ばくにくわせろ


 朝、目が覚めたら隣にお前が寝ていた。

 俺はベッドに上半身を起こし、まだ寝とぼけた頭でぐるりと周りを見回した。俺の部屋。俺のベッド。

 昨日は一人で眠ったはずだ。何もイタシテないはずだ。

 なのになぜ、お前がここにいるんだ?

 ふわぁとあくびを一つして、乱れた髪に手を突っ込んでかき回す。

 夕べはオヤスミって声をかけて部屋の前で別れて一人で眠った。ベッドに倒れ込んだらそのまま一度も目覚めないままだった。

 だから、今の状況がまったく飲み込めない。

 俺は隣ですやすやと眠るお前の頭をそっと撫でてみた。さらさらの髪が指先をすべり、その表情が少し柔らかくなった。

 相変わらずつるりときれいな肌。あれだけの暴飲暴食をしているとは思えないほどのハリツヤ。その辺のくたびれた微妙な年齢の女性が見たら、ハンカチ噛み締めてキーッって言いそうだ。

 俺はくっくと笑う。

 もう一度撫でてやると、今度は笑った。幸せそうな寝顔がかわいい。

 俺は身をかがめて額にキスしてから、そのままお前の身体を抱き締めるような格好で横になった。腕の中に収まったお前の頭が小さく揺れて、俺の胸にその額を押し付ける。

 起きているんじゃないかと一瞬思ったが、どうやら無意識のようだ。そのままくーくー寝息を立てている。

 休みの日の朝のワンシーンとしては、この上ない幸せ。

 まあ、昨日の夜は何もなかったけどな。

 しかし。

 お前の髪を撫でながら、俺は考える。

 一体いつ、お前はここにやってきたんだ?

 というか、何でここにいるんだ?

 いちゃいちゃしたいなら、眠る前に言えばよかったのだ。どちらかの部屋で抱き合って眠ればよかったのだ。それだけのことなのに。

 昨日、お互いの部屋の前で、オヤスミ、と言葉を交わした。ちょっと微笑んで、マタアシタ、なんて聞こえてきそうな口元。名残惜しいなと思いながらも、俺は一人で眠った。

 夢を見ていた気がする。内容が思い出せないのは、きっと、たいした夢じゃないんだろう。

 でも、悪い夢ではなかった。何か食べていたような気はするが、よく分からない。

 お前を抱き締めていたら、またうとうとしてきた。ちょうどよい抱き枕になっているらしく、なかなか収まりがいい。うつらうつらと半分眠りの世界に入り込んだとき、俺の右足はお前の足に乗り上げて、そのままぎゅっときつく抱き締めるような格好になった。次の瞬間、ごっ、と音がした。少し後れて俺の顎がずきずきと痛んだ。

「痛ったぁ!」

 俺は顎を押さえて叫ぶ。目だけで胸元のお前を見ると、座ったような目で俺をにらんでいた。

「何すんだよ」

「それはこっちの台詞。足、重いし痛い」

 聞くと、俺がお前に乗っけた足が勢いよく骨に当たったらしい。それでお前は安らかな睡眠から引き戻され、顔を上げたら目の前にあった俺の顎に掌底をくらわせたと言う。

 寝起きに掌底って。

「それに、何で腰に手回ってんの?」

「いや、それは」

 お前はむっとして俺に抱き寄せられたまま見上げるようにしてにらんでいる。

「それはまぁ、なんつーか、うん、あれだ、うん」

「何?」

 朝からそんなににらむなよ。

 俺はまだ乗り上げたままの足をお前の足に絡める。腰の辺りを抱き寄せていた手に力を入れる。さっきよりももっと密着してやった。

「朝起きて愛しい人が隣で眠ってたら、誰だってこうするに決まってるだろ?」

 思いっきり顔を近づけてささやいてやった。無駄に甘い声で。

 お前はそれでもしつこく俺をにらみ上げていたが、俺がそれでもしつこく見つめていたらふっ目をそらした。それから自分も抱きついてくる。

 おお。

 ちょっと感動。あんまりこういうことには乗っかってくれないから、正直照れる。

「夢、見た」

 俺の胸で、くぐもった声が聞こえた。

「怖い夢」

 抱きつく力が強くなる。

「夜中に飛び起きて、おもいきり泣いた。大声で泣いた。もしかしたらあんたが気付いて来てくれるかもって思ったから」

「あ、あー……すまん」

 布団に入って数秒で眠りに落ちて、さっき目が覚めるまで熟睡していたとは言いにくかった。お前がベッドにもぐり込んできたのも気付かなかった。

「いつまで経ってもあんたが来ないから、夢が本当になったのかと思った」

「え?」

「もう、やだ」

 俺の胸にぐいぐいと顔を押し付ける。まるでその距離をゼロにするかのように。絡んだ足も、背中に回った手も、さっきから力が入りっぱなしだ。

「あんな夢、見たくない」

「どんな夢だったんだよ」

「言ったら、正夢になりそうだから、嫌だ」

 よほど嫌な夢だったのだろう。さっきまであんなに幸せそうに眠っていたはずなのに、今は少しかすれた涙声になっている。その肩が小さく震えていて、本当に泣き出してしまいそうだった。

 俺はお前の頭を撫でる。

「大丈夫だよ」

 できるだけ優しくささやく。

「ただの夢だ。現実じゃない」

「でも──」

 夢を見て、泣いて、俺が来てくれるのを待って、裏切られて、そしてお前は俺の元へとやって来た。真夜中、何も知らずに眠りこける俺の横に滑り込むために。そういうことでいいんだろう。

 俺はお前が泣いていたことに気付いてやれなかったことを悔やむ。

 申し訳ない。なんせ安眠の人間なのだ、俺は。

 だからお詫びとばかりに優しく抱き締めた。

「俺ならちゃんとここにいるから」

 ぴくん体が揺れた。俺の夢を見たのだということだけは分かった。そしてそれは口にするのも嫌だというくらいの悪夢で、お前はとても辛そうだ。

「だから大丈夫だ」

 言い聞かせるように耳元でささやく。ちゃんとお前の心まで俺の声が届くように。

「大丈夫。そばにいる」

「うん」

 素直にうなずいて、少し身体の力を抜いた。押し付けていた顔を離して俺を見上げる。目元が真っ赤になっている。潤んだその目で見上げられ、理性が飛びそうになる。

 いやいや。今は頼られているところだから。

 目が泳ぐのを見られないようにお前の頭を抱き寄せる。

 けれどどうやら見破られていたようで、お前が腕の中で肩を震わせながら笑っていた。

「笑うな」

「だって、すっごい我慢してる顔してるし」

「そりゃするだろ。お前かわいすぎる」

 お前は顔を上げて、俺に向かって笑ってみせる。

「起きる」

「ああ」

 ベッドの上に身体を起こした。てっきりそのままベッドを出るのかと思いきや、お前が今度は俺に覆いかぶさるように抱きついてくる。

「重い」

 本当に身体ごと乗っかられた。お前は、失礼な、と言いながら身体を起こして両腕で支えた。

 えーと、なんだか俺が押し倒されているような格好になってるんですけど。

 お前のきれいな顔が俺を見下ろす。しばらくそのまま見つめ合っていた。

 まだ赤みの残る熱っぽい目元。ぼんやりと俺を見つめるその目がやたら色っぽく見える。

 俺は自分の両腕を、はたしてお前の腰に回していいものなのかと逡巡していた。下手なことをしたらまた怒られそうな気もする。が、この体制は期待してもいいような気もする。

 ぐるぐると考え込んでいると、お前がくすりと笑ってそのまま俺にキスを落とした。

 ああ、オッケーなんだな。

 そう判断してその腰を引き寄せようとして──するりと逃げられた。いや、逃げられたというのとは違うのかもしれない。お前は俺にキスしたあと、すぐにベッドを降りて部屋を出て行ってしまった。最初からそのつもりだったのだろう。ややあって、洗面所で水音がした。

 生殺し。

 宙に浮いた両手をばたんと下に落下させ、俺は溜め息をつく。

 あんな顔見せておいて、ちょっとずるいぞ、お前。

 俺がベッドの上でうー、とうなっていると、洗面所から出てきたお前がひょいと俺の部屋を覗き込み、

「お腹すいた」

 と言った。


 朝ごはんは昨日買っておいたバゲットでサンドイッチを作ることにした。いや、長さは60センチあるかどうかなので、バタールと言うべきか? 長さと名前の基準がいまいち分からない。

 その長さのまま横に等分するように切込みを入れる。ただし切り分けてしまわないよう、逆サイドはくっつけたままだ。

 その切り込みにバターと辛子を塗って、準備は完了。

 グリーンカール、ブロッコリースプラウト、クレソン、スライスオニオン、スライスピーマン、ブラックオリーブ、生ハム、スモークサーモン、アボカド、オイルサーディン、クリームチーズ、ブルーチーズ。とにかく思いつくものを彩りよくバランスよく挟んでいく。完全に挟まれず、はみ出しているのも計算。全体にバランスよく配置された具材が食欲を刺激する。

 カウンター越しのお前目が子供のようにきらきらしている。漫画だったらわくわく、と背中に書き文字をしょっていそうだ。

 オリーブオイルとワインビネガー、挽いたピンク岩塩とブラックペッパーで味付けすれば完成だ。

 サンドイッチの具の余りのクリームチーズとスモークサーモンでスクランブルエッグを作り、ちょっと手抜きして缶詰のトマトスープを鍋で温める。

 はちみつをかけたヨーグルトとカフェオレを用意して、終了。

 50センチ強の、切り分けられていないサンドイッチがテーブルに置かれると、さすがに迫力があった。サンドイッチが乗っているのは木製のカッティングボード。もちろんスライスするためのブレッドナイフも用意してある。が、とりあえず聞いてみる。

「このまま食いたいか?」

 その瞬間、お前が勢いよくサンドイッチから俺に顔を向けた。

「食べてみたい」

 だろうと思った。俺は苦笑しながらいいぞと答えてやる。もしかしたらそうなんじゃないかなと思っていたのだ。だからあえて切り分けなかった。

 お前が期待をこめた目でそれを見つめ、そっと持ち上げる。具が落ちてしまわないように、あくまでそっと。

 そしてがぶりと噛み付く。

 もっくもっくと口を動かし、ごくんと飲み込むと、にこーっと、笑顔になった。

「おいしい」

「そっか」

「食べて、そっち側」

 まさかこんな馬鹿でかいものを両端から食べていこうなどと考えるとは思わなかった。でもまあ、俺も悪ノリして反対側にかじりついた。ソースの代わりのオリーブオイルか、サーディンのオイルか、どちらかは分からないが、口からこぼれて顎に伝った。俺は唇を舐め、オイルを手の甲で拭った。

 やっぱり食べづらいな、と言って笑ったら、お前はしつこくそのままかじりついて、でも、そうだね、なんて答える。

 そのあとはきちんと食べやすく切り分けて食べた。

 食後、甘いものが足りない、とお前が戸棚からスチール缶を取り出した。昔、海外旅行へ行った友人がお土産に買ってきてくれたお菓子の缶だった。おしゃれできれいな柄のそれを捨てるのがもったいなくて、今は俺が作ったお菓子を保存するためのボックスになっている。

 中には昨日焼いたクッキーが入っている。例のごとくクッキーが食べたい、と言い出したお前のために作ってやったものだ。生地は俺が作ったが、型抜きは一緒にやった。面白がって色々なものを買ってくるお前が集めたクッキー型は、今や20種類を越えている。

 何の脈絡もなく飛行機の次はハート、その次はクマ、鍵、ただの丸、多分ハロウィン用のゴースト。そんな風に色々な形のクッキーがテーブルに並んだ。甘いバニラがふわりと香った。

 俺はそれを一つ一つ並べながら、ふと、その手を止めた。

 ──この形は?

 さくさくクッキーをかじりながらカフェオレのお代わりを入れているお前に、俺は訊ねる。

「結局──どんな夢を見たんだ、お前」

 お前は持っていた牛乳パックを傾けたまま、凍りついたように俺を見た。

「言ってみろよ。現実になんかならないって保証するから」

「────」

 パックを冷蔵庫にしまって電子レンジにカップを入れ、スタートボタンを押す。お前は黙ってレンジを見つめている。ピーっと音がしてそれを取り出し、インスタントコーヒーと共にテーブルに置く。お前は俺の隣に座った。

「本当に?」

 コーヒーをひと匙入れたカップの中身をスプーンでかき混ぜながら問う。

「本当に現実にならない?」

「ならない」

 手を止めて、お前が俺を見る。

「あんたがいなかった。どこにも」

 また泣きそうな顔をしていた。

「俺は一人でこの家にいた。あんたの部屋は空っぽで、どこを探しても見つからなかった。それで、キッチンで俺は泣いてた。いつもはカウンターから見てるはずのキッチンが、すごく広かった。それで──思い出すんだ、唐突に。──ああ、俺、最初からここに一人で住んでたんだっけ、って」

 カップから湯気が立ち上がっていた。インスタントコーヒーが混ぜられ、ホットミルクはカフェオレになっていた。けれど差し込まれたままのスプーンがどこか寂しそうに見えた。そのステンレスのスプーンはカフェオレの熱を身体に移すけれど、その熱のやり場はどこにもないような気がした。触れたカップの縁にも、身体をさらす外気にも、その熱は溶け込むはずなのに。

「あんたは初めからいなかったんだって気付くんだ。俺は一人だって」

 お前が目を細める。辛そうに。

「だから目が覚めたとき、本当に一人だったのかもしれないって、怖くなった」

「そうか」

「走って部屋に行ったんだ。布団かぶって寝てる姿見て、すごくほっとした。また泣いた」

 俺はお前の頭を撫でてやる。

「それで、一緒にいたくて、ベッドにもぐりこんだ」

 おとなしく撫でられているお前が、すがるような目をしている。

「ごめんな。泣いてるときに気付いてやれなくて」

 ぶんぶんと首を振る。

「俺がずるかったんだ。来てくれるのを待ってるだけなんてさ」

「でも、気付いてやりたかった。お前がそんな辛いときに、馬鹿みたいに寝こけてたわけだし──」

「うん。間抜けな顔して寝てた」

 お前が笑顔を見せる。それで俺もようやくほっとした。カップからスプーンを抜いて、そのカップをお前に渡してやる。

 こくりと一口。

 俺はテーブルに並んだ様々な形のクッキーから、一枚取り上げた。

 それは、耳のない像のような形をしていた。

 こんな型があるんだな、と思った。

「悪夢を見たときは、おまじないを唱えるといいんだ」

 俺はそのクッキーをお前の手のひらに乗せてやる。

「ばくにくわせろ」

 俺の言葉に、お前がきょとんとする。

「こいつ」

 そのクッキーを指差す。それは紛れもなくバクの形をしていた。珍しい型を見つけるたびにお前が一つずつ増やしていくクッキー型。それが今、役に立ったような気がした。

「悪い夢を見たときは、バクに食わせろって唱えるんだ。そうしたら、その夢をこいつが食ってくれる」

「バクに、食わせろ」

 お前が繰り返す。

「こいつにみんな、食ってもらいな。嫌な夢」

 お前は目からうろこが落ちたような顔をしていた。そして手のひらのクッキーをつまみあげ、中に掲げた。シンプルなプレーンクッキーでできたバクが、そこにいる。

「そっかぁ」

 バクは顔もなく、ただその形だけだ。けれどお前にはそれで充分だったらしい。

「バクに食わせろ」

 はっきりとそう言って、それからにこりと笑った。

「もう、これで大丈夫かな」

「ああ」

「そっか。じゃ、現実にはならない」

「ならない」

 俺はうなずいてやる。

 お前が俺に抱きついて、目の前で微笑んだ。

 俺はその身体を抱き締めてやる。お前は俺の頬にキスをして、俺の目の前にクッキーを掲げた。

「ねぇ」

 そしていたずらっぽく笑う。

「また嫌な夢をみないように──」

 それから俺の耳元で小さくささやく。とびっきりの甘い声で。

「今日は一緒に眠って」

 すっと身体を離したお前は、悪夢を食ったバクを、食った。

 バニラの甘い香りが漂う。

 俺はその誘惑に、負けた。


 了

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