甘くささやいても、俺は後回しにされてしまいそうだな、と思った。

 お前を抱き寄せたままの格好でいたら、お前が手を伸ばして、次の蒸しパンをつかもうとしていた。俺は両手を離し、お前を解放してやる。急に身体が軽くなったことに、お前が振り向いた。

「お預けくって待ってるよ」

 そう言ったら、お前が少し考えるような顔をして、テーブルのへりをつかみ、ずりずりと引っ張った。ソファぎりぎりにやってきたそこから、蒸しパンをつかんで、俺の身体に背中を預ける。

 俺を見上げて、いたずらっぽく笑った。

 行儀が悪い、と注意するのはやめた。

 俺はお前を抱き締める。

 オムレツはあと一口、セロリが2本、蒸しパンが2つ。

 カウントダウンはもう、始まっている。

 フォークですくったオムレツは口の中。

 蒸しパンは、あと一つ。

 甘い香りに包まれて、ストレスなんて、もうどこにも残っていなかった。


 了



 さあ、みなさんも乾物を煮ようじゃないですか!

 楽しいよ~(#゚ロ゚#)

 とりあえず、高野豆腐辺りから煮しめちゃってください!

 干しシイタケとともに煮ると、ますますおいしくなります。ちょこっとだけ甘めでね。

 さあ、さあ!! さあ!!!

 (……まるで乾物崇拝の新興宗教信者みたいになっちゃったな……)

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