オリオンとカモミール


 ハーブティーは苦手だ、と言ったことがある。多分、付き合い始め。

 なんでって、草を煮出した湯を飲んでる気分になるからだ。

 ハーブは好きだ。スパイスも好きだ。料理には山ほど使う。

 ココアや紅茶に加えるのも構わない。味にアクセントがついてとてもよい。ホットミルクなんかにもちょちょっとスパイスを振るのは好きだし、ミントジュレップやモヒートなんかも美味いと思う。

 けれどなぜ、お茶にして飲むのは駄目なのか。

 これはもう、嗜好の問題である。

 俺は目の前のカップに注がれた妙な色の飲み物を、さっきから凝視したまま固まっていた。

 ハーブティーは嫌いだ、そう言ったはずなのに、なぜ俺にこれをいれるんだ?

 隣に座ってカップを両手で包み込むようにして持っていたお前が、ちらりとこちらを見た。こくり、と一口飲んで、盛大に溜め息をついた。

 仕事が忙しくて最近構ってやれなかったから、その腹いせなんじゃないかと初めは思ったくらいだ。

 だって、コーヒー好きの俺が、おいしいコーヒーを飲ませてくれるというカフェで働く恋人に、何でよりにもよって嫌いなハーブティーばかりを出されなきゃならないんだ?

 そりゃ、普段は完全にインスタントコーヒー派である。俺はインスタントでも充分好きだ。時々、お前がネルドリップで煎れてくれる仕事先から仕入れるブレンドもそりゃあ美味い。

 だから、何か飲む? なんてかわいく訊ねてキッチンに入ったお前を見て、頬が緩むのは仕方がない。普段キッチンに立つ姿など見られないからな。

 で、出てくるのは最近はいつもハーブティー。

 この頃は無言でキッチンに立ち、否応なしにいれてくる。

「なあ、これ、嫌がらせ?」

 そう訊ねた俺に、お前は包み込んでいたマグカップをテーブルに戻して、右手を軽く握ったり開いたりしてから──えい、という掛け声と共に、その手をグーにして俺の頬を殴った。

 ──痛い。


 俺が家に帰るのはいつもよりかなり遅い。そのせいでまともな料理を作ることができないでいる。だからますますストレスが溜まる。

 せっかくの休みも休日出勤。それをお前に伝えたら、明らかに不機嫌な顔をして、分かった、とつぶやいた。

 俺だっていい加減限界だ。朝は早く出勤、残業続き、挙句に休みなしである。

 目の下にはクマができ、顔色も悪い。そうでなくても寝る時間がないのに、ぐっすり眠れない。食事はコンビニ。何か作りたくても、その時間がない。

 お前もよく我慢していると思う。ここのところ、出来合いのものか、そうでなければ外食だ。この前、終電ぎりぎりに帰って来たら、ソファでばりばりとでかいえびせんをかじっているお前と目が合った。顔よりも大きな丸くて薄いピンク色のあれだ。マヨネーズを塗りたくって、一体何枚目なのか知らないが、空き袋が散らかっていた。

 よく見れば、お好みソースとか、青海苔とか、七味とか、コチュジャンとか、俺が作った具沢山ラー油まで並んでいた。えびせんにこれらを塗ってかじるお前を見ていたら、何だか俺のほうが悲しくなってきた。

 すまん、まともな料理を作ってやれなくて。

 朝は卵をただ目玉焼きかゆで卵にするだけ。トーストと共にそれをコーヒーで流し込む俺を見ながら、お前はいつも寂しそうにしていた。一緒に食事をする時間も余り取れないからだ。

 ごめんな、と言うと、お前はえびせんをかじりながら、こくりとうなずいた。

 ああ、早くこの万年欠食な恋人を何とかしてやらなければ。

 抱えている仕事を何とか早く終わらせなくては、と俺は気合を入れた。

 ──が、もう10日以上、長引いている。さすがに体力も限界で、家へ帰ってきてお前とこうしてソファに並んで座っていても、睡魔に襲われる。少しは一緒にいて、話をしたい、と思うのに、どうも頭がぼーっとする。

 今日の夕飯はお前がスーパーで買ってきたお惣菜だった。ご飯だけは毎度律儀に炊いてはくれるが、食欲がないのであまり食べられない。

 そして、眠い目をこすっていた俺の前に、ハーブティーである。

 嫌がらせか、腹いせか。もうどっちでもいい。

 そして、俺はお前に殴られた、というわけである。

「眠いなら寝ればいい」

 お前は自分のカップを持ち上げて、ハーブティーを飲んだ。リンデン、とお前は言っていた。ハーブティーの名前なのだろう。

 なぜ殴られたかはよく分からないままだが、俺は隣に座るお前に寄りかかる。

「もうちょっと、一緒にいたい」

「疲れてるんでしょ」

 そっけなく言われた。

「疲れてるから、尚更」

 左手をお前の肩に回し、顔を近づける。

 ほのかに、お香のような、不思議な香りがした。多分、飲んでいるハーブティーの香りなんだろう。これだけ近付いてようやくそれに気付く。

「うまい?」

「それなりに」

 とても薄い茶色、というか黄色がかったその液体を、こくりと飲む。

 お前はどうやらカップを手放すつもりはないようだ。俺がこの香りに逃げ腰なのに気付いて、これ見よがしに飲み続ける。

「……寝る」

 俺はお前の肩から腕を外して、ソファから立ち上がった。テーブルの上のカップには手をつけなかった。何杯目のハーブティーなのか、もう覚えてはいなかった。それでもお前はそれを俺に差し出す。多分、明日も。

 部屋に入ると、そのままベッドに倒れこんだ。

 眠い。疲れた。

「あー……」

 お前を抱き締めたい。キスしたい。一日中くっついて、自堕落に過ごしたい。

 そんなことを考えながら、俺の意識はいつの間にか途切れていた。


 ようやく仕事が一段落しそうだ。

 今日を乗り切れば、明日からは楽になる。

 昼休み、自分のデスクで盛大に両手を持ち上げて伸びをしていたら、同僚が昼飯はどうするのかと訊ねてきた。

 ここのところ、ずっと、コンビニ弁当かインスタント食品ばかりだった。今日くらいはまともなものが食べたかった。だから、外で食う、答える。と言ってもあまり時間はないから遠出は無理。がっつり食べている暇もない。と、なれば──

「いらっしゃいませ」

 聞きなれた声が耳に届く。俺が軽く右手を上げると、お前は接客用のクールな表情を崩さずにぺこりと頭を下げた。今日は同僚も一緒なので、カウンターを避けてテーブル席。お前が空いた窓際のテーブルに案内してくれた。

 今日のランチはシンガポールチキンライスボウル。まあ、つまりは蒸した鶏肉とたっぷりの千切り野菜に、アジア風のちょっと酸味のあるタレがかかった丼である。俺は結構これが好きだ。二人分のランチを注文すると、お前がいつものようにきれいな姿勢でカウンターに去った。奥の厨房にオーダーを通し、くるりとこちらを向いた。一瞬だけ目が合ったが、同僚は気付かずにグラスの水を飲みながら、

「ハードだったなー、ここんとこ」

 俺と同じくらいくたびれた顔をしている。血色は悪いし、多分ストックしてあったクリーニングしたワイシャツがなくなったのだろう、どことなくくたびれたシャツを着ている。俺のワイシャツは、お前がきちんとアイロンをかけてくれているおかげで今日もぴしりと折り目正しい。ありがたいことだ。

「はは、ひっでー顔」

 同僚はふざけたように俺の頬をぐにっとつまんだ。

「お前だって似たようなもんだろ」

 つままれながら、俺も言い返す。

「ヒゲ剃ってるだけましだな」

「俺、会社で電気シェーバー」

 同僚が溜め息をつく。

「帰るのもしんどいから、いっそ会社に泊まりこみたかったぜ」

「そうか」

「どうせ一人暮らしだしな」

 独身の同僚は、ここしばらく恋人の影もない。

「いい加減、離せ」

 まだ頬をつままれたままだった。わざとというよりも、つまんでいたことすら忘れていた、という感じである。お互いに疲れのピークで、頭が働いていない証拠である。

「お待たせしました」

 そこに、お前がカラフルな磁器ボウルを二つ、心なしか乱暴にテーブルに置いた。ひやりとしたのは俺だけらしく、同僚はへらへらしながら俺の頬から手を離し、さっそく箸をつけていた。そろりとお前を見上げると、冷ややかな目をして俺を見下ろしている。

 もしかして、やきもちですか?

 そう訊ねる勇気は、もちろんない。

 30過ぎた男二人が頬をつまんで笑ってたら、気持ち悪いだけである。しかもハードワーク・ハイになっているだけの戯れだ。

「ごゆっくり」

 その声にすら。冷ややかなものを感じる。俺は肩をすくめてシンガポールチキンライスボウル──長い名前だ──を食べ始めた。あまりゆっくりもしていられないしな。

 ランチは食後にコーヒーがつく。この店のブレンド一択である。

 俺たちが食べ終わるのを待って、お前がコーヒーカップを運んできた。目の前に置かれたコーヒーのソーサーに、いつもはないものが、乗っていた。

 シナモンスティック。

 食器を下げてカウンターに戻ったお前を見たが、こちらを見てはくれない。同僚も気付いて、なんだこりゃ、とシナモンを持ち上げる。

「おー、いい香り」

「シナモンだな」

「あ、これがシナモンか。スティックは初めて見た」

 俺はそれでくるくるとコーヒーをかき混ぜた。同僚も真似する。

「お、うま」

 確かに、濃い目に煎れたコーヒーに甘い香りのするシナモンが溶け合って、とてもおいしい。じんわりとその香りが身体に染みこんでいくような気がした。

「何だろな、サービス?」

「だな」

 俺がうなずくと、

「俺たち、よっぽどひどい顔してるってことだな」

 と、同僚が言った。俺がきょとんとすると、同僚はシナモンスティックをつまんで持ち上げ、目の前にかざした。

「前に付き合ってた彼女がさー、ハーブとか好きだったんだ。で、俺が疲れてると、ハーブティーとか作ってくれんの。シナモンて、確か、毛細血管に効くんだよ。だから、クマとか消してくれるんだってさ」

「────」

 俺は言葉を失う。

 シナモン。

 ハーブティー。

 もしかして──

「ハーブティーって、そんなに効くのか?」

「さあな。でも、ハーブって薬みたいなもんだろ? お茶にすると、リラックスしたり、安眠できたり、胃腸にも効くって言ってたな。俺、腹あんまり強くないから」

「そう、か」

 確かにハーブティーには色々な効能があった。そのくらいの知識は俺にだってある。

 もしかして、俺は、最低なことを言ったんじゃないか? それこそ、殴られても仕方ないようなことを。

 カウンターの中でコーヒーを煎れるお前の姿を見る。さらりと額にかかる前髪を揺らし、顔を上げた。その視線は俺に向くことはなかったが、無表情にも見えるその顔で、俺のことを心配してくれていたのだと思った。このシナモンは多分、お前からの愛情なのだ。

「シナモンスティックってな、高いらしいぞ」

「知ってる」

 俺はそれを見つめる。

 シナモンの香りのするコーヒーが、こんなに美味いと思ったのは初めてだった。


 終電には何本か早い電車で家に帰れた。鍵を開けて部屋に入ると、リビングの電気が点いていた。けれどお前の姿がない。

 鞄を置いて、ぐるりと見回す。ベランダに出るガラス窓が細く開いて冷たい空気が流れ込んでいることに気付いた。

 俺はからからとそれを開けた。

「ただいま」

「──おかえり」

 ベランダにお前がいた。身体にマイクロフリースの毛布を巻きつけ。空を見上げていた。

「仕事、終わったよ、ようやく」

「そう」

「──シナモン、ありがとな」

「──うん」

 お前の隣に立って、同じように空を見上げた。冬の空には輝く星。南向きのマンションだから、俺が知っている星座を、探すことができた。

 冬に南の空で見られる星座といえば、有名なものはこれ。

「オリオン」

 俺が指差そうとしたとき、お前が言った。俺をちらりと見て、待ってて、とつぶやき、自分はリビングに戻ってしまった。俺はしばらく一人で空を眺めていた。コートは着たままだったが、やっぱり寒い。身を縮めていたら、突然湯気の立つカップが差し出された。

「……ハーブティー、か?」

「カモミール。あと、レモングラス。今までのよりは飲みやすいから」

 俺はカップを受け取り、再び横に並んだお前がそれを飲むのを確認してから、同じように口をつけた。りんごのような柔らかな香りと、それより弱くレモンに似たさわやかな香りが漂う。

 ほのかに甘く、ほんわかと身体が熱を持つ。

「──美味い」

 俺がつぶやくと、お前がふわっと笑った。

「よかった」

 お前がそう言って、二つのハーブの効能を教えてくれた。

 カモミールはリラックス効果があり、疲労回復や安眠にもいいらしい。レモングラスは血流改善や鎮痛に効果があり、こちらも疲労回復。つまり、俺のために考えてくれたのがよく分かるチョイスだった。

 俺はありがたくそれを飲んだ。冷たい空気が俺たちを包んでいたが、お前が差し出した毛布の端を身体に巻きつけ、ぴったりとくっついて星を見上げた。

「オリオン、覚えてる?」

「覚えてる」

 俺は答える。

 まだ付き合い始めたばかりのとき、冬の夜道を二人で歩いていた。見上げた空に星が散っていた。俺は、唯一自分で探せる星座をそこに見つけた。空を指差して、お前にそれを教える。

 オリオン座だ。

 3つ並んだ星を目印に、今でもそれは簡単に見つけられた。

 あとで知ったことだが、お前は俺なんかよりも星座を知っていて、当然だがオリオン座もとっくに見つけていたのだ。でも、俺が指差すそれを見上げて、きれいだね、と言った。

「結構ロマンチストなんだなーって、思った」

 お前がくすくすと笑った。

「ま、俺が知ってるのはオリオン座くらいだけどな」

「──そのオリオン座もなくなっちゃうんだってね」

「ああ、ペテルギウスの超新星爆発」

 そのくらいなら知っている。オリオン座の一等星、ペテルギウスはもう寿命が近い。それはもういつ起きてもおかしくないのだと聞いた。

「この光は600年以上も前の光なんだね」

 地球からの距離は640光年。その姿が今、きらりと輝いたのは、はるか昔のことなのだ。俺たち二人の目にはたった今起こったことのように見えるのに。

「もしかしたら、もう、ペテルギウスは爆発しているのかもしれない」

「ああ──そうだな。今、この瞬間にも」

 この光が600年以上前のものならば、その間にこの星が消えていても不思議ではなかった。けれど俺たちがそれを知るのは600年も先のことで、それを俺たちが見ることはできないのだ。

「消える前に二人で見られたことが、俺は嬉しいな」

 お前が俺を見た。俺は肩に回した手でお前の身体を自分にもっと引き寄せて、キスをした。ハーブティーのかすかな香りがした。

 600年前の光。

 もう滅んでいるかもしれない星の光。

 それを今、見つめている。

 吐く息が白く、指先は冷え始めていた。けれどくっついた身体は熱を持つ。

 カップは空になっていた。

「中、入る?」

 お前が頬を赤くして訊ねる。俺はもう一度その唇にキスをして、うなずいた。

 毛布に包まったままリビングに戻ると、そのままたどたどしく並んで歩いてソファに倒れ込む。

「ごめんな。嫌がらせか、なんて言って」

 あのハーブティーは、疲れた俺のために煎れてくれていたのに。

「分かってくれたら、いい。──でも、いっぱい我慢したから、明日からはちゃんとご飯作って」

 ソファに仰向けになったお前が、俺の首に両腕を回した。

「お前が望むだけ、いくらでも」

 俺はそう言って、再びキスをする。見下ろしたお前の顔が寒さでなのか、別の理由でなのか、赤みを帯びている。どこかまぶしそうな目をして俺を見つめるその姿に、くらくらとめまいを起こしそうになった。

 コートも、背広も脱ぎ捨てた。片手でネクタイを緩める。

「600年後も──」

 ぎゅっと抱きついたお前が言う。

「一緒に星を見ていたい」

 ああ、もちろん。たった今滅んだかもしれないペテルギウス。その爆発を、二人で見よう。

 ブラックホールと化すその星が、爆発で放つその光は、きっと目もくらむほどに眩しいはずだ。

 俺はお前の身体を抱き締めて──

「…………」

 カモミールには安眠効果。

 冗談だろ。

「──ちょっと、まさか」

 お前が嘆く。

 ハーブティーってのは、効果がありすぎるんじゃないか?

 自分の上に乗っかったままずるずると崩れ落ちる俺の頭を、お前がぽかぽかと叩く。

 明日はきっと、散々文句を言われるだろう。俺は覚悟をした。

「……本当に寝ちゃったの?」

 お前の困ったような声を聞きながら、俺はそのまま、久しぶりにぐっすりと、眠った。


 了

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