第7話:決戦“大百足”

 原因不明の揺れは多くの生徒の不安を煽り、校庭に集められた後、集団下校という形を取ることになった。新学期早々、物騒なものだと呟く悠。太一は面白がっていたが、陽にとっては到底笑える話ではなかった。

 新たな魔童、“大百足”。二葉からの情報によると、体長はゆうに十メートルを超え、禍々しい甲殻に身を纏っているという。“八咫烏”の力で突破できるとは思えなかった。羽根をいくら飛ばしたところで、その装甲にはかすり傷一つつけられないだろう。自然と目線も下がる。地面はまだ微かに揺れているようだった。

 ため息を吐く陽、太一はその肩に腕を回した。

「おいおい、しけたツラしてんなよな。午後の授業はなし、遊びに行けるじゃんか。カラオケ行かねえ?」

「太一、話を聞いてなかったな? 今日は自宅で待機って先生が言ってただろ」

「そんなつまらん規則に縛られてたまるか! 今日から土日も合わせて三連休だぞ! いま遊ばずしていつ遊ぶ!」

「やれやれ……七尾よりよっぽどの問題児がいますよ、先生。それより七尾、大丈夫か? 顔色、相当悪いけど」

 悠の言葉で我に返り、下手くそな笑顔を繕う。

「あ、あはは……大丈夫です。ちょっと、地震で嫌な思いをしたことがあって」

 嘘だった。高校生になってから、嘘を吐かざるを得ない状況に追い込まれ過ぎだと苦笑する。悠は目を伏せ、眼鏡の位置を直す。太一はというと、能天気に空を仰いだ。雲一つない快晴が、余計に不安を煽った。

「ま、深くは探らねえよ。親しき中にも礼儀あり、だしな」

「驚いたな、太一がそんな言葉を知ってるなんて」

「馬鹿にしすぎじゃねえ? 俺、一応高校生だぞ?」

 二人の掛け合いも、いまは頭に入ってこない。陽の頭にはもはや“大百足”といかに戦うかしかなかった。少なくとも、“八咫烏”の力では一撃で倒すほどの破壊力は出せない。となれば二葉に頼るほかないのだが、“大煙管”がどれほどの攻撃性能を持っているかもわからなかった。期待はし過ぎない方がいい。憑魔士本部からの応援を待つのも手だと考えたが、到着する頃には取り返しのつかないことになっている恐れがある。それならば、陽と二葉で退けるしかない。

 そう、無理に倒す必要はないのだ。退け、被害の拡大を防げばいい。そう考えれば、いくらか気が楽になった。

 マンションに到着し、二人と別れた陽は、エレベーター前に人影を見つける。見れば、真中菜摘だった。足音で気づいたのか、振り返る菜摘。ぎこちない笑顔だった。

「おかえり、七尾くん」

「真中さんも、おかえりなさい。それより、なんでここに?」

「七尾くんを待ってたんだ。なんか、一人じゃ怖くてさ。誰かと一緒にいたかったの」

 困ったように笑う菜摘。弱音を吐く彼女を初めて見たせいもあり、陽は硬直してしまった。こういうとき、どうやって対応すれば不安を和らげられるのだろう。ヤタが見ていた恋愛ドラマの映像が脳裏を過るが、被りを振って払い除けた。

 ――駄目だ、高校生にはまだ早い。

 陽は時代に合わない硬派な考えを持っていた。

 あれこれと思索に耽り、ある結論に辿り着いた。陽は手を差し出す。きょとんと目を丸くする菜摘。

「赤ちゃんはお母さんの手を握ると安心するそうです。それはなぜかというと、生後間もない赤ちゃんにとってお母さんは自分の存在を預ける存在であり、その肌の温もりで大きな安心感を得られるんだそうです」

 陽が知り得る中で、もっとも健全な安心のさせ方だった。菜摘は頭上に疑問符を浮かべ、苦笑した。

「ねえ、それってさ。あたしが赤ちゃんで、七尾くんがママになるってこと?」

「……ハッ! 言われてみれば、そう捉えられますね……!」

 そこまでの配慮をしていなかった陽は、しまったと頭を抱えた。陽が言いたかったのは、赤ちゃんはそうやって安心感を得るのだから、高校生にしてみれば気休め程度にしかならないだろうがやってみようという提案なのだ。確かに菜摘の言う通り、彼女が無力な赤ん坊で、陽がその存在の全てを預かる母親という立ち位置に置き換えられる。日本語の受け取り方は多種多様だと驚かされた瞬間だった。

 本気で悩む陽を見てか、菜摘はようやく心からの笑顔を見せた。

「ふふ、あははっ! 七尾くん、励まし方、下手だね」

「返す言葉がありません……」

「でもね、ちょっと元気出た。ありがとね、七尾くん」

 どうやら力にはなれたらしい。安堵の息が漏れた。エレベーターに乗り込んでからは無言だったが、菜摘の空気が僅かに和らいだのがわかる。それならばいい、と陽も喋りかけることはなかった。降りてから、菜摘の部屋の前で立ち止まる。

「それでは、今日はゆっくり休んでください」

「うん、ありがとう。ごめんね、情けないところ見せちゃって」

「お気になさらず」

 人間なのだから、弱さがあって当たり前。二葉だって弱いところがあるのだ。高校生の菜摘が弱くないはずがない。陽が微笑を向けると、菜摘も笑顔で返した。まだ少しぎこちなかった。

「明日からはまた元気だから、今日のは忘れてね」

「僕が忘れずとも、真中さんなら塗り替えてくれるでしょう?」

「そうだね、塗り替えちゃうよ。真中菜摘は元気でパワフルでエネルギッシュなんだから」

「ふふ、期待しています」

「それじゃ、またね」

 手を振り、鍵を開けた。扉が閉まりきったところで、陽も自分の部屋へと向かう。鍵は開いていた。二葉が開けておいたのだろう。リビングには深刻な面持ちの二葉とエンカンがいた。陽に気づくと、ため息を一つ。

「おかえり、陽」

「ただいま。……“大百足”のこと?」

 二葉は窓際で煙草を咥える。一つ息を吐くと、頷いた。あまりにも重苦しい表情に、陽はたまらず問う。

「そんなに重く考えることなの? 確かに手強いみたいだけど……」

「違うんだよ。こいつは“鵺”と同じで、大昔に駆逐されたはずの魔童なの。それがなんだっていまになって……」

 それならば“鵺”と同様に、何者か――恐らくは憑魔士――が隠匿していた可能性もあるかもしれない。陽の考えを読んでか、エンカンが煙を吐き出した。

「“鵺”と違って己影ではないようだから、生き残りがいたと考えるのが妥当だろう。もしくは、魔童の成長過程で突然変異が起きたか、だね」

「魔童の突然変異?」

「魔童は動物や昆虫の体を利用して成長する、これは知っているかな? その過程で許容量を超えた魔力を浴びると、体が耐え切れずに急激に変質することがあるんだ。無論、大量の魔力を蓄えた魔童は強力な力を得る。今回の“大百足”も、そうして生まれた可能性がある」

 つまり、過去に滅ぼされたからといって二度と現れないとは言い切れない。“鵺”もそうして生まれ、未熟なままに宿主を喰らって生き続けているのだろうか。宿主にされた者には同情するしかない。

 二葉は煙草を灰皿に押し付け、冷蔵庫から小さなお茶のペットボトルを取り出した。ぐいと一息に飲み干すと、頭を乱暴に掻く。

「なんにせよ、あたしらの手に負える魔童かどうかもわからない。ただ、援軍を待ってる間に被害が広がるのも避けたい」

「僕たちにできることは、退治じゃなくて撃退。“大百足”を退けて、援軍が来るまで時間を稼ぐのが正着だと思う」

「なーに弱気な作戦会議してんだ?」

 窓から声が聞こえると思えば、ヤタが帰宅していた。また九直を追いかけていたのだろうか。エンカンが含みのある笑みを浮かべた。

「さすが、美景家の己影である“八咫烏”は言うことが違う。なにか作戦があるのかね?」

「正面突破以外あるカァ?」

 ――ヤタに期待した僕が馬鹿だった。

 陽はがっくりと肩を落とす。てっきり秘策があると思っていたが、やはりヤタだ。なにも考えていないようだった。すっかり重苦しい空気になったリビングで、ヤタだけが陽気に翼を動かしていた。羽根が散らばった。それが余計に陽の気分を落とす。

「おら、ヒナタ。しけたツラしてんじゃねーよ。オレが頼りないってのカァ?」

「頼りないというか、呆れたよ。なんにも考えてないんじゃないか」

「考える必要がねーだろ。お前はオレをなんだと思ってんだ?」

「なにって……美景家の己影でしょ」

「正面切って戦う理由なんざ、それだけで充分だろ。オレは“八咫烏”。憑魔士一族の長とずっと一緒に戦ってきたんだぞ。普段はちゃらんぽらんだけどよ――あんまり舐め腐ってんじゃねーよ」

 ぞわり。背筋に悪寒が走った。いま目の前にいるのは、陽の知るやかましいヤタではない。美景家を支えてきた己影、“八咫烏”なのだ。二葉も口が出せていない。ヤタが発する威圧的な空気に圧されているようだった。

 押し黙る二人を見て、ヤタは翼を額に当てた。ため息も交えて。

「オレってそんなに信用ねーの?」

「日頃の行い、というものだろうね。同情するよ、“八咫烏”」

「嘘こけ、同情なんてしてねーくせに」

「ふむ、もう少し口が巧くならないといけないね。処世術というのは永遠に学び続けるものだ」

「お前ほど勤勉な魔童は見たことねーよ。御見逸れしたぜ」

「お褒めに与り光栄だよ」

 笑い合うヤタとエンカン。どうやら陽と二葉が思っているよりも、己影たちは重く捉えていないらしい。不安が残る二人だったが、迎え撃つという話に落ち着きそうだった。

 だが、その場合に困ることが一つ。いまこの状況で、菜摘を餌にすることは躊躇われた。彼女の心はいま衰弱している。そんな状態で危険に遭わせてしまえば、立ち直れないくらい深い傷を負うかもしれない。陽は今一度考える。菜摘を利用して、本当に大丈夫なのか。

 二葉も同じことを考えていたようで、ぽつりと呟く。

「今回、真中ちゃんを餌にする作戦は避けたくなるよね」

「やっぱりそう思う?」

「戦うことで手一杯になりそうだしな。この作戦は見送った方がいいか」

「それがいいカァ。なにかあってからじゃ遅ェからな」

 ヤタもエンカンも二人の気持ちを汲んでくれたようだった。今回は“大百足”を退けることだけ考えればいい。それだけで、僅かに余裕が持てた。

 しかし、ヤタがああも自信に溢れているのはなぜだろう。“八咫烏”の力は羽根を使った遠隔攻撃。羽根を束ねて攻撃力を高めることも可能だが、巨大な相手には通用しないかもしれない。“髪切り”にだって防がれかけたのだ、不安はどうしても拭えなかった。

「ヒナタ、今日はバイトか?」

「ううん、今日は休み」

「それじゃ、ゆっくり休んどけ。フタバ、“大百足”の捜索にはいつ行くんだ?」

「早い方がいいからね。今日、一度見回ってみっか」

 二葉の提案に異を唱える者はいなかった。

 ――僕に、できるのかな。“八咫烏”の力を、憑魔士一族の長の力を、使いこなせるのかな。

 不安は、消えそうになかった。


 時刻は二十三時。陽と二葉は魔憑銃を持って夜の街を歩き回っていた。人の姿はほぼなく、皆、昼間の揺れのために自宅で過ごしているのだろう。それならば一般人に見られる可能性も低くなる。

 緊張で口数が少なくなる陽。その背中を、二葉が軽く叩いた。

「ほら、肩の力抜きな。緊張してると、憑魔化したときに上手く体が動かなくなる」

「そうなの?」

『俺とヒナタの憑魔化は融合型だからな。感覚がダイレクトに直結するから、極力リラックスした方がいーんだよ』

 陽の質問に答えたのは弾丸のヤタ。陽は初めて聞く単語に首を傾げた。陽が知らないと気づいたらしく、二葉が説明を始める。

「憑魔化には二種類あんの。一つは武装型。己影の力を武器っていう制御しやすい形に具現化するタイプ。あたしと一哉兄さんがこれ。そんで、もう一つは融合型。己影の力を自身と同化させることで強力な力を引き出せる。その分、体に異物が流れ込むから、堕影化のリスクも負う。陽がこのタイプね」

「堕影化のリスク……?」

 ヤタの力に溺れれば、自身も化け物になってしまう可能性がある。陽の不安は天井知らずに膨らんでいった。それを察知したヤタが笑う。

『安心しろって。堕影になるのは共生の意識がない魔童の場合だから。オレはヒナタを支配しようなんて意識はねーし、力の制御の方法もわかってる。重く捉えんなよな』

「……うん、ありがとう」

「ま、いざとなったらあたしが助けてやっから。あんたはやれることを全力でやりな」

 陽は頷く。そうだ、自分一人で戦うわけではない。“大百足”がどんな魔童であろうと、陽はできることをやるだけだ。

 職場の近くまで来たところで、二葉はふらりと道を逸れる。視線の先には灰皿。陽はやれやれとため息を吐く。

「……一本だけね」

「悪いね。あたしも立派な高額納税者になったもんだよ、ほんと」

 二葉は灰皿まで駆け足で向かう。魔童とは違った意味で心配になる。わざわざ職場に顔を出す必要もないのだが、ふらりと店内に入る。夜勤の二人が目を丸くした。

「あれ、陽じゃん。こんな時間に出歩くなよ、危ないぞ」

「あはは、ちょっと姉に付き合わされてしまって」

「へー、姉ちゃんいたんだ。どんな人? 美人?」

「外で煙草を吸ってます」

 外の灰皿を一瞥する三人。もくもくと煙を吐き出す二葉を見て、夜勤は意味深な息を吐いた。

「後ろ姿でも美人ってわかるわ、すげえな」

「喫煙者じゃなけりゃあなあ、陽のお兄さんに立候補してたぜ」

「あはは……結構きつい性格ですよ、あの人」

 苦笑する陽。二葉が窓の外から手招きしていた。どうやら満足したらしい、夜勤に「頑張ってください」と別れを告げて、再び魔童の捜索に戻る。

 揺れはしばらく感じていなかったが、どこかで潜んでいるかもしれない。そう考えると、油断はできなかった。

「魔童が出てきたら、九直くんは動くのかな?」

 陽にとって気がかりな点でもあった。憑魔士ではないと言っていたが、これだけ大きな魔童が相手となれば、大貫家でも動く可能性があるのではないか。二葉は夜空を仰ぎ見て、「どうだかな」と呟いた。

「魔童に対抗する術を持ってんなら来るだろうし、持ってなけりゃあ来ないんじゃないの?」

「……それもそっか」

 それからしばらく歩いてみたが、“大百足”が現れる気配はなかった。なにかを待っているような、不気味な空白。二葉も緊張していたのだろう、これ以上の捜索は時間の無駄だと判断したのかため息を吐いた。陽も、ここまで動きがないのなら探し回るだけ無駄なのかもしれないと感じていた。

「出てこないもんは仕方ないし、今日は終わりにするか」

「そうだね、いざというときに疲れてたら目も当てられないし……」

 陽の携帯が音を立てる。通話の呼び出し音だった。誰かと思えば、菜摘から。意図が読めずに困惑していると、二葉がニヤリと意味深な笑みを浮かべた。

「若い子は積極的だねえ」

「どういうこと?」

「いいからほれ、出なさい」

 言われるがまま、菜摘からの着信に応じる。

「もしもし」

『七尾くん、夜遅くにごめんね。いま、九直くんが訪ねてきたんだけど……』

「九直くんが?」

 九直が菜摘の部屋を訪ねる理由がわからない。いったいなにを企んでいる。いや、わかっている。菜摘を喰らおうとしていたのだ。二葉にも聞こえるように、スピーカーに切り替えて話を続ける。

「詳しくお聞かせください」

『えっとね、あたしに用があるって言ってたんだけど、なんか怖くて。モニターから見てたんだけど、すごく怖い顔してた。呼吸も荒かったし……扉を開けようか迷ってたら、すぐに七尾くんの部屋に向かったみたいなんだけど……』

「怒っているようでしたか?」

『怒ってるっていうか、落ち着きがなかった。よくわからないけど、禁断症状、みたいな……』

 九直がなにかを我慢しているということだろうか。そうまでして耐え忍ぶ必要があるものとは――二葉が小さく呟いた。

「まさか、魔力?」

「え?」

「陽、一旦切って。後で話す」

「う、うん。……わかりました、すぐに九直くんと落ち合います。心配なさらず。それではまた」

『え、ちょ、七尾く――』

 強引に通話を終え、二葉が走り出す。陽もそれに続いた。説明は走りながらするようだ。

「二葉ちゃん! 魔力ってどういうこと!?」

「わかったんだよ、あのガキの正体が!」

 声を荒げる二葉。陽もそれに釣られて声が大きくなる。息切れしてしまいそうなペースで走っているが、この後のことなど考えていなかった。

「あのガキが真中ちゃんを美味そうって言ったのは喩えでもなんでもない! 本当に惹かれてた! 正確には、あのブレスレット! あいつは魔力に強く惹きつけられる! そして、ただの人間に魔力は必要ない! 己影を持たないならなおさら! じゃあ、魔力が必要な理由は一つだけ! 魔力がないと生きられないから!」

「……! それって、まさか――」

「そう、あのガキが堕影――“鵺”ってこと!」

 衝撃だった。確証がないため憶測に過ぎないが、納得も出来てしまう。菜摘を美味そうと表現したのは、彼女自身のことを指していなかったのだ。正確には、彼女の持つブレスレット。強すぎる魔力を放つそれに惹かれていたということだ。それならば菜摘からブレスレットを取り上げれば解決する話なのだが、彼女にとって思い入れのある品だ。そう簡単に手放すとは思えない。事情を説明するにしても、肝心なことが話せないのではどうしようもない。

 どうやってあの少女を危険から遠ざけるか。陽も二葉も、そればかり考えていた。すると、向こうから九直が走ってくるのが見えた。確かに、表情がおかしい。いつもの無機質な仮面はなく、飢餓感に苦しんでいるような余裕のなさが見えた。

 九直は二人を見つけると足を止め、荒い呼吸を繰り返した。

「ハアッ、ハアッ……! 美景陽、美景二葉……!」

「九直日影、正直に答えなさい。あんたが“鵺”なの?」

 答えられないのだろう。いま、九直の頭はまるで働いていない。あるのは飢えに対する苛立ち、恐怖。野生の獣となんら変わりはない。質問するだけ無駄だと判断した二葉は魔憑銃を取り出した。九直は動きを止め、二葉の魔憑銃を凝視する。よだれが滝のように流れ出た。

 ――そうだ。封弾を込めた魔憑銃も、魔力の塊。九直くんが、堕影が欲してやまない代物だ。

 二葉は無言で魔憑銃をこめかみに撃ち込む。彼女の体から煙が発生し、右手に大きな煙管が握られた。それを機に、九直が飛びかかった。獣を彷彿とさせる瞬発力だった。

「二葉ちゃん!」

「クソガキがっ!」

 九直を煙管で迎撃し、吹き飛ばす。倒れる九直だったがすぐに立ち上がり、懐からナイフを手にする。ヤタが投げられたというナイフだろう。ただのナイフとも思えなかった。九直はそれを右手に持ち、再び二葉に襲いかかった。

「陽、こっちは任せな! あんたは真中ちゃんのとこに急ぐ!」

「でも!」

「いいからさっさと行け!」

 九直のナイフが頬を掠めた。血が滴り、煙管から煙が立ち昇る。直後、二人を煙が覆い隠し、晴れたときにはすでに姿はなかった。“大煙管”の力によるものだろう。二葉の安否も気になるが、いまは菜摘の傍にいるべきだと判断した陽。マンションへの道をひた走る。

 職場付近まで来たところで、陽はレジ袋を下げた少女の姿を確認する。陽はその背中に声をかけた。

「真中さん!」

 突然の大声に驚いたのか、怯えた表情で振り返る真中菜摘。陽と確認すると、安心したように微笑した。

「七尾くん、こんばんは。すごく慌ててるみたいだけど、大丈夫?」

「僕は大丈夫です。それより、外は危険です。早く帰りましょう」

「ど、どうしたのさっきから……わあっ!」

 説明する時間も惜しい、菜摘の手を引いて走り出す。そのときだった。

「うわっ、また揺れ……!?」

 ――しまった。

 激しい揺れがしたかと思えば、くぐもった声が聞こえてくる。出所は――足元。

『――なんだか美味そうな匂いがするなァァァ?』

「くっ!」

 菜摘を突き飛ばす陽。彼女がいた場所から、幾重もの刃がついた足が飛び出してきた。少しでも遅れていたら、菜摘の体は貫かれ、ばらばらに引き裂かれていたところだろう。弾丸状態のヤタが叫んだ。

『このタイミングでおでましかよ! ヒナタ! 憑魔化しろ!』

「わかった!」

 魔憑銃を取り出し、こめかみに撃ち込む。ヤタの力が体を巡る。だが、以前とは様子が違っていた。“髪切り”との戦闘時はヤタの力に呼応して体が適応する形に変化していたが、今回は細胞そのものが強引に組み替えられるような感覚。全身が熱を帯び、陽の表情に苦悶が映る。

「ヤタ、これは……!?」

『悪いが、ちょい本気だ! 手加減して勝てる相手じゃなさそうだからな!』

 陽の体は闇のような黒い毛に覆われ、目元を覆う仮面が生まれる。腕そのものが翼となり、腰からは一本の強靭な脚が生えた。“八咫烏”の力に身を浸した姿だった。人間の面影が大きく薄れたその姿は、融合型の憑魔士として在るべき姿だった。

 菜摘の方をちらりと見やる。震えたまま、言葉を失っているようだった。なにか言葉をかけるべきなのだろうか。考えていると、地面が再び大きく揺れた。陽は腰から生えた三本目の脚で菜摘を掴むと、急速に上空へ舞い上がる。菜摘は精神的な混乱で甲高い悲鳴を上げていた。

「下ろしてっ! なんなのもう! 早く!」

「すみません、安全なところで必ず下ろします!」

 暴れ回る菜摘にその言葉が届いたかはわからない。

 見下ろせば、コンクリートに亀裂が走っていた。直後、それを突き破ってなにかが迫ってくる。鬼のような顔に、クワガタムシの顎がついたような顔だった。

『避けるぞ!』

 翼を動かし滑空する陽。禍々しい赤の顎を避け、人の姿がないところまで飛んでいく。菜摘は相変わらず泣き喚きながら暴れていたが、憑魔化した陽の脚は彼女を掴んで放さなかった。

「放してっ! 早く! なにが起こってるの!?」

『おいおい餌が逃げんなよォォォ!』

 改めて“大百足”の姿を見る。顔は人間味があるものの、無数の足には鋭利な体毛がびっしりと生えており、各々が意志を持ったように動いている。体は鋼鉄のような甲殻に覆われており、隙がなかった。

 菜摘もその姿を直視したようで、短い悲鳴の後に気絶した。陽は安堵した。暴れられるより、こうしてもらえる方がありがたかった。それに、“大百足”も菜摘のブレスレットに惹きつけられているのだ。手放せば余計危ない。

 どうやって戦うべきか――そう思った矢先のこと。足元が騒がしくなった。見れば、命知らずの野次馬と、巡回中の警官が見えた。

「馬鹿っ、なにして……!」

『雑魚が出しゃばってんじゃねえよォォォ!』

 地中から足が現れ、警官や野次馬に襲いかかる。陽はすぐに羽根を飛ばして足を切り落とした。さすがに危ないと判断したらしい、慌てて逃げ去る野次馬と警官。一般人に被害が及ばなかったことは、陽の心に安心感をもたらした。息を整え、“大百足”に向き直る。ヤタの声がした。

『フタバがいねーのは不安か?』

 確かめるような声音。陽は硬い表情で被りを振った。

「大丈夫。ヤタがいるから」

『カッカッカァ! よく言った! そんじゃまあ、気合い入れてけよ!』

「わかってる!」

 “大百足”は奇妙な唸り声を上げた。大気を震わせるほどの圧力。体が強張るのを感じた。

『ハハハハハッ! お前、憑魔士って奴かァァァ! さぞかし美味ェんだろうなァァァ!?』

「黙って喰われる餌と思うな……!」

『その通り! っしゃあ、いくぞ!』

 陽は腕を二、三度振るった。幾百もの羽根が舞い、ヤタが呟く。

『“かさね”』

 羽根が風に弄ばれるように踊り、重なる。およそ四十の黒い矢が生まれ、“大百足”は高らかに笑う。

『羽根じゃあ傷一つつかねえよォォォ!?』

『なら確かめてみろよ! “猛雨たけさめ”!』

 黒い矢が雨となって“大百足”に降り注ぐ。黒く艶めく甲殻に弾かれる――と思ったが、矢は甲殻に突き刺さり、亀裂を走らせた。ヤタの力が以前よりも強いのは、彼が本気を出した――正確には己影の力を強く流し込んだからだろう。“大百足”も想定していなかったようで、再び大きな声を上げた。

『アアアアアッ!? おいおいただの羽根じゃねえのかよォォォ!』

『己影の羽根がただの羽根なわけねーだろ!』

『このクソガキィィィ! ぐちゃぐちゃにしてやらァァァ!』

 “大百足”が足を伸ばしてくる。どうやら伸縮自在のようだった。ヤタの意志に身を預け、夜空を翔ける。四方八方から迫ってくる凶刃を次々にかわしていく。上昇、急降下、旋回、停止。地上よりも回避のパターンが多い空中戦は“八咫烏”の十八番だった。

 攻撃が当たらず“大百足”の苛立ちが募っているのがわかった。キシキシと凶暴な歯を鳴らしている。ヤタが不敵に笑いを吐き出した。

『どしたどしたァ!? 遅すぎてあくびが出るぜ、おい!』

 煽るヤタ。“大百足”は三度絶叫し、大きく口を開けた。

『図に乗るんじゃねーぞォォォ!』

 口の中から無数の舌のようなものが飛び出してきた。刃物のような鋭さはない。だが、なにかが地上に滴っていた。粘り気の強いものだった。

『捕まるとまずいな、そんなら、切り落としちまおーや! ――“斬翼きりつばさ”!』

 腕の感覚が変わる。ぞわりと翼がうごめき、陽は空中で停止した。ヤタの意志が体を動かす。迫り来る無数の舌を、翼で迎え撃った。なにかが宙を舞った。“大百足”の舌だ。“斬翼”は翼を硬質化させた迎撃形態。“八咫烏”は遠隔攻撃だけではないのだ。隙の少なさこそ、美景家の己影足り得た所以である。

 立て続けに襲いかかる不気味な舌を、容易く切り捨てる。ヤタの意志であるとはいえ、これだけ巨大な魔童を相手に遅れを取っていないのは驚きだった。

 ――そう、驚いた。僕は油断してしまった。

 切り損ねた舌の一本が、陽の足に巻き付いた。

「しまった!」

『この野郎っ!』

 すかさずヤタが切りつけるものの、その一瞬が命取り。全方位から足が襲いかかってくる。

『やべえ――』

 気がついたときには、世界が反転していた。体が冷たい、重力を感じる――堕ちている。“大百足”の笑い声を最後に、陽の視界は黒に塗り潰された。


 ときは少し遡り――。

「あんたが“鵺”なら、止めてやるのが憑魔士の務めよね」

「グウウウ……!」

 陽が住むマンションの屋上で、二葉と九直は対峙していた。今日は月がよく見える。明かりには困らなかった。

 九直はナイフを持ったまま、獣のように荒い息を吐き出している。明らかに異常、魔力が枯渇して生命活動の維持が困難になっているのだろう。堕影にとって魔力の枯渇は、酸素を奪われ徐々に殺されるのと同義だった。

「会話はもう通じないってことかい。そんなら、黙らせてやるよクソガキィ!」

 二葉の声を皮切りに、両者が同時に飛び出した。九直は低い姿勢からナイフを水平に振るう。二葉はそれを小さく飛んで回避した。煙管を構え、下から掬い上げる。九直は後ろに飛び退き、それをかわす。鼻先を掠めたが、九直は怯まない。

 九直がナイフを振り下ろす。二葉はそれを掠めるように避ける。スーツの肩口を浅く裂き、血が滲む。これでいいのだ。“大煙管”の力は、攻撃を受けることで強くなる。致命傷を避けるように立ち回り、ときたま反撃した。殺さない程度の攻撃だ。九直は容易く回避する。二葉の狙いは一撃必殺。いまは当たらなくてもよかった。

「いやあ、すばしっこいね。ほんっと、獣だな?」

「喰わせろ……その、力ァ」

「嫌だね。この力はあたしの宝だ、くれてやるつもりはない」

「なら、奪うだけだァ!」

 再び飛びかかる九直。腕がぼこぼこと音を立てて変質した。虎のように逞しく、凶悪な爪を持っていた。以前見た“鵺”の肢体と同じもの。やはり九直日影が“鵺”という推測は間違っていないのだろう。

 二葉は煙管を構えてそれを待った。迎え撃つというよりは、回避のタイミングを計っているようだった。二葉の意図を理解したエンカンはたまらず声を上げる。

『二葉、あまり無茶をするんじゃない!』

「悪いね、そうも言ってられねえわ!」

「ガアアッ!」

 薙ぎ払われた九直の腕が二葉の腹部を裂いた。致命傷にならないように。煙管から濃い煙が発せられる。ニヤリと不敵に笑う二葉。

「このときを――待ってた!」

 煙管が煙を吐き出し、九直を拘束する。闇を塗り潰すほどの黒い光が放たれ、二葉の目に殺意が灯る。煙管を振り被り――

「死ねェ!」

「――やめておけ」

 背後から聞こえた声。振り返りざま、二葉の喉元に刃物が突き付けられる。そこにいたのは、生傷の絶えない厳つい顔をした壮年の男だった。濃紺の袴を身に纏っており、二葉は目を細める。

「大貫、賢三……!」

 陽の恩人である大貫賢三が、目の前にいた。唸り声を上げる九直も、大貫の存在に気づいたようだった。なにかを乞うように目線で訴えている。大貫は嘲るように鼻を鳴らし、五センチ程度のブロックを放り投げる。九直は床に転がったブロックに喰らいつこうと暴れた。

「ちょ、暴れんな!」

「放してやれ。それを食えば落ち着く」

「信じられるか。大貫家の言うことなんてよ」

「酷いことを言うじゃないか、美景二葉。よく考えろ、貴様らの尻拭いをしてやってるのは誰だと思っている? 言葉遣いはもう少し慎重になれ」

 二葉は考える。大貫を信用するのは危険だが、九直日影――苦喰は大貫の管理下にある。苦喰に関することは、信用してもいいかもしれない。二葉は憑魔化を解除し、苦喰を解放する。苦喰はブロックを手にすると、節操なく貪り喰った。欠片がぼろぼろとこぼれているが、気にも留めていないようだった。

 苦喰は深い息を吐いた後、倒れ込む。大貫は苦喰を抱え、二葉に背を向ける。二葉はその背中を睨みつけた。

「あんた、苦喰になにをさせようとしてる?」

「貴様に話す必要はない」

「あたしは知る権利がある。よく考えろ、あんたが話してるのは誰だ?」

「無力な女。それ以上でも以下でもない」

 二葉は言葉を失う。無力な女。自分を表すのにこれ以上適当な表現はなかった。うつむく二葉を振り返ることもなく、大貫は闇に姿を眩ませた。弾丸の姿になったエンカンが語りかける。

『あれが大貫か。陽くんの恩人だったかな』

「そう、あいつが陽を助けた。……なにか聞ければよかったけど、そんな余裕もなかったわ」

『どうしてだい?』

「目を見ればわかる。人間らしい感情なんて一切ない、機械みたいな目をしてた。下手に食い下がれば、殺されてた。あたしは命が惜しい。ほんっと、無力な女だよ」

 現実に打ちひしがれる暇もない。大きな揺れを感じた。恐らく、陽と“大百足”が交戦している音だろう。ハッと顔を上げ、音のした方を見やる。

「陽が危ない、行かなきゃ……エンカン!」

『わかったよ。いいかい二葉、無茶だけはしないように』

「……わかってるよ」

 再び憑魔化し、自身を煙で包む。転移先は、マンションの玄関前。闇にそびえる巨大な影が見えた。夜空を舞う頼りない影も。二葉は胸に手を当て、小さな影に向かって告げる。

「待ってろ、陽。あんたはあたしが守る」

 煙管を力強く握りしめ、二葉は走った。その胸を焦燥感に乱されながら。


『――タ、ヒナタ! 起きろ!』

 遠くからヤタの声が聞こえる。憑魔化は解除されていないようだが、陽にはもう動く気力がなかった。体の熱がなくなっているのがわかる。血が流れているのだ、それも、尋常ではない量が。

 頭上から“大百足”の声が聞こえてくる。

『ギャヒャヒャヒャヒャァァァ! 大したことねえなァおい!? さっきの強気な態度はどこ行ったんだよォォォ!?』

『ヒナタ! 立て!』

 ――もう、無理だよ。

 陽は戦意を喪失していた。戦えるだけの力が残っていない。ヤタの力に肉体が追い付いていないのもあった。ヤタと憑魔化して戦うのはこれで三回目、まだ魔力を扱えるだけの器ではないのだ。

 生暖かい風がかかる。“大百足”の吐息だろう。生ごみのような臭いに、陽は嗚咽を漏らす。

『もう虫の息じゃねえかァァァ……お前からも美味そうな匂いがするんだ、まずお前を喰って、それから後ろの女だなあァァァ?』

 ――そうだ、真中さんもいたんだ。無事、かな?

 気力を振り絞って目を開く。菜摘はやはり動かない。死んでいないと信じたかったが、いまの陽を支配するのは諦念だった。もはや抵抗の意志もない。

『そんじゃ、いただきまァァァす!』

『ヒナタァ!』

 瞬間。鈍い音と共に“大百足”の頭部が大きく仰け反った。迫る足音。

 ――誰だろう。

「陽、遅くなってごめん」

「ふたば、ちゃん……?」

 その声は二葉のもの。おぼろげな視界に、凛々しく立つ二葉の背中が見えた。諦めていない。“大百足”を退けるつもりなのだ。

 ――無理だよ、こいつは止められない。

 弱音が湧いてくる。しかし音にならなかった。陽の口からは力ない息だけが漏れた。直後、頭頂部に金属質ななにかがぶつかる。煙管だった。

「諦めんな。あたしがいる、エンカンがいる。当然、ヤタもいる。あんたは一人で戦ってるわけじゃない」

 ――そうだ、僕には、みんながいる……みんながいるなら、もう少し頑張ってみようかな。

 陽は体に鞭を打ち、立ち上がる。血が抜けてまともな思考が働かない。陽を動かすのは、“大百足”を倒し、菜摘を必ず家に送り届けるという使命感だけだった。ヤタが安心したように息を漏らした。

『ったく、手間かけさせやがって!』

「ごめんね、ヤタ。二葉ちゃんも、ありがとう」

「そういうのはあとでいい。ひとまず、こいつを倒すことだけ考えな」

 煙を吐き出し続ける煙管。二葉も傷を負っているが、それでも戦い続けるのは憑魔士としての矜持からか。陽は自然と笑みを浮かべた。

 ――二葉ちゃんが諦めてないなら、僕も諦めるわけにはいかない。

 立ち上がり、上空へ舞い上がる。二葉がいるならば、陽の役割は陽動。決めるのは二葉の役目だと判断した。“大百足”は歓喜の叫び声をあげる。

『ハハハハハッ! また美味そうな女だなァァァ!?』

「ハッ、そりゃどうも。ポジティブに捉えておくわ。――行くぞ!」

 二葉は煙管を振るう。煙が頭上に浮かび上がり、二葉は跳躍。煙の上に着地し、次の煙を吐き出し、飛び乗る。“大煙管”ならではの空中戦だった。陽も舞い上がり、“大百足”を攪乱するように飛び回る。“大百足”は苛立ったように歯を鳴らし、再度口から舌を吐き出した。二手に分かれ、陽と二葉を捕らえようと動く。

『ヒナタ、もうわかってるな!?』

「うん! “斬翼”!」

 翼が刃に変じる。滑空しながら、迫り来る舌を次々に切り落とした。ヤタの力がいつもより強いからとはいえ、自分がここまで動けることに驚いた。二葉の方を見やれば、煙管の一振りで舌を粉砕していた。以前、“髪切り”と戦闘したときとは比べ物にならない力だ。

 痺れを切らした“大百足”は金切声をあげた。

『キアアアアアァァァ! 小賢しいごみ共がァァァ!』

「ごみの意地ってもんを――見せてやるよ!」

 二葉が大きく跳ぶ。煙管が力強い輝きを発し――“大百足”の脳天めがけて、振り下ろした。爆発にも似た衝撃が発生し、“大百足”の頭部が抉り取られる。断末魔のような鋭い声が響いた。

 陽もこの機を逃すまいと、羽根を舞わせる。

「“重”」

 風が巻き起こり、羽根が躍る。重なる羽根は一本の巨大な矢を形作った。弓を引き絞るような動作の後、放つ。

「“衝星つきぼし”!」

 光速で迫る漆黒の矢を回避できるはずもなく。“大百足”の胴体に巨大な風穴を空けた。耳を塞ぎたくなる不愉快な鳴き声が闇を切り裂く。

『クソガキがァァァ! 喰ってやる、喰ってやるからなァァァ!』

『生憎、これで最後なんだわ。振り落とさなかったのが運の尽きって奴よ』

 “大百足”の甲殻には、先ほどの“猛雨”で命中した矢が残ったまま。これが決め手だった。陽は手のひらを開き、ゆっくりと握る。

「――“破風やぶりかぜ”」

 刺さった矢が旋風を巻き起こしながら炸裂。風の刃と硬質な羽根が“大百足”の全身を引き裂いた。生命活動の維持が困難なほどの傷。文字通りの致命傷となり、“大百足”は派手な音を立てて倒れた。二人は憑魔化を解除し、二葉は煙草に火を点ける。

「今度こそ、封弾撃ち込みな」

「……いいの?」

「頑張ったあんたたちへのご褒美」

「ありがとう」

 陽は魔憑銃を向け、引き金を引く。“八咫烏”の宿った封弾が命中すると“大百足”の体が黒い粒子となり、魔憑銃に吸い込まれていった。ひとまずは、危機を脱することには成功した。陽は安心感から、尻もちをついてしまう。二葉も額を袖で拭った。

「ひとまず、お疲れさん。真中ちゃんは大丈夫?」

「そうだ、真中さん……!」

 いまだ動かない菜摘。耳を寄せれば、呼吸は聞こえる。死んではいないようだった。安堵の息が漏れる。二葉も安心したように煙を吐いた。

「ちゃんと守れたじゃん。よくやったね、陽」

「……守れたのかな。こんなに危ない目に遭わせて、本当に、守れたって言えるのかな」

 化け物に追われながら空を飛び、まともに動くこともままならないまま、云百もの刃に襲われる。あまりに現実離れした経験をさせてしまって、本当に守れたと言えるのか。明日からどんな顔で接すればいいのか、陽にはわからない。

 二葉は陽の頭を撫でた。口元には、笑みを湛えていた。

「命があるだけ充分。あんたはちゃんと、真中ちゃんを守ったよ」

 その言葉で、いくらか救われた気がした。

 騒ぎが落ち着いたことで人が集まる可能性がある。二葉の提案で、すぐに菜摘を家まで送ることを決めた。部屋番号は三〇三号室。陽の三つ隣の部屋だった。当然、鍵がかかっている。二葉が菜摘のズボンを探り、部屋の鍵を見つけた。鍵穴に通し、開く。

「……誰もいない」

 時刻は深夜零時を回った。しかし家には誰もいない、両親は仕事中だろうか。兄弟もいない? 思えば、菜摘の家庭環境については聞いたことがなかった。

 なにか複雑な事情があるならば、深入りすべきでない。わかっていても、心配にはなった。

 室内は簡素で飾り気がなく、特段女の子らしさのある部屋ではなかった。陽はなんとなく、病院的な無機質さを感じていた。二葉がため息を一つ吐いて、奥の部屋――寝室を指す。

「ひとまずいまは、真中ちゃんをベッドに寝かせよう。家庭環境まであたしらが立ち入るのはよくない」

「そう、だね……部屋はあっちか」

 菜摘の寝室に入ると、暗闇が迎えた。カーテンは閉め切られ、照明もついていない。二葉が携帯のライトで部屋を照らすと、ベッドに沢山のぬいぐるみが横になっていた。女の子らしさよりも、どこか異質な空間という雰囲気が見受けられた。

 菜摘をベッドに寝かせ、部屋を出る。あの状態の菜摘を一人にしておくのはいささか不安だったが、部屋にいても逆に不信感を募らせるだろう。悪い夢を見ていた、そう思ってもらうのを期待するしかなかった。

 ふと、リビングに視線を走らせれば写真立てが見つかった。何気なく手に取って見る。幼い少女と、夫婦と思しき男女が映っていた。幼少時の菜摘と両親であることはわかっていたが、なぜこんなに古い写真を残しているのだろう。部屋を見回しても、最近の写真はなかった。

「……真中さん、なにがあったんだろう」

 いつも笑顔を咲かせる健気な少女の過去に思いを馳せる。

 ――どこかで、力になれるといいんだけど。

 普通の人間として生き始めて、十年経った。いまでも普通の人間がなんなのかはわからない。それでも、支えになれるならなりたい。他人に対してこんな感情を抱いたのは初めてで、その感情がなんという名前なのか、陽にはわからなかった。

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