roll roll roll
おかえり、という言葉とともに俺の目に飛び込んできたのは、黒くて四角いものだった。俺は目の前で邪魔をするその四角い物体を、手でよけた。
「ただいま」
そう言ってはみたものの、再びその物体は俺の前に戻ってきた。
お前が目を輝かせてどうだとばかりに俺に向かって両手で掲げているのは、最高級品、とかかれた全形10枚入り、1帖の海苔だった。
最高級品、だと?
帰ったばかりの俺を玄関で出迎えるのに、海苔の袋を突きつけながらってのは、どうなんだ?
俺は深々と溜め息をついた。
お前の、食い物に対する情熱には、時々本当に感心するよ。
並んで座ったソファで、お前はまだしつこく海苔を掲げている。
「つまり、海苔巻きを作れ、と」
「そう」
やけに力強くうなずく。
2月に入ったばかりの今日、海苔とともに俺を出迎えた理由は至極簡単だった。
節分に食べる恵方巻を、色々と探してみたらしい。ネット注文や、スーパーやコンビニのポスター、パンフレット。それから正統派に寿司屋の豪華なものまで。一応予約券、なんてものもいくつか持ってきてはいたという。
もちろん、その中からおいしそうなものを見繕って注文してもいい。特にこだわりがあるわけではないから、俺としてはお前が望むようにすればいいんじゃないかと思っていた。結果、食べきれないほどの太巻きでテーブルが埋め尽くされようとも。
結局そのどれも、お前は予約も購入もしなかった。そして、このやけに高そうな、色ツヤのいい海苔を買ってきた、というわけだ。
海苔は全部で3帖分もあった。全形で30枚。まさか全部海苔巻きにしろ、とは言わないだろうな。
俺は少し不安になり、ちらりとお前を見た。お前は海苔を胸の前でまるで見せびらかすように、自慢するように掲げたままだ。
俺は再び、溜め息をついた。
「──中身は何がいいんだ?」
お前に甘いのは、もうどうしようもない。自分でもよく分かっている。けれど、こんなに高い海苔を買って、子供のように期待に満ちたらんらんとした目を向けるお前に、どうしたら逆らえる?
お前はぱあっと表情を明るくし、それからにこーっと笑った。
かわいすぎるだろう、それは。
俺は右手でお前の頭を撫でてやる。
「えーっとね、太巻きは五目と、海鮮と二つはほしい。細巻はかっぱ巻と、納豆巻と、かんぴょう巻と、サラダ巻と、ネギトロ巻と──」
ああ、結局30本作らされそうな気がする。
俺はお前がテーブルに置いた海苔を持ち上げた。確かに最高級品と謳っているだけあって、しっかりとしたいい海苔だ。黒味が際立ち、ツヤめいて、袋越しでもぱりんと気持ちいいくらいに乾燥している。
撫でられながら、お前はまだ海苔巻きの具を挙げていく。さすがに全部は作れないぞ、と釘を刺した。
「恵方巻ってのは、1本でいいんじゃなかったか?」
あまり詳しくはないが、確かあれは、その年の恵方を向いて、丸ごと一本の海苔巻きを無言で食うっていう、あれだろう?
「だって、いっぱい食べたいし。ついでなんだし、作って」
にこりと笑って甘える姿に、危なく理性が飛びそうになる。ここぞとばかりにそのかわいさを発揮するのは、ちょっとずるい。
まあ、海苔巻きの1本や2本──いや、下手したら10本や20本、かもしれないが──で喜んでくれるのなら、有り難い。
俺はにこにこと嬉しそうに海苔を見下ろしているお前を、見た。
少し恐い想像をしてしまった。
全形2枚を使って1本を作る太巻きは、直径約10センチほどになる。もしかしたらお前は、それを恵方巻にして、丸ごと食う、などと言い出したりはしないだろうか。
「さすがに無理だからやめておけよ」
俺はお前の頭を撫でながらつぶやく。お前がきょとんとした顔をして俺を見上げ、首を傾げた。
今年の節分は2月3日である。会社帰り、行きつけのスーパーで、お前と待ち合わせをした。海苔巻きの具を購入するためである。
昨日のうちに買い集めたものもあるので、今日は不足分を補うための買い物だ。カゴを持ったお前が足取り店内に入っていく。
海苔巻きの具は、一昨日二人で話し合って、何種類かを選抜した。さすがにお前がキリなく挙げていく種類を全部作ることは不可能だったからだ。
二人並んで買い物をしていたら、惣菜コーナーで中細巻バイキング、などというものをやっていた。ハーフサイズの海苔巻きが数種類並んでいて、好きなものを選んで買っていくスタイルになっているらしい。これで今年の恵方巻を済ませる人もいるのだろう。
洋菓子のコーナーで、お前が細長いロールケーキを見つけた。これも、恵方巻として食べるらしい。おもしろかったので、生クリームとチョコクリームを1本ずつ買った。どうせほとんどはお前の胃の中に収まるのだろう。
他にもロール状のお菓子なんかも売られていて、それらは節分用に特別パッケージになっていた。お前がいちいちそれに気を取られ、少し悩んでカゴに落とし込む。レジに並ぶ頃には、ロール状のお菓子や惣菜でカゴの中がいっぱいになっていた。
さすがにバームクーヘンは便乗しすぎじゃないか? と思ったが、これはただ単にお前が食べたかっただけかもしれない。売っていたのはカットされて個包装されたバームクーヘンで、お前は少ししょんぼりしながら、丸ごとならよかったのになぁ、とつぶやいている。
バームクーヘンは、簡単に作れる。そう言ってやろうと思ったが、とりあえず黙っておいた。これから、売るのかと思うほどの数の海苔巻きを作らなきゃけいないのに、さらにお菓子作りまではさすがの俺でもうんざりする。休日ならともかく、がっつり仕事終わりの遅めの夕食なのだから。
バームクーヘンは近いうちに作って、丸ごとお前に渡してやることに決めて、俺たちは帰路についた。
帰って着替えを済ませると、キッチンでお前が納戸から出してきた寿司桶を抱えていた。ざっと濡らして水気を含んだ桶に、お前が炊いておいてくれたご飯をひっくり返す。寿司酢は朝のうちにお酢に砂糖、塩を加えて軽く温めて溶かし、作っておいた。しばらく休ませていたので、味が馴染んでいるはずだ。それをご飯の上に散らすようにかけ、木のしゃもじで切るように混ぜた。カウンターの向こう側から、お前がうちわでぱたぱたと扇ぐ。
少し味見をする。酢の味もしっかりと残ったおいしい寿司飯ができた。向かいでお前は口を開けている。俺は指先に乗った寿司飯を口に運んでやった。ぱくんと食いつき、お前の舌が俺の指先を舐めた。
「おいしい」
嬉しそうに笑う。
次は具の準備。と言っても手のかかるものは昨日のうちに仕込んでおいた。甘く煮含めたかんぴょう、しいたけ、にんじん、高野豆腐。これらは五目太巻き用。これに甘い玉子焼きときゅうり、カニカマ、桜でんぶを入れる。
海鮮太巻きはマグロ、イカ、サーモン、蒸しエビ、鯛、煮アナゴ、大葉。なかなか贅沢である。
最初に太巻きをやっつけてしまうことにした。巻きすに海苔を2枚、少し重ねて並べ、指先でぱっと酢水を弾く。その上にご飯をのせ、具をバランスよく並べる。あとは巻きすごと手前からくるりと巻いていく。太いし具も多いので、なるべく偏らないように気をつけて丁寧に巻く。
お前がカウンターの向こうでうわー、と声を漏らす。直径は俺の握りこぶしくらいになり、その大きさにお前が嬉しそう固く絞った濡れ布巾を敷いたトレイを差し出した。出来上がった海苔巻きを乗せておくためのものだ。
中細巻は、シンプルなものばかりにした。海苔1枚につき1本を作る。
まずはきゅうり。次はかんぴょう。その次はネギトロと刻んだたくあんでトロたく。塩と砂糖少々で味付けしたひきわり納豆。
俺はわりとサラダ巻が好きなので、それも作った。カニカマと貝割れとマヨネーズ。エビとサラダ菜とマヨネーズ。ついでに余ったきゅうりとサーモンの切れ端とマヨネーズ。
最後に、甘い玉子焼きだけを巻いたものも作った。
太巻きが2本と、中細巻が18本できた。さすがにご飯が足りなくて、海苔を全部使い切ることはできなかった。余った海苔は湿気らないように保存用のケースにしまいこんだ。
最後まで恨めしそうに太巻きを見ていたお前だが、さすがに恵方巻として食べるのは諦めたらしい。かんぴょう巻を選んだ。俺はトロたく。実は好物。
今年の方向、というものを調べてあったらしく、お前がこっちだ、と指差す方向を向いて、二人で同時にかぶりついた。黙々と食べていたら、目が合った。なんだかおかしくなって、噴出しそうになった。何とか堪えて、最後まで黙って海苔巻きを食べきった。
「黙って食べるって結構しんどいね」
「だな」
海苔巻きは、食べやすく全部切り分けた。家にある大皿をすべて駆使して、海苔巻きを並べたら、テーブルがいっぱいになった。乗り切らない分はカウンターの上で順番待ちだ。
「いただきます」
お前がまず選んだのは、断面も鮮やかな海鮮太巻き。奮発したかいがあって、さすがに美味かった。脂の乗ったサーモンと、しっかりしたマグロの赤身、鯛のさっぱり感は言わずもがなだが、甘みと歯ごたえのいいイカと、蒸されてもまだなおぷりぷりのエビ、それに甘じょっぱいアナゴが、大葉のさわやかさとよく合った。
美味すぎる。
五目太巻きの方も、いい出来だった。じっくりと煮含めた具がじんわりと甘く、酢飯とマッチしている。実は俺は桜でんぶが苦手だ。食べると喉がけぱけぱしてむせたくなってしまうのだ。けれどお前の「五目巻きにおける桜でんぶは神!」というわけの分からない言い分に押されて、仕方なく入れた。まあ、煮汁を含んだ具の隣に配置したので、思ったよりは喉にひっかからないで食べられた。これはこれで、彩りもよくきれいだ。
お前が次々に海苔巻きを平らげていく。
「何これ、おいしい」
お前が食べていたのは玉子巻きだった。甘く味付けした厚焼き玉子だけを巻いたものだ。
「ご飯のすっぱさと玉子の甘さがたまらない。おいしすぎる」
気に入ってもらえてなによりだ。これはうちで海苔巻きを作るときには必ず作るものだった。だから玉子焼きはいつも多めに作る。子供の頃は弟と二人でこれを奪い合うように食べたものだ。
今となっては、甘いだけの玉子巻きは、奪い合ってまで食べたいと思うこともないが。
俺が何気なく話してやると、お前が玉子巻を箸で持ち上げて、ふうん、と言った。白いご飯に黄色い玉子焼き、くるりと巻かれた黒い海苔。
お前がぱくりとそれを食べる。
「思い出の味なんだね」
カミングアウトしてからは家に帰っていない。
子供の頃、母親が海苔巻きを作るのを、興味深く見ていた。くるくると巻きすで巻かれていく海苔巻き。俺の好きな具を入れて作る、特別な海苔巻きもあった。
弟と二人、玉子巻きを食べる。甘くて、とても幸せになる味だった。
「そんないいものでもないさ」
俺の答えに、お前がわずかに首を傾げるようにしてこちらを見た。
「普通のことだ」
そう、特別でもなんでもない、普通のこと。
弟は、時々会いに来る。何を話すでもないが、一緒に食事をしたり、飲みにいったりする。あいつも、もう甘い玉子巻きにはしゃぐ年ではない。
「うん、そうだね。普通のことだね」
お前がまた、玉子巻きを取った。
「でも、それが、思い出っていうものなんじゃないの?」
ぱくり。また、食べた。
俺も玉子巻きに箸を伸ばした。
ぱくり。お前の真似をして食べてみる。
甘い。
「おいしいね」
お前が笑った。
「ああ」
俺はうなずいた。
いつからこの甘い海苔巻きを嬉しいと思わなくなったのか、思い出せなかった。いつの間にか甘いものがあまり好きではなくなっていた。嫌いというわけではないが、好んで食べなくなった。
それなのに、どうして今日、俺はこの玉子巻きを作ったのだろうか?
何の疑問もなく、当たり前のように。
いつの間にか、お前がすぐ近くまで来ていた。まだ満足するほど食べてはいないはずなのに、箸を置いている。
お前がそっと俺の身体を抱き締める。
しばらく黙ってそのままでいた。お前が両手を緩め、身体を離した。
「俺は好きだな。──また作ってよ」
「そうだな──作るよ、お前のために」
お前はにっこりと笑って、テーブルの大皿から玉子巻きをつまみあげると、それを俺の口にぎゅうと押し付けた。
「じゃ、食べようー」
自分の席に戻って、お前は箸を持ち上げた。
俺は押し付けられた海苔巻きを飲み込んで、苦笑する。
さすがに海苔巻きは余った。そりゃそうだろう、炊いたご飯は全部で8合。我ながら馬鹿をやったものだと思う。いくら何でも二人で8合は、気がふれているとしか思えない。
うちの炊飯ジャーは8合炊きだ。だから8合である。これがもし1升炊きなら、きっちり1升炊いていたかもしれない。お前ならやりかねない、と俺は思った。
残った海苔巻きはラップをかけて明日の朝食にすることにした。食器を片付けたら少し休憩して、お前がいそいそとロールケーキを冷蔵庫から取り出した。いつものことながら、きちんと別腹である。
お前が一切れ押し付けてきたロールケーキは、甘かった。まあ、食べられないほどではない。ブラックコーヒーでその甘さを流し込んで、残りはお前にすべて任せた。
「節分っていうのは、くるくる巻かれたものを食べる日なの?」
きちんと二種類ともロールケーキを平らげて、お前がコーヒーをすすりながら言った。
「さあな」
「それとも、くるくるしたものを有り難がる日なのかな」
どちらも不正解なんじゃないか、と思いながら、俺はそうかもな、と適当な返事をした。節分や恵方巻にかこつけて、メーカーが儲ける日なのは間違いがなさそうだが。
「そっか、くるくるしてればいいのか」
お前が変な納得をして、俺を見上げた。
「……何だよ?」
「うん、今日はさ──」
お前がにこりと笑って、一つの提案をした。
くるくるしたものを有り難がる日なら、と、最後までそれを全うするつもりらしい、俺はその提案に、乗った。
その夜、俺たちは二人で抱き合って、毛布にぐるぐる巻きになって、まる海苔巻きみたいになって眠ったのだった。
了
ちなみにタイトルのroll×3は、
1roll→海苔巻き
2roll→ロールケーキ
3roll→毛布にぐるぐる巻きの二人
で、「roll roll roll 」です。
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