猫の王

 ユウの姿が、風が解けるように、衣を脱ぎ捨てるように、黒と白を綺麗に上下に分けた猫へと変わる。

 走るユウの後を追い、確実なタイミングで突進を仕掛けた猪型のフルール『ターボア』は、土煙を巻き起こして地面だけを抉り取った。

 ターボアは、疾走からの方向転換で急停止し、自分が轢いた相手を確認しようと試みるが、ユウは其処にはいない。

 ユウはターボアの上空で宙返りし、猫の姿のまま、前足を振った。

 斬撃。猫の鋭い爪が大気を斬り、真空がターボアの皮の厚い背中を引き裂いた。

 怒りで鳴き喚くターボアに、まだダメージは少ない。背中の脂肪が防刃ジョッキのように、ユウの斬撃を受け止めたのだ。

 しかし、ユウもそれは予想していた。

 化け猫の、人に猫の部品を装飾みたいにくっ付けた姿へ戻り、ユウは八重歯を剥く。

 あんぐりと口を開け、吠え猛りながら怒りに感覚を鈍らせたターボアの死角となる腹の下から、体を潜り込ませて。

 現実の猪、その成獣と同じ体躯を持つターボアの喉にがぶりと噛み付いた。

 野生の獅子が如く、ユウは厚く弾力があり、硬い毛が生えて泥に汚れた猪の喉元に躊躇いなく歯を突き立て、顎に力を込める。

 大口を開けたせいで、唇の端から唾液を垂らしながら、ユウはターボアの喉を圧迫し気管を閉じる。

 ターボアの叫びが、瞋恚しんにから悲痛へ変わった。

 ターボアが飛び上がり、転がり、暴れ回って、自分の命に手を掛けるユウを振り解こうとするが。

 ユウはターボアに噛み付いては、いなかった。

 もう、ではなく、一度も。

 〈マヤカシ〉。それは現実と相違ない幻を相手に魅せるスキルである。

 ユウは、にやりと口の端を持ち上げて、今度こそまことに八重歯を剥いた。

 ちろりと、珊瑚色の舌で唇を舐める。

 ターボアが、〈マヤカシ〉の幻覚に噛み付かれたという思い込みから、心因で呼吸を止めようとしているその瞬間に。

 ユウの可愛らしさも感じさせる小さな牙は、ぐわりと開かれた口の動きに従って、ターボアの首の肉と皮ごと頸動脈を食い千切った。

 間歇泉のように、ターボアの鮮血が心臓に押し出されて撒き散らされる。

 その数滴がユウの顔に飛び、ユウはそれを指で拭って舌で舐め取った。

〔〈バーサス・プレイ・タイプ:化け猫〉が3レベルになりました〕

〔〈ドロップ品:猪肉〉を取得しました〕

「いっよっしゃー! 猪肉げっとー♪ どうだ、紡岐さんは強いんだぞー!」

 歓喜と自信に溢れるユウは、両腕を薄曇りの空に掲げて雄叫びを挙げた。

 一体誰に向けて勝ち誇っているのか、こやつは。

「でも、仔犬には泣きそうになるけどね」

 そして、妖すの未言未子がぽつりと水を挿す。

 ユウは錆びた歯車みたいな動きで、此方に振り返った。

「な、泣いてないし。犬なんて、怖くないし。きらいなだけだし」

[うにゅ、店主様、ぼくのこときらいですか?]

「み!? 二条のことだとは言ってないでしょー!?」

 彼方からも此方からも舌戦を仕掛けられて、ユウは右往左往する。

 そのわたわたと困り果てて声が大きくなる姿を見て、妖すと双緒太夫が楽しそうにくすくすと笑う。

「いやぁ、見てて飽きんせんなぁ」

「はぁっ♪ 母様かわいいっ」

 この二人の隣にいるのが、先程から嫌になってきた。

[つーか、相変わらず、狩猟がこええよ、この魔女の恋人]

[ふむ、魔女でなくても恋人に変わりないから、この呼称がやっぱり便利か]

[二つ名確定? じゃ、ウィキ更新するわ]

 視聴者もサポートなのか弄りなのか分からないが、良い動きをしている。暇なのか、お前等。

「さて、もうレベルも上がったし、さくさく目的地に行こうか」

「ほらほら、母様、あそこにフルールいるよ? わんちゃんだよ?」

「いい感じにレベルも上がったし、道草食ってないで、双緒太夫の依頼を早く解決しないといけないね! さぁ、さくさく行こう!」

 妖すが指差す『ポメット』を意識の中へ全く受け入れず、ユウは私達を促す。

 妖すと双緒太夫が生温い笑みでユウの後ろに付き添った。

 そうして猫の砦に向かう途中で、双緒太夫はユウを見上げる。

「そうそう。遥様、猫に化けなんし」

「え? なんで?」

「その方が忍び込むのに便利でごさりんすから」

「正面から迎え入れてもらえないの……」

 ユウはがくりと肩を落とした。

 どうやら、ケット・シーに助けを求められていても、それが全体からではないらしい。

 ユウはくるりと体を猫に変える。妖すの未言未子は、上手くユウの背中に乗った。

 仮にも母親に跨がるとかどうなんだ、この娘は。

 白黒のユウと黒猫の双緒太夫とキジトラの私の三匹が、丘を駆け抜ける。

 自分達の短い影を追って行くと、丘の向こうにその砦は姿を見せた。

 煉瓦の積み重ねられた本体が、石を組み上げた土台に乗っている。ヨーロッパ、特にイギリスやアイルランド系の遺跡を思い浮かべれば、分かりやすいだろうか。

「此方に来なんし」

 双緒太夫は、見えたケット・シーの砦へは直行せずに迂回する。

 砦から少し離れた位置にある小川へ近付いて行く。其処には、砦の方角に空いた穴から、チョロチョロと水が流れ落ちていた。

「もしかしなくても、排水溝ですか?」

「此処からは猫か鼠くらいしか入りんせんから、誰も気を張ってござりんせん」

 まぁ、犬が入ろうとしたら頭が嵌まってしまうような大きさしかその穴にはない。まして、クー・シーは大型犬よりさらに大きいから、まず侵入は不可能だろう。

 双緒太夫がひょいと穴に跳び入ると、ユウも躊躇いなく続く。

「うへぇ。じめじめするよぉ。母様のバカ」

「わたしのせいじゃないよね!?」

 妖すが湿気に文句を付けるものの、流れて来る水は濁りもせず、綺麗なものだ。

 水を跳ねさせて、ユウ達は水管を抜け、途中で屋根裏に潜り、外からは見えない建築の隙間空間を縫って進む。

 途中で、ユウが足を止めた。屋根の隙間から目を覗かせ丸々と瞳を太くする。

 その視線の先で、二匹のケット・シーが話をしていた。

「おい、聞いたか。犬共、近い内にここに攻め込んで来るってよ」

「はぁ? お前、どこで聞いたんだよ」

「森のリスが教えてくれたんだ。犬共も森の動物は警戒しないから、大声で話してたってよ」

「マジかよ……あいつら、姫さんをオレらが隠したと勘違いしやがって、これだから脳筋はよぉ」

「犬共から砦を守るモンを付けなきゃなんねぇから、坊っちゃんや姫さん探す手が足りねぇ。ほんっと、めんどくせぇ」

 どうやら、本格的に血で血を洗う危機が迫りつつあるようだ。

「これは、うかうかしてらんないね」

 二匹のケット・シーに気取られる事もなく、ユウは無音でその場を離れる。

[忍者かよ]

[こんな忍者いたら、詰むわ]

[潜入はご覧の通りだし、SEN高くて、盗み聞きし放題だし、なんかあれば敵を薙ぎ倒せるし……え、忍者って言うか、アサシン?]

[止めろよ、現実になったらどうすんだよ]

 それが現実になったら、ユウの性格上、棟梁の首を取って帰って来るだろうな。

 昔、TRPGでシナリオの黒幕が顔を見せた時に、意気揚々と殺害して、黒幕が死んでいるのにクライマックス戦闘やって、プレイヤーとルーラーになんでこの戦闘やっているのだろうとか言わせたからな、こやつ。

 半端な情報から勘で真実を確定させるから始末に悪い。

 まぁ、ユウが即死攻撃を仕掛けた時点で、ルーラーも黒幕を逃がせば良かったものを。キャストの手が届く所に居座るから、ユウも、じゃあ、と言ってさらに即死攻撃を重ねたのだから……。

「いや、そこで即死攻撃を重ねるな。シナリオ進行が困るの分かりきっていただろうに」

「いきなりなんで紡岐さん罵倒されたの!? どうしたの、かしこ!?」

 しまった、つい思った事がそのまま口を突いてしまった。

「楽しそうやけど、着きなんしたよ」

 双緒太夫が真下の部屋を覗くようにユウを促す。

 其処は武骨で石の硬さが目立つ砦の中には不似合いに美麗な装丁をしていた。

 素材の良さそうな執務机が柔らかいカーペットの上に鎮座し、白い長毛を良く手入れしたケット・シーが腰掛けている。

 クラシックのメイド服を来た侍女が二匹、軽装の軍服を来た指揮官らしき者が一匹、扉の前には金属鎧を急所に当てた兵士が二匹、何れも棒が刺さったように直立している。

「おお。不良じゃないにゃんこもいたのね」

「こら、妖す。……わたしもそう思ったけどさ」

 叱り付けるのに説得力が皆無だぞ、未言屋店主。

 明らかに位が最も高い白いふわふわしたケット・シーが、指揮官の為に万年筆を走らせていた前足を止める。

 ぴくりと耳が跳ねた。

「王よ、何かありましたか?」

「いいえ、耳が痒くてね。これの後は少し休むわ」

「そうですか。王が休まれれば、私達も気を緩める事が出来ます」

「そうね。猫は寛いでるのが本来の仕事だもの、そうなさい」

 ウィットに富んだ会話を、王と呼ばれた白猫は指揮官と交わしつつ、その書類を仕上げて渡した。

「猫の王って、メスもなれるの?」

「猫だから、なんでもどうでもいいんでありんす」

 お前等は猫であっても、もう少し真面目に生きてくれ。

[ネコばっかかよー。虎だせよ、つむむー]

[セム、こら、遥ちゃん見て気をそらすな、壁崩壊させてんぞ、お前!?]

[お? おー、やっば。がんば(笑)]

[お前ががんばれよっ!!]

 ついでに、『バベルの塔』で被害を更新しているネコ科仮装大賞も真面目に生きてくれ。頼むから。

 白猫の女王は、するりと優雅に席を立ち、兵士が立つのとは逆に隠されていたドアの取っ手を捻る。

 其方が私室という事なのだろう。

 双緒太夫が尻尾を振って、ユウを其方側へ招く。

 屋根裏には壁の仕切りは届いていないので、四歩歩くだけで部屋を越えられた。

「太夫、連れてきてくださったのね」

 猫の女王は、淀みなく、親しい友に対して信の深い声を送った。

「王様、連れて来なんしたよ」

 双緒太夫も、親しい友へ、気取りを剥いだ柔らかな素の声で応じた。

 双緒太夫はするりと部屋へ降り立ち、途中で人に猫の装飾を生やした姿を取った両足で毛足の豊かなカーペットを踏んだ。長い黒髪が、慣性に従って数秒浮遊し、さらさらと重力に引かれて沈んだ。

 そして、《化け猫》は三日月より尚細い瞳でユウと私を招く。

 ユウが天井から部屋へ降りた。ユウもまた、落下の途中で人と猫の混じった姿となり、此方は四肢で床を捉えて着地し、反動を付けて起き上がって背筋を伸ばした。

 ユウの白と黒に斑な尾が、緊張の為に落ち着かずに渦を描く。

 ユウは、静かに猫の瞳を開き、猫の王に見える。

「あ、あの……」

 もじもじと躊躇いながらも、ユウが声を発した。

 猫の王は疑問を丸々とした瞳に浮かべながらも、頷いて先を促す。

「なでなでしてもいいですかっ!?」

 ……欲望に忠実過ぎるだろう、このバカネコ。

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