第6話:束の間の平穏
「おはよう! 七尾くん、九直くん!」
翌日、いつも通りの登校風景。菜摘が真ん中で、左右に陽と九直が並ぶ。今日は天気がよく、日差しが気持ちいい。ほのかに暖かくなった空気を吸い込み、菜摘は体を大きく伸ばした。
「なんか暖かくなってきたね!」
「もう春ですからね、エアコンを使わなくていいのは助かります」
「節約って大事だもんね、お姉さん……二葉さんだっけ? も、協力してくれるといいね!」
いったいどんな嘘を吹き込んだのだろう。まったく関係のない菜摘が応援するということは、自虐めいた嘘だったのだろうが、二葉に直接聞くのも躊躇われた。知っている振りをして「そうですね」と苦笑を返す。
ちらりと、菜摘の手首を見やる。確かにブレスレットがはめられていた。これが魔力を発し、魔童を引き寄せる原因となっているとのことだが、陽にはやはり感じられなかった。憑魔士としての訓練を受けていなかったからだろうか。やはり二葉や九直に比べて鈍感らしい。今朝、二葉からも改めて話を聞いたが、彼女が初めて魔童に襲われたのは十年前。親から離れられない年齢で、どうして魔童と遭遇したのか。詳しく話すつもりはなかったようなので、陽から訊くつもりもなかった。
九直は前を見たまま歩いているが、どことなく落ち着きがないように見えた。口元をきつく結んでいるが、そのせいか僅かに震えている。気を抜くとよだれが垂れてしまうからだろう。九直に気を配りつつ、菜摘を見る。“ぬけ首”に肩を噛まれていたと言っていたが、そんな様子を見せない健気さに、陽は内心不安になった。苦しいときや不安なときに笑顔を繕うのは並大抵のことではないと知っているからだ。それは陽が諦めたことで、どうこう言う筋合いはない。それより、九直だ。
陽は探りを入れる目的で九直に話を振ってみる。
「九直くんはご両親のお世話になっているんですか?」
わかりきった質問だった。九直が大貫の遣いでありながら、二葉は知らなかった。つまり、陽と同じで拾い子の可能性がある。そうなれば、九直は大貫の世話になっているはずだ。それで大貫の所在が知れれば儲けもの、九直が一人で暮らしているということであれば大貫とのコンタクトをなにかしらの方法で取っているということがわかる。
九直は陽に怪訝な眼差しを向ける。こちらの意図が読まれたかはわからなかった。
「両親はいない。いまは一人で暮らしてる」
「そうだったんですか。身寄りはいないのですか?」
「茶番はよせ」
どうやら見透かされていたらしい。押し黙る陽に、菜摘が首を傾げた。
「知ってたのにそんなこと聞いたの? 七尾くん、意地悪だね」
目を細める菜摘に耐え切れず、陽は苦笑する。なにも知らない人間からしてみれば、確かに意地の悪い質問だっただろう。菜摘にどう思われても関係はないが、心象が悪いままでいるのも少し居心地が悪かった。
「……そうですね、失礼なことをしてしまいました。すみません、九直くん」
「構わん」
それからはどことなく気まずい空気が流れ、沈黙したまま校舎に到着する。二人とは玄関先で別れ、陽は自分の教室に向かう。今日から本格的に授業が始まる。クラスメートと余計な交流を図らなくていいのは陽にとって幸いだった。相変わらず、廊下を歩けば道ができるのは少々居たたまれないものがあるが。
教室に入れば静寂と囁き声のお出迎え。よくもまあ飽きないものだと嘆息する陽。自分の席に着くと、後ろの席から音がする。あえて触れることもない。担任の到着を待っている間、教科書にぼんやりと目を通していた。
担任が到着すると、朝のホームルームが開始される。なんてことのない連絡事項を受け、終了。担任はちらりと陽を一瞥した。恐らく、あまり派手な動きはするなという釘だろう。毛頭、そんなことをする気がない陽は小さく肩を竦めた。
――そうだ、忘れていたことがあった。
授業までの短い休み時間を利用して、B組へ足を運んだ。教室を覗くと、菜摘は数名の女子生徒と談笑していた。あの場に入り込む勇気はなく、またあとにしようと思った矢先、陽に気づいた生徒が短い悲鳴を上げた。それに釣られるように視線が集まる。菜摘が不思議そうに歩み寄った。
「七尾くん、どうしたの?」
菜摘の質問を聞きつつ、教室に視線を走らせる。九直の姿はなかった。安堵のため息を漏らし、「ああ」と話を切り出す。
「ちょっとご相談がありまして。差し支えなければ連絡先をお教えいただけないかと」
「そんなこと? いいよいいよ」
「ありがとうございます」
ここまで壁がないのもいささか不安ではあるが、連絡先がわかればいざというときに動きやすくなる。どう捉えられているかはわからないが、この際守れるならなんでもよかった。
「用件はそれだけかな?」
「あ、もう一つありまして……その、九直くんの様子がおかしかったら、僕に連絡してください」
「九直くん? なんで?」
「……昔助けてもらった恩がありますから、困っているなら助けてあげたいと思って」
嘘と本音が混ざっていた。
助けてもらった恩はもちろん感じている。だが、助けてあげたいとは思っていない。九直は戦闘技術において陽の遥か上を行く。私生活の面では、大貫の援助があるので必要がないはずだ。都合のいい言葉だったが、菜摘は疑った様子はなかった。
「結構義理堅いんだね。七尾くん、ちょっと薄情な人だと思ってた」
「あはは……返す言葉もありません。それじゃあ九直くんのこと、よろしくお願いします」
「うん、わかった! また放課後ね!」
菜摘に手を振り返し、自分の教室へ戻る。陽に気づいた生徒たちがそわそわと落ち着きがなくなる。しばらくすれば治まることとはいえ、やはり息苦しさはあった。と、開けた道の真ん中に九直が立っていた。どうやら陽を探していたらしい、すれ違ったのに気がつかなかったようだ。
九直は陽の腕を掴み、光のない瞳で陽を射抜く。
「どこへ行っていた」
「真中さんのところへ。連絡先を聞きたくて」
「なぜそんなものが必要なんだ」
「僕も年頃の男の子ですから、女の子の連絡先が欲しかったんですよ」
「ごまかすな」
さらりと自然に言ったつもりだったが、見透かされていたらしい。嘘が通じないのならば、もう素直に打ち明けるしかなさそうだった。ため息が漏れる陽。
「……ひとまず場所を移しましょう。人目につく場所では話せません」
授業を放棄することになるが、すでに素行不良で通っているのだ。なにを言われたところで気にはならない。
陽と九直は校門付近までやってきた。授業中であれば、少なくとも生徒の目につくことはない。教師もほぼ授業を開始しているはずだ。わざわざこの時間に校門の様子を見に来ることもないだろう。
人の姿がないことを確認し、陽は九直に向き直る。
「……さて、真中さんの連絡先が必要だった理由ですが。彼女が魔童に狙われる理由がわかったからです」
「理由?」
「ええ、彼女が肌身離さず持ち歩いているブレスレット。あれは憑魔士の手が入った品らしく、強い魔力を秘めています。本来、魔除けの効果があったそうですが、いまではそれが薄れて魔力を放出するだけだそうです。それが魔童を引き寄せると、二葉ちゃんは言っていました」
九直は口元に手を当て、思考を巡らせているようだった。陽も菜摘の経歴に関して推測する。
二葉の話によると、憑魔士と接触したのは菜摘が五歳の頃。その当時、憑魔士は二十歳程度だった。憑魔士がどんな姿で戦っていたかがわかれば、どの己影かの推測も可能だろう。また、そこからどこの家系の憑魔士かも絞り込めるはずだ。
九直はやがて「なるほど」と口走った。
「……あの女が発する魔力の正体はそのブレスレットか」
「過去に憑魔士と接触したということの証明ではありますが、どの家系の者かまでは特定できていないそうです。十年以上も前のことですから、当然ですが」
「大貫家に記録があるかもしれん」
九直の言葉に、陽の目の色が変わった。
「どういうことですか?」
「大貫家は口封じや尻拭いを専門とした家系だ。憑魔士と接触した一般人がいるなら、そいつの情報が保管されている可能性がある。とはいえ、十年以上も前のことだ。調べるのにも時間がかかるだろう」
その情報自体はそこまで重要ではなかったが、知れるならそれにこしたことはなかった。九直としても調べる気はあるようで、陽は「じゃあ」と口を開く。
「調べていただけますか? ……といっても、学校との両立は大変でしょうし、急ぎでもないのですが」
「わかった。この件は大貫様にも伝えさせてもらう」
やはり九直は大貫と連絡する手段があるようだ。陽は意を決し、九直に話を持ち掛ける。
「相談なのですが、大貫さんと一度、話させていただけませんか?」
「用件はなんだ」
「……感謝の気持ちを、直接伝えたいんです」
美景家からの逃亡の手助けを始めとし、住居の手配、入学の手続き、なにもかも大貫の世話になっている陽。大貫は間違いなく命の恩人なのだ、せめて自分の口でありがとうと伝えたかった。
九直は目を細めた。嘲るような、冷たい眼差しだった。
「大貫様はそんなものを望んではいない」
「……そう、ですか」
想定の範囲ではあったが、やはり素直には受け入れられなかった。どうにかして会えないものか。そんなことに時間を費やしていると、玄関の方から声がした。空気が震えるような怒号だった。慌てて振り返れば、生活指導の腕章をした教師がいた。五十代も後半に差し掛かった頃だろうか、しわの多い顔立ちをしていた。
「お前たち、早速サボりとはいい度胸をしているな?」
しわくちゃの顔だが、はっきりと眉間にしわが寄っていることがわかった。
――ああ、これは怒っている。言い逃れは、できないみたいだ。
制服の襟を掴まれ、引きずられるように校舎へ。いまさら尾ひれがついても些細な変化だ。陽はもう諦めることにした。
放課後。職員室から解放された陽はトイレでため息を吐いた。鏡に映る自分の顔は、どこかやつれているように見える。生活指導の教師の説教はなかなか堪えるものがあり、保護者が保護者なら黙っていないような内容だった。なるほど、一般的な生徒ならば二度と逆らう気は起きないだろう。
九直との会話は二葉にも連絡するべきだと判断し、携帯を取り出す。すると誰かが入ってくる声がした。
「お、問題児発見」
二人の男子生徒だった。一人は金髪、ピアスと人のことを言えないような風貌で、身長は陽とそう変わらない。台詞とは裏腹に、嘲りや蔑みはなく好奇心のようなもので溢れていた。もう一人は眼鏡をかけた理知的な風貌だった。眼鏡の奥でうっすらと開かれた目が陽を品定めしていた。
厄介そうなものに絡まれてしまった、とため息を返す陽。金髪の男子生徒は大袈裟に手を動かして悲しみを表現した。
「おいおい、そんな冷たい態度なくね?」
「太一の絡み方が悪いと思うんだ」
太一と呼ばれた男子生徒は眼鏡の男子生徒の腕にすがりつく。どこかおどけた様子の太一からは、悪い感情は見受けられなかった。やれやれと肩を竦める眼鏡の男子生徒。陽の方に向き直り、苦笑をこぼす。
「急に悪かったね。俺は
悠と名乗った男子生徒に言われて、初めて知る。クラスメートの顔などまるで覚えていなかったし、覚える気もなかった陽にとっては不思議な感覚だった。中学生時代はその場に溶け込むことで誰からも認知されていなかったが、やはり先日の一件が効いたのだろう。彼らは陽の存在をしっかり認識している。
太一が悠の腕から離れ、陽の肩を力強く叩いた。
「いやあ、あのときはスカッとしたよ! お前、アレだな。見かけによらずやるんだな!」
「確かに、大人しそうな見た目からは想像もつかないキックだったよ」
くすくすと笑う悠。悪意というよりは、本当に可笑しいと思っているのが伝わる純粋な笑顔だった。いままで経験したことのない対応に、陽は目を丸くするしかなかった。
「あの、僕が怖くないんですか?」
半殺しにしただの授業を放り出しただの、傍から見れば素行不良の生徒であることは自明の理だというのに、悠も太一もまるで友達であるかのように接してくる。陽にはそれが信じられなかった。友達という概念が陽の中にないこともあり、どう反応していいかわからないのだ。
悠と太一は目を合わせ、直後吹き出した。
「あっはっはっはっは! 怖がる理由がどこにあるんだよ!」
「冷静に見れば、蹴られた彼の方がよっぽど怖い人だって。きみはやり返しただけだしね」
陽の言うことが可笑しくて仕方がない、と言わんばかりに笑い続ける二人。陽はぽかんと口を開けたまま固まっていた。一頻り笑った二人は、呼吸を整えつつある提案をする。
「なあ、今度一緒に飯食わねえ?」
「え?」
「俺たちはお前に興味がある。仲良くしてくれたら嬉しいな」
差し出される悠の手に、陽はどう対応するべきか頭を働かせる。呼吸さえ止まっているかのように硬直する陽を見て、太一が腕を掴んだ。そのまま悠の手を握らせる。
「おら、これでいいんだよ! 決まりな、俺たちは友達だ!」
「え、ええ?」
「まあ、ちょっと強引だけど……これからよろしく、七尾」
――こんなはずじゃ、なかったんだけどな。
思っていた高校生活は程遠く、陽は二人の友人を得た。良くも悪くも、生きていればなにが起こるかはわからないものだと実感した。
そういえば今朝、菜摘と放課後に会う約束をしていた。指導が長引いたこともあってすっかり忘れていた。もう、待ちきれなくなって帰っている頃だろう。
――しまった。
陽は気づいた。九直と菜摘を二人にしてはいけなかった。なにかあってからでは遅い。男子トイレから駆け出す陽、突然の動きに太一と悠が驚いていたが、構っている場合ではない。走りながら菜摘の携帯に連絡を入れる。通話を試みるが、いつまで経っても返信がない。陽の不安は天井知らずに膨れ上がっていった。
そもそもいま、菜摘はどこにいるのか。帰路についているなら、すぐにでも追いかけなければ。そう思い、玄関へ全力で走った。すると、退屈そうに携帯を眺める菜摘と、腕を組んで目を伏せた九直がいた。
「あ、あれ……? 真中さん? 九直くん?」
息を切らした陽に気づいた菜摘が、じろりと陽を睨んだ。
「七尾くん、遅い。なにしてたの?」
「あ、あはは……トイレで涙を流していました。それより、先に帰ったんじゃ……?」
「お前も一緒だとこいつが聞かなかったんだ。それに、言っただろ。俺とお前は一緒だと」
どうやら九直は菜摘をどうこうする気はないようだった。そう見せかけているだけかもしれないが。杞憂に終わったと知り、陽は深い息を吐く。なにを心配していたかを知らない菜摘は、怪訝そうな眼差しを向けた。
「なにをそんなに焦ってたの?」
「ええっと……そう、九直くんと一緒にいないといけなかったので……」
「嘘を吐くな」
圧力をかける九直。言えるものか、と内心毒づいた。九直が菜摘を獲物として認識しているなど、九直からしてみればいくらでもごまかしが利く。その上、菜摘だって陽の言うことを一割も理解できないだろう。言葉を濁さないといけないのだ、まともな説明もできない。そんな中で、どうやって身の危険を報せればいい。
口を閉ざす陽。九直が小さく息を吐いた。
「俺との約束だっただろう」
「え……?」
「約束?」
菜摘と陽が同時に目を丸くした。九直は続ける。
「話があるんじゃなかったのか?」
菜摘が目線で説明を求めた。九直を見やれば、目で語りかけている。陽は察した。その場しのぎの嘘だ。陽は気持ちを整え、笑顔を繕う。
「ええ、ちょっと一緒に買い物に行きたくて。九直くんに選んでほしいものがあるんです」
「へー、買い物デートだ! いいなあ、今度はあたしも混ぜてね!」
「是非」
なんとか言いくるめることに成功したようだ。陽は胸を撫で下ろす。先陣を切って走り出す菜摘。陽は九直を見る。やはり背中を見つめていた。口の端が微かに吊り上がる。やはり、なにかある。
「……助けてくれたことは感謝します。ですが、彼女になにかするつもりならば――」
「ああ、悪い。またか」
「自覚がないんですか?」
「原因はわかっている。だが、抑えきれないんだ。すごく、そそられる」
「……もう一度言います。彼女になにかするつもりならば、手荒な真似も辞さないつもりです」
「ああ、気をつける」
九直は制服の袖で口を拭う。どこか落ち着かない様子の九直に気を配りながら、陽は家路に着いた。
「ん、おかえり、陽」
帰宅する陽を迎えたのは二葉だった。いつもならヤタがリビングでテレビを見ているため、玄関で迎えられるのは新鮮だった。自然と笑顔が漏れる。
「ただいま、二葉ちゃん。ヤタは?」
「さあ? そろそろ陽が帰ってくるって話をしたらどっか行っちゃった」
不可解な行動だった。陽を迎えに行ったというのは考えにくい。人目につかないようにしろ、と口酸っぱく言われているのだ。菜摘や九直と共に歩く陽の前に現れることはない。では、なにか目的があったのだろうか。たまに意図が読めない動きをするのはヤタの悪い癖だった。
考えていても仕方がないという結論に至り、陽は制服を脱ぐ。二葉がなにかを思い出したように声をあげた。
「あの子は大丈夫だった? 真中ちゃんだっけ」
「真中さんなら大丈夫。……いや、大丈夫じゃないんだろうけど、笑顔を見せてたよ。強い人だと思った」
「そう、それならよかった」
安心したように笑う二葉。今度は陽が、あっと声を出す。
「そういえば、真中さんから伝言があるよ」
「は? あたしに?」
「うん。えっと、確か……『二十歳なんてまだまだ若いからね! 真中菜摘が応援してます』って」
ぽかんと口を開けたままの二葉。陽にとってもなんのことかわかっていないため、奇妙な沈黙が流れる。時計の音がうるさいほどだ。やがて事情を理解した二葉が盛大に吹き出した。
「あっはっはっはっは! はははっ! いやあ、いい子だね! あたし頑張っちゃうわマジで!」
「……いったいどんな嘘を吐いたの?」
「あっはっは! あの子に直接聞いてみなよ!」
二葉は腹を抱え、テーブルに突っ伏す。ぴくぴくと肩を震わせており、話を聞くことはできなさそうだった。ひとまずはヤタの帰りを待つことにする。
概念化したヤタと連絡を取る手段を陽は知らない。ヤタがどこに行ってて、どんなことをしているかを知る術はなかった。どうせ近所のカラスとコミュニケーションを取っているのだろう。人語を介する己影がカラスと意志疎通が取れるとは思えなかった。
しばし笑っていた二葉がようやく落ち着いたのか、窓際へ這いずり煙草を咥える。ライターを持つ手が震えていた。
「あー、笑った笑った……あ、そういや今日も帰りが遅かったね? なんかあったの?」
「ああ、ちょっと生活指導の先生にお説教を……」
言いづらそうに目を逸らす陽に、二葉は驚いたようだった。二葉の中では、素行不良な陽は考えられなかったからだろう。
「マジで? なにしたの、悪い子だな」
「聞いてないのに悪い子なんて言わないで……まあ、授業をサボったんだよ」
「やっぱり悪い子じゃん! なにしてたのさ」
「九直くんと話を……あっ」
――そうだ、彼との話をしなければ。
大貫家に菜摘と接触した憑魔士の記録があるということ。彼を頼りにするのは若干気が引けるが、二葉にも一度話をしておいた方がいいだろう。それに加えて、九直の異変。菜摘を見る際の凶悪な表情、あれにはなにかある。そして、不老の肉体。九直日影には謎が多すぎる。陽一人で考えていても仕方がないことのため、二葉にも共有するべきだと判断したのだ。
二葉は先ほどの気の抜けた表情から一転、険しい表情でそれを聞いていた。陽の話が終わると、咥えていた煙草を灰皿に押し付ける。
「……真中ちゃんと接触した憑魔士に関しては、急ぎじゃないから別にいい。ただ、あのガキの異変に関しては、ちょっと気になるところはあるよね」
「真中さんを『美味そうな匂いがする』って言ってたけど、あれってどういうことなんだろう?」
「あたしにもわからん。まさかただの強姦魔とも思えないし……」
「それに、僕が初めて会ったときから成長していない。これって、己影の影響とかなのかな?」
「さてね、そういうのは己影に聞くのが一番。――エンカン」
二葉の魔憑銃が煙を発する。煙は集まり、エンカンが概念化する。やはり煙管を咥えており、深く煙を吐き出した。
「話は聞いていたよ。肉体の成長を止める己影……および魔童の話かな?」
「あのガキが成長してないのは己影の影響じゃないかってのが陽の考えなんだけど、どう?」
「ふむ……私は聞いたことがないな。長らく魔童として世を渡ってきたが、そんな影響を及ぼす魔童は聞いたことがない」
博識そうなエンカンもお手上げとは思わず、陽と二葉は肩を落とす。エンカンも申し訳なさそうに目を伏せた。
エンカンほど長生きでも聞いたことがない魔童ならば、よほど局地的に活動していた魔童だったか、あるいは存在を秘匿された魔童だろう。だが、存在を秘匿された魔童とは? 考えたところで憑魔士も魔童もよく知らない陽にはわからなかった。そのとき、窓の外から騒がしい羽根音が聞こえてくる。ヤタだ。
「ただいまーっと。お? ヒナタ、おかえり」
「ただいま。ヤタもおかえり。どこに行ってたの?」
「ヒカゲを追っかけてた」
陽と二葉の表情が変わる。先ほど九直の話をしていたからということもあるが、ヤタが九直に興味を持っていることに驚いたのもあった。いったいなぜ追いかけていたのだろう。
「どうして九直くんを?」
「ヒカゲに関して気になるところがあったんだよ。あいつ、憑魔士じゃないって言ってたけどよ。魔力を感じんだんよ。憑魔士みたいなこびりついた形じゃねーんだ、もっと強い、魔力の塊みてーな……」
強い魔力を抱えているならば、体の成長が止まることもあるのだろうか。ヤタは続ける。
「誰かと電話してたみてーなんだよな。たぶん大貫の爺さんだとは思うんだがよ。近づいて様子を窺ったら、ナイフ投げられたから撤退してきた」
「ナイフ? なんでそんなもん持ってんだ、あのガキ」
「仕事用だろ」
二葉の問いに、ヤタはあっさりと返した。そのナイフで、いったい何人の口を封じてきたのだろう。陽は途端に怖くなった。隙を見せれば、喉を掻っ切られる。そんな未来が容易に想像できてしまう。九直からはそう思わせるほどの狂気を感じた。
それまで黙っていたエンカンが煙を吐き出す。
「日影という少年について、不審な点は多いようだね。ならば、炙り出してみようか」
ニヤリと不敵に笑うエンカン。ヤタと二葉は深刻そうな表情を浮かべており、なにを示しているのかわかっているらしい。一人理解していない陽を見て、エンカンは喉を鳴らして笑った。
「陽くんにはわからんか。そうだろうね、あまり平和的な手法ではないから」
「……エンカンさんは、なにを企んでいるんです?」
「餌を撒いて釣り出すってこと。九直日影を」
問いに答えたのは二葉だった。九直日影にとっての餌がなにを意味しているかがわからず、陽はやはり首を傾げる。二葉は少し言いにくそうに俯き、乱暴に頭を掻いた。
「九直日影は苦喰なんでしょ? なら、苦喰として話を聞けばいい。つまり――大貫家の人間として動かすってことよ」
「だからそれがわからない。なにをするつもりなの?」
「よーするに、一般人を魔童との戦いに巻き込んで、口封じのために動くヒカゲをひっ捕らえるってわけよ」
ヤタの説明に、陽は血の気が引くのを感じた。一般人を戦いに巻き込むなど、考えられない。憑魔士の本分に反することだ。しかし、その本分から逸れた際のために大貫家が在ることも事実。手っ取り早く九直を動かすなら、それが一番効率的な手段なのは確かなのだ。
陽はしばし言葉を失う。一般人を巻き込むとして、守りながら戦うことが可能なのか。不安で胸が搔き乱される。二葉もさすがに苦笑した。
「こんな提案、憑魔士にはできねえわ。ただ、エンカンのやり方が一番確実なのは明らか。……どうする? って、あんたに委ねるのも酷か」
「……やるにしても、魔童が人のいるところに現れるとは限らない」
「それならおあつらえ向きの人物が一人、いるじゃないか」
まさかとは思った。だが、彼女以外に考えられなかった。
真中菜摘を、戦いに巻き込む。彼女は――正確には、彼女のブレスレットが――魔童を引き寄せる。今回の作戦において、利用価値があるのは火を見るよりも明らかだ。しかし陽としては、彼女をそんな危険な目に遭わせることはしたくなかった。
葛藤が胸を引っ掻く。どうするのが正解なのだろう。思い悩む陽。そのとき、携帯が震えた。見れば、その菜摘からのメッセージだった。
「真中さんから? どうしたんだろう」
内容はこうだ。
「こんばんは! 九直くんのことでちょっと伝えた方がいいのかなってことがあったんだ。
なんかね、七尾くんを待ってるとき、ずっと震えてたんだよね。なにかを我慢してるみたいだった。
もしかして、危ない薬とか使ってるのかなって。ちょっと心配。
知ってたら連絡くださーい。」
九直が我慢していたのは、間違いなく菜摘のことだ。彼は菜摘に対して異常な執着を見せている。その原因はわからないが、ただごとではないのは確か。自分が狙われているとは露とも思っていないのであれば、どう説明するのが適切か。二葉に相談してみる。
「ただのストレスかなにかじゃない? って言うしかなくない?」
「それもそっか……」
ひとまずはストレスかなにかだと思うので、陽から九直のケアを試みてみると伝えた。菜摘はそれを鵜呑みにし、よろしくねとメッセージを返してきた。この少女を戦いに巻き込むなど正気の沙汰ではない。わかってはいる。しかし、九直に対して知らないことが多すぎるのもそれはまた不安だった。沈黙する陽に、ヤタが声をかけた。
「ま、今日は寝とけ。俺たちが総出で戦わなきゃいけないような魔童が現れたときに考えよーぜ。それまでは今まで通りでいーじゃん」
「確かにね。まあそんな魔童が現れて、あたしらだけでそいつを倒せるかってのもまた微妙な話よね」
「まあ、よく見極めよう。いざとなったら菜摘嬢を連れて逃げればいい」
「そうならないように祈りましょう。ひとまず、バイトに行ってくる」
陽は手早く着替えを済ませると、バイト先へと走っていった。
それから数日間、魔童の出現情報はなかった。二葉も夜に街を見回っていたようだが、特に目立った動きはなかったらしい。陽の学校生活は思いのほか順調で、昼飯時はいつも賑やかだった。
午前の授業が終わり、束の間の昼休みに入ると――
「七尾! 飯の時間だー!」
滝本太一がこうして声をかけてくる。後ろには志村悠の姿があり、黙って机を近づけた。ひょんなことから友人として昼食を共にしているが、やはり二人の意図は読めなかった。太一は賑やかに――言い換えれば、騒がしく――話題を投げかけ、悠はそれをキャッチする。と思いきや、受け流して変化球を投げる。どこか手慣れた様子の二人の掛け合いは、漫才師のようなテンポの良さがあった。
「しっかし七尾は表情が動かねえな、歯磨き粉で洗顔してんだろ?」
「太一じゃないんだから、そんなことする人そうそういないよ」
「え、なんでばれたんだ?」
「本当にやってるのか、詳しく聞かせてくれ」
「あー、あれは忘れもしない十一年前のあの日から。飼い犬のまる子がな……って、んなわけあるか! ノッてやっただけだ!」
「ふふっ」
くだらない掛け合いだが、どこか笑いを誘われる。陽が笑えば、太一はしめたものだと拳を握り、悠は眼鏡のブリッジを押し上げる。どうやら二人は陽を笑わせることにご執心なようだった。
それからも勢いのある掛け合いを聞き続け、食事もまともに進まなかった。二人はというと、慣れたものなのかすでに弁当あるいは購買のパンを腹に詰め終えていた。
「滝本くんと志村くんはいつから友達なんですか?」
自分でも珍しいと思った。自ら他人に質問を投げかけるなど。太一と悠は顔を見合わせ、太一だけが首を傾げた。
「いつからだっけ?」
「中学二年で初めて同じクラスになったんだ」
悠は思い返すように視線を斜めに上げる。三年目にもなると、こんな掛け合いができるようになるらしい。太一はぽんと手を合わせ、そうだった! と笑顔を見せた。
「あのときはこんな仲良くなるとは思わなかったよなあ」
「太一はうるさいからな。ブレーキが必要だから関わってやったのさ」
「あれまあ、優しいねえ。ちなみにちゃんと機能してんだろうな?」
「……あれ? おかしいな、機能した記憶がない」
「ぽんこつ車め! 車検に出せ、車検に!」
「この場合の車ってお前なんだけど、その点についてどう思う?」
「ぽんこつ呼ばわりは誠に遺憾である」
「自分で言ったんじゃないか」
「くっ……ふ、ふふっ……」
陽の箸はもう動きそうになかった。
そんな折、二葉からのメッセージを受信した。菜摘はどうしているかの確認だった。陽は弁当に蓋をして席を立つ。
「七尾? どこ行くんだ?」
「ちょっとB組へ」
「なに、女の子絡み? 詳しく聞かせてもらおうか」
「遠からず、ですね」
苦笑して、教室を歩き出す。すると太一と悠も立ち上がり、陽の後ろに並んだ。なにを企んでいるのだろう。訝しげに見つめる陽に、悠が喉の奥で笑った。
「七尾がどんな女の子と縁を結ぶのか、見届ける必要があると思ったんだ」
「抜け駆けは許さねえぞ、七尾!」
縁を結ぶもなにも、ただの庇護対象なのだ。ヤタと同じ思考に陽は困惑する。正確には、ヤタが高校生と同じ感性を持っているということなのだろうが。なんと説明していいかわからず、別段面白いことでもないと伝えた上で同行を許可した。
B組では菜摘が友達と机を寄せて談笑していた。社交性のある性格なのはよくわかる。ただ、彼女たちは知らないだろう。女子バスケットボール部界隈での彼女の噂を。陽も信じてはいなかったが、火のない所に煙は立たない。尾ひれがついた結果だとしても、それに似たような状況は実際にあったのだろう。
太一と悠が教室の扉から顔を出し、陽の意中の子――そんな人物はいないのだが――を探し始めていた。
「……あれ?」
よく見れば、九直がいない。菜摘の傍を離れるとは珍しいこともあるものだ。陽が踵を返すと、二人は不思議そうに振り返る。
「なんだ、お目当ての子はいなかったのか?」
「いえ。楽しそうにしてましたので、邪魔するのも悪いかと」
「七尾はピュアだね。押すとこは押さないと、ものにできないぞ?」
「あはは、覚えておきます。ちょっと別な用事がありますので、この辺りで失礼します」
なにか事情があることを察してくれたらしい、それ以上追いかけてはこなかった。代わりに、背中に声がかかる。
「授業までには戻って来いよ!」
「また怒られたら笑ってあげるから、心配しないで行ってきな」
二人の心配にたまらず苦笑する陽。ひらりと手を振って、九直を探す。いったいどこに行ったのか。菜摘から離れるということは、なにか大貫家から指示があった可能性がある。そこを押さえれば、大貫とも話しができるかもしれない。陽はいま、大貫とコンタクトを取ることで頭がいっぱいだった。
二葉に菜摘の安全を伝えて、九直の捜索に戻る。連絡を取るなら教師の目につかないところへ行くはずだ。たとえば、屋上。本来は立ち入り禁止なのだが、常識の枠に入らない九直なら鍵を壊してでも立ち入る可能性がある。生徒と教師の目を忍び、屋上への階段を探す。四階をうろついていると、ハードルで封鎖された階段を見つけた。周囲に気を配りつつ、ハードルをまたいで階段を上る。
「これは……?」
案の定、鍵は壊れていた。だが、穏やかな壊れ方ではない。なにか物凄い力で握り潰されたようだった。扉も歪んでおり、力任せに通り抜けたと想像させる。
陽はこっそりと扉の影から様子を窺うが、九直の姿はなかった。扉を抜けると、まぶしい太陽が陽の視界を遮った。
「――なにをしている?」
気がつけば、目の前に九直がいた。ぴりぴりと尋常ならざる気配を発しており、陽は体が震えるのを感じた。
「……B組へ行ったんですが、姿が見えなかったので探していました」
「なぜ俺を探す?」
正直に話す必要はない。陽は伏し目がちにため息を吐いた。
「心配だったんですよ。真中さんを前にすると、きみは普通じゃなくなる。それに真中さんもきみの異変を感じていました。心配になって連絡をくれたんです」
「お前は嘘を吐いている」
陽の瞳が震えた。九直の目に光はなく、戸惑う陽が映っていた。九直は抑揚のない声で続ける。
「だが、全てではない。あの女が連絡をしたのは本当だろう。だが、お前が俺を心配するはずはない」
「……そんなこと、どうして言い切れるんです? 薄情ですね、友達なのに」
「友達? お前は友達にそこまで警戒心を見せるのか。薄情な奴だ」
陽は言葉を失った。以前からわかっていたことではないか。全て見透かされている。この男に嘘は通じない。底知れない恐怖を覚え、陽は一歩後退る。その分、九直が一歩詰め寄った。
「答えろ。なぜ、俺を探していた?」
九直が発する気配に足が竦む。耐え切れず、陽は腰を抜かしてしまった。見下ろす九直に、人ならざる圧力を感じた。
そのとき、不自然な揺れを感じた。九直の注意がそちらに逸れ、陽はその隙に階段を駆け下りた。
九直日影には、なにかある。少なくとも、憑魔士じゃないというのは嘘だ。ただの人間が放つ気配ではない。全身が粟立ち、震える。異形の化け物と対峙したような圧力だった。
揺れは陽以外も感じたらしい。廊下に不安が飛び交う。授業もそろそろ始まる頃だが、突然校内放送が流れた。原因不明の揺れが発生したため、全校生徒を校庭に集めるつもりらしい。一度教室に戻るものの、携帯が震えた。二葉からのメッセージだった。
「……とうとう、出たんだね」
魔童の出現情報だった。名は“
震えはしばらく治まらなかった。
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