until morning


 一部の人間は俺が男と住んでいるのを知っている。とは言っても表向きはただのルームシェア、ということにはなっているが。2LDKのマンション、お互いの部屋がきちんと分かれているから、実際同棲というよりは同居に近い。

 積極的に友人知人を部屋に招くことはないが、どうしようもなく、ということは得てして起こる。それがたまたま今回だったというだけで。

 さっきから時々、まるで射殺されそうなほど強い視線が俺に突き刺さっているのは気のせいではない。カウンターのスツールに腰掛け、一人缶ビールをあおっているその後ろ姿が、とてもぴりぴりしている。

 その理由は、テーブルの上に空き缶の山を作り上げた俺の部下が、さっきから俺にべったりだからだと思われる。

 仕事でミスしたことを注意したら、尋常じゃなく落ち込んだ。仕方なく会社終わりで飲みに誘うと、これでもかというほど愚痴がこぼれた。しまいには、数日前に恋人に振られて人生真っ暗だ、と泣き出した。彼女と住んでいたアパートに戻るのが辛いので、帰りたくないと駄々をこねられた。

 俺が甘いのはよく分かっている。けれど基本的に俺は押しに弱い。根負けしてしまうのは時間の問題だった。だから、結果、こんなことになってしまっている。

 タクシーでマンションに帰ってきたのはまだ日付が変わる前だった。

 玄関を開けたら、お前が笑顔でおかえり、と迎えてくれた。そして次の瞬間、その顔が表情を失った。二枚目の無表情というのは、とにかく怖い。俺は自分に抱きつくようにして足を引きずる部下を、思わず突き放したくなった。

「それ、誰?」

 声まで冷たかった。俺は手短に説明し、部屋に入った。お前が能面のような顔でこちらを見ていたが、部屋に入ってからは振り返る勇気はなかった。

 そして、今に至る。

 部下は遠慮なく次々にビールを空けていき、俺がなだめるのも聞かずに仕事だけではなく別れた彼女の愚痴まで言い始めた。俺は仕方なくそれをおとなしく聞いていた。

 お前も意地になっているかのようにリビングから動かず、俺たちのいるテーブルの前ではなく、さっきからカウンターに陣取ってビールを飲んでいる。

 そういえば、お互いに挨拶もしていない。部下はどうやら酔っ払って周りが見えていないようで、俺以外の人間がいることに気付いていない。お前お前でこんな酔っ払いに挨拶してやる義理はない、とでも思っているらしく、冷めた目で部下を一瞥しただけだった。

 怒っている。かなり。

 部屋に帰ってきてから、俺は酒を口にしていない。元々酔うほど飲んでいたわけではなかったし、今ではすっかりアルコールは抜けていた。だからこそ、お前のその冷ややかな空気を、視線を、痛いほどに感じてしまう。

 泣きながら愚痴る部下は、何度押しやっても俺に寄りかかるように倒れてくる。もはや平衡感覚もないらしい。挙句に抱きついて泣き出す。

 ああ、もう、どうしたらいいのか分からない。

 俺はちょっと、ミスを叱っただけだったのに。

 お前の視線をまた感じた。俺はちらりとその視線の元を見た。目が合うと、ぷいと顔をそらす。

「ああ、もう、いい加減にしろ。明日も仕事だろ」

 俺は部下の頭をぺしんと叩いてやる。その瞬間、まるで捨て犬みたいな目で見上げられた。そして、俺に抱きついたまますみません、とつぶやき、再びべそべそと泣き出す。

 うん、正直に言おう。俺はこの部下がかわいい。別に恋愛感情があるわけではない。俺の下につくやつらは大抵が優秀だ。だから、こいつの少し抜けたところや、ちょっと褒めると尻尾を振って喜ぶ姿が新鮮で、まるで駄目犬を躾けているような気分になってしまうのだ。

 そんなことがばれたら、お前に何を言われるか分からない。だから黙っている。

「先輩、俺、どうしたらいいんでしょう」

 泣きながらそんなことを訊ねる部下をよしよしと撫でながら、俺は思っていた。馬鹿な子ほどかわいい、と。

「寝ろ」

 俺は部下を引き剝がし、そのままソファに押しやった。

「しょうがねーから一日だけ泊めてやる。その代わり、次からは一切こういうことはなしだ」

「ふぁい」

 部下が回らない口で返事をした、と思ったら、次の瞬間、眠りに落ちていた。器用なやつ。

 俺は部屋から毛布を引っ張り出し、かけてやった。スーツはきっとしわくちゃになるだろうが、どうしようもない。

 俺は大きく息を吐き出し、くるりとカウンターを向いた。

「悪かった」

「思ってるんだ、悪いって」

 缶ビールを傾けながら言うお前の顔は、まだ無表情のままだ。怒った顔の方がよっぽどましだ、と思う。

「こんなつもりじゃなかったんだよ。さらっと愚痴聞いてやれば気が済むと思ってたんだ」

「で、結局家にまで連れてきちゃうんだ。やっさしーい上司だよね」

「……今のはちょっと、嫌味だな」

「嫌味だもん」

 だもん、って、お前。ちょっと、かわいいんじゃないの?

 俺は溜め息をついて、テーブルの上の空き缶をシンクに運んだ。一缶ずつ水で流して軽く洗い、水切りカゴに伏せる。お前が空けたビールも、手を伸ばして取り上げた。その手を、お前がつかむ。

「何だ?」

「もう、飲まない?」

「ああ、今日はもういい」

 ぱっとその手が放された。俺は空き缶を同じようにゆすいだ。

「そっか、じゃぁ、俺もやめる」

 まだいくらか残っている缶ビールを俺によこした。これも洗えということだろう。受け取って、同じように洗って伏せる。

 俺は緩めていたネクタイを外し、もう一度溜め息をついた。無性に疲れてしまった。

 お前がいつの間にかカウンターの向こうからキッチンにやってきて、俺のすぐ近くまできていた。

「何だ──?」

 突然、俺の手をつかみ、引っ張る。勢いよく歩き出し、途中、ばちばち、とリビングとキッチンの電気を乱暴に消した。

「おい」

 そのまま、俺の部屋のドアを開いて、素早く部屋に入り込み、後ろ手にドアを閉めた。

「どうし──」

 どうしたんだ、と最後まで言えなかった。俺にぎゅうと抱きついて、さっきまでの無表情から一変、熱っぽい目で俺を見て、そのまま唇を重ねる。

 ああ、そうか。さっきまであんなに怒っていたのは、やきもちだったんだな。

 ていうか、お前、どんだけ俺のこと好きなんだよ。

 その目が、もう、俺以外のものを目に映さない。そんな目で見られたら、観念するしかないじゃないか。

 リビングでぐーすか寝ている部下のことは気になったが、そのお誘いには抗えなかった。俺は降参してお前を抱き締め、怒らせたお詫びに優しく甘くささやいてやることにした。


 目覚ましはしっかりと作動し、俺は手を伸ばしてそれを止め、身体を起こした。隣で寝ていたお前がぼんやりと目を開け、俺を見る。

「もうちょい寝てな。俺は飯作るから」

 寝ぼけたような声でうん、とうなずいて、お前がまた目を閉じる。その頭をひと撫でしてから、俺は部屋を出た。顔を洗ってリビングに行くと、部下はまだぐっすりと眠っていた。一度も起きた様子はない。──ほっとした。

 冷蔵庫を開けて、今朝は何を作ろう、と考える。

 昨日の夜、炊飯器をセットするのを忘れた。だからとりあえず急いで米をといで早炊きのスイッチを入れる。

 飲んだ朝はオーソドックスな朝飯がよかろう、と判断した。

 卵はわずかに砂糖の入っただし巻きにする。ちゃんとだしをとって作るのはパスして、顆粒のだしの素とめんつゆ少々、砂糖を加え、解きほぐした卵をフライパンに流し込み、丁寧にじっくり焼いていく。

 ピーマンがあったので、千切りにして油と唐辛子を熱した鍋で炒め、砂糖と酒、しょうゆで味付けしてきんぴらにする。仕上げにいりゴマをひねりながら加える。

 きゅうりは薄切りにして塩でしんなりさせてから、わかめと共に梅酢と砂糖、だしの素しょうゆを混ぜたタレをかけて酢の物に。

 味噌汁は豆腐と油揚げ、それに刻んだねぎ。

 常備菜の鶏レバーの佃煮と、あとは冷凍していた塩鮭をグリルで焼いて、完了。

 準備ができた頃、ちょうど炊飯器が電子音を鳴らした。ご飯も炊き上がったらしい。

 俺は自分の部屋に戻り、お前を起こしてやる。

「飯だぞー」

 目を開いたお前が、にこりと笑う。飯だと呼びかけるだけでこの笑顔っていうのは、安上がりだな、とも思う。が、かわいいのでよしとする。

「おはよ」

「おはよう」

 俺の首に両腕を回して額をこつんと当てた。

「後輩さんは、起こした?」

「いや、まだ」

「じゃ、先に起きてなきゃ」

 俺に軽くキスをしてからベッドを出て行く。洗面所経由で自室に戻る。俺は部屋を出て、今度はリビングの部下を起こした。揺すっても目を覚まさず、拳骨を頭に落とした。

「痛っ」

 飛び起きて、俺をみて、ぽかんとし、そして突然さぁっと青くなった。どうやら昨日のことを思い出したらしい。あわわわわ、と漫画みたいに震えだした。

「起きて飯食え。あ、その前にそれ、脱げ。なんとかしねーと」

 俺が指差したのは部下の着ていたスーツ。上下ともしわくちゃだった。もちろんワイシャツも。

「ああああ、すみません」

「いいから、脱げ」

 わたわたしている部下のスーツを、無理矢理脱がしにかかった。上を脱がせ、ベルトに手をかけたところで、後ろから声がした。

「おはようございます」

 それはやけに丁寧で、俺は少し、ひやっとした。

「え、あ、おはようございます」

 部下は突然立ち上がり、ぴんと背筋を伸ばした。

「あ、あの……」

 俺とお前を交互に見て、部下が困っている。

「同居人だ」

「あー、ルームシェアっていうやつですか?」

「そんな感じかな」

 お前が笑顔で答える。部下はへー、とつぶやいてから、急にはっとして、またしても青くなる。

「ききき、昨日はすみませんでしたっ。もしかして俺、失礼なこと──」

「いえ、お仕事大変ですね」

 にっこりと、営業用スマイル──ではないか、お前の場合。仕事中は常に無愛想だ。とにかくその整った顔で完璧な笑顔を作った。

「ははははい、先輩には、いつも、すごくご迷惑を」

「へぇ。──で、その先輩は、後輩の服を脱がせる趣味が?」

 俺の手はまだ部下のベルトにかかったままだ。

「アイロンかけんだよ。こんなめちゃくちゃな格好じゃ、外出れないだろ」

「ああ……」

 お前はうなずいて、ソファに放ったスーツを手にした。

「じゃ、俺がやってあげる。二人とも会社に遅れちゃうから、先に準備してご飯食べなよ」

 恐縮している隙に、俺はベルトを外した。ワイシャツの方は自分で脱いでもらうことにした。身体中から漂う酒の匂いを落とせ、とバスルームに放り込む。

 シャワーの音が聞こえてきたことを確認して、アイロンをかけていたお前がにやりと笑う。

「部下の服脱がせるなんて、やーらしー」

「あいつの服を脱がせても楽しくない」

「本当かなー」

 しわはきれいにとれそうになかったが、このくらいならずぼらな人間なら許容範囲だろう。俺はきちんと、しわ一つないスーツに着替えた。茶碗を用意し、味噌汁を温めた。

「脱がして楽しいのは、お前の服だけだな」

 ぽつりとつぶやくと、お前が真っ赤になった。

「な、何言ってるの?」

「いや、本当に」

 シャワーを終えた部下が戻ってきて、お前は慌ててその赤くなった顔を隠した。

「あの、本当にすみません。すみません」

 着替えをしながら、何度も謝る。

「いいから、食え。遅れる」

 俺が食卓に呼んでやると、部下ははい、と元気よく返事をした。

 朝飯を食っている間中、すごいです、うまいです、と連呼された。アイロンを片づけ、途中から一緒に食事に加わったお前が、なぜか嬉しそうにしていた。

 あとで聞いたところ、料理を褒められて、自分が作ったわけでもないのにとても嬉しかったらしい。

 そんなわけで、今朝は食欲魔人が一人増え、3合炊いたご飯が空っぽになってしまった。

 片付けはお前に任せ、俺たちは出勤だ。

 玄関を出るとき、お前が袖を引いたので、部下を先に外に出した。

 微笑むお前がやたらきらきらしているように見えるのは、俺の気のせいだろうか。

「行ってくる。──昼、食いにいく」

「うん」

 にっこり笑って頬に唇が触れた。いってらっしゃいのキス。ああ、何のサービスだ、これ。

「いってらっしゃい」

「ああ」

 お前の頬に触れてから、俺は家を出た。

 道々、部下の質問攻めが待っていた。

「先輩、同居してたんですね」

 とか、

「どういう経緯で一緒に住んでるんですか?」

 とか、

「いつも一緒に飯食ってるんですか? ルームシェアってそういうもんなんですか?」

 とか、

「年、結構違うみたいですけど、どこで知り合ったんですか?

 とか、

「すっごいきれいな顔してましたね」

 とか。

 この部下にはまだ、会社近くのカフェを教えていない。会社の人間は何人かあのカフェを利用しているし、そこの美形だけど無愛想な店員、のことも知っている。

 もしこの部下にあのカフェと、名物店員の存在がばれたら、芋ずる式にすべてが明るみになっていくような気がした。この少し抜けた部下は、ついうっかり、をよくやる。

 だからと言って口止めすれば、ますます疑惑を生むだけだろう。

 まぁ、俺は別にばれてもいいんだけどな。

 俺は、まだ次々に質問してくるこの犬のようなかわいい部下に、一つだけ、応えてやることにした。

「あの人、すごくいい人でしたね。先輩のご飯もすごくおいしそうに食べてたし──きっと先輩のこと大好きなんですね」

 なんて、無邪気に訊ねてきたから。

「ああ、俺のこと、めちゃくちゃ好きなんだ」

 と。

 多分、このくらいじゃ、この鈍い部下には気付かれないだろう。

 俺はそう言って、笑った。


 了

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