第4話:平穏は遠く
その夜。寝起きの二葉の車に乗せられ神社へ向かった。車で二十分程度の距離にあるが、時間も時間だからか車の通りも少なかった。神様が眠っていることもあり、夜に神社を訪れるのは罰当たりだという話を聞いたことがある。迷信程度だと考えていても、少し忍びないところがあった。
運転する二葉は頻りに頭をさすっていた。運転自体に問題はなさそうだったが、警察に遭遇しないことを祈る。太腿の上に置かれた魔憑銃を力強く握る。ヤタはすでに弾丸の状態になっていた。陽の不安を感じ取ってか、ヤタが語りかけてくる。
『緊張してるカァ?』
「多少。でも二葉ちゃんがいるから少しは気が楽だよ」
「あたしはピンチになるまで手を貸さないよ。あんたの実力を見るのが今回の目的だからね。ああ、それと“髪切り”はヤタに喰わせていいから」
『ホォ? 優しいねえフタバ。オレが人間だったら求婚してたわ』
「あんたとはいい酒が飲めそうだよ、ヤタ」
『カッカッカァ! 違いねーや!』
二人――正確には一人と一羽――は陽気に笑う。これから戦いに行くというのになんと緊張感のないことだろう。不安に思う陽、いざというときは頼りになるはずだと信じるしかなかった。
そうして神社に到着する。車を降りた二人と一羽は本殿へ向かう。どうやら“髪切り”はここを拠点にしているらしく、騒ぎを起こして帰ってくるのが二十三時過ぎとの情報があった。陽はホルスターの魔憑銃を撫でる。
――大丈夫、こんなところで死ぬことはない。
強く言い聞かせるものの、やはり不安になる。二葉をちらりと見れば、相変わらず煙草を咥えて煙を吐き出していた。緊張の中、二葉の健康面を心配している場合ではない。陽は周囲を警戒する。風が枝葉を揺らす。それ以外の音は聞こえてこない。不気味さに包まれる中、陽はごくりと生唾を飲んだ。
二葉も腰のホルスターの魔憑銃を触る。“大煙管”からなにかしらのメッセージを受け取っているのだろうか。陽は気持ちを落ち着かせるために、ヤタに話しかける。
「ねえ、ヤタ。“髪切り”ってどんな奴なの?」
『成長した魔童は各々の自我を持ってるから一概にこんな奴ってのは言えねーな。でも、だいたい共通してるのは、長い髪の女が好きで、そういう人間を好んで狙うってことくらいだ』
もしかすると、二葉が狙われる可能性もある。二葉は長い黒髪をうなじで結っている。それは闇そのものを映すような妖しい艶があり、陽から見ても魅力的な髪をしていた。そうなれば二葉が狙われるのは必至。二葉を守りながら戦うことができるのか。陽は不安でもあった。
「そういえば二葉ちゃん。事件を未然に防ぐために探しに行かなくてよかったの?」
「どこに現れるかわからないで歩き回るより、ここに帰ってくるって位置で待ち伏せした方がいい。幸い、人を殺す魔童じゃないからね」
「なるほど……」
髪を切られることは防ぎようがない。それならば、最短で解決する方法を選ぶ。現実的な判断だった。
そのとき、二葉が煙草を靴の裏に押し付けた。もう一本吸うのだろうか、と心配になるが、どうやらなにかを察したらしい。
「二葉ちゃん?」
「空気が変わった。来る」
陽には察せられなかったが、どうやら“髪切り”が接近しているらしい。警戒心を強める陽。背筋が凍るのを感じたとき、弾丸のヤタが叫ぶ。
『しゃがめ!』
「え――うわっ!?」
鉄がこすれ合う音がした。はらりと陽の髪の毛が舞う。最初に狙われたのは陽だったらしい。撃鉄の音が夜の闇を切り裂き、二葉が高速でなにかを振るう。背後のなにかは大きく飛び退いた。
「陽! さっさと憑魔化する!」
「え、う、うん! 行くよ、ヤタ!」
『おーよ!』
陽は魔憑銃をこめかみにあて、引き金を引く。衝撃で頭が仰け反る。ヤタの力が流れ込み、背中から闇の翼が、肘からは骨の脚が生えてくる。戦闘準備は万端だ。改めて魔童“髪切り”と対峙する。
姿形は人間に似ていた。長い手足に、小さな頭。そこから伸びるはさみのようなもの。あれを使って女性の髪を切り落としてきたのだろう。幸い、赤い錆びはなかった。“髪切り”はぴょんぴょんと跳ね回り、高らかに笑う。
「ご機嫌みたいね。陽、ひとまずあんたに任せるわ。あたしは自衛と、あんたのピンチ以外では攻撃しない」
「わかった……! ヤタ、準備はいい?」
『そりゃこっちの台詞だっつーの! ほら行くぞ!』
陽は右手を前方にかざす。翼から黒い羽根が舞い、空中で停止したのちに高速射出。マシンガンのように注ぐ羽根、かわせはしない。そう思う陽だったが、“髪切り”はそれを横っ飛びでかわす。軽快な足取りで陽に迫り、大きなはさみで陽の首を狙った。人を殺す魔童じゃないと二葉は言ったが、明確な殺意に足が竦む。ヤタの意志が体を動かした。
『やらせっカァ!』
肘から伸びる肢体が地面を噛み、翼が体を包み込むように動く。はさみが翼に接触するが、甲高い金属音と共にそれが阻まれる。どうやら翼は盾のように扱うこともできるようだった。驚いたように足踏みする“髪切り”に、陽は渾身の蹴りを見舞う。人間で言うところの鳩尾にめり込んだ。“髪切り”は賽銭箱に激突する。しかしすぐに起き上がり、駆け出した。警戒する陽だったが、“髪切り”は陽の横を通り過ぎて行く。奇怪な鳴き声をあげる“髪切り”の狙いは二葉だった。
「二葉ちゃん!」
羽根を撃ち出す陽。“髪切り”の足を貫くものの、止まらない。凶悪なはさみが二葉の首に迫る。はさみが閉じる金属質な音が鳴った。直後、鈍い音と共に“髪切り”の頭が大きく跳ねた。どうやらはさみの間合いから外れるように飛び退き、煙管を振り上げたらしい。ふらふらと落ち着かない“髪切り”の前で、二葉は煙管を上段に構える。両手で、だ。
「――甘いんだよノロマァ!」
渾身の力で振り下ろされる煙管。人間ならば頭蓋骨がかち割れるほどの音が響き、“髪切り”は地べたに這いつくばる。ここぞとばかりにヤタが叫んだ。
『いまだ! 一気に決めるぞ!』
ヤタの意志が体を動かす。空中に飛び上がり、両手を“髪切り”に向けてかざす。羽根が舞うところまでは同じだが、羽根が束となり、一本の巨大な矢を形作る。ギリギリと弦を引き絞るように腕を動かし――
「行っ……けえ!」
黒い流星が“髪切り”に迫る。立ち上がった“髪切り”ははさみでそれを受け止めようとするが、勢いは止まらない。はさみを砕き、“髪切り”の頭部を撃ち抜いた。大きく仰け反り、動きを止める。二葉がふう、と息を吐いて煙管を振るう。黒い粒子をまき散らして掻き消えた。懐から煙草の箱を取り出すと、口に咥え、その先で“髪切り”を示す。
「憑魔化を解除して、弾丸を撃ち込みな。そうすれば魔童は魔力を奪われて消滅する」
「わかったよ。……でも、憑魔化ってどうやって解除するの?」
『オレの意志だよ。ほら、力抜け』
ヤタの力が体から流れ出ていく。陽の手元に魔憑銃が握られていた。ヤタは弾丸の姿になっているのだろう。魔憑銃から魔力を感じる。動かない“髪切り”を警戒しつつ近寄る陽。二葉は大きく動いてしまった賽銭箱を戻しに行く。
そのとき、二葉が急に叫んだ。
「危ないっ!」
「え?」
振り返った瞬間、鋭い風が吹き抜けた。陽の目の前で大きな音がする。陽は数歩退いて、尻もちをついた。そこには化け物がいたからだ。
確認できたのは長く太い尾、禍々しい翼、肉食獣の肢体。頭部からは人間の上半身のようなものが生えていた。あらゆる生物の特徴を無作為に合わせた統一性のない姿。魔童を超越した異常性の怪物に、陽は足が竦むばかりだった。二葉も改めて憑魔化し、巨大な煙管を握った。
ヤタがなにか言っているが、怯える陽の耳には入ってこなかった。彼の耳に聞こえてくるのは、肉を貪るグロテスクな音。どうやら化け物は“髪切り”を喰っているようだった。仮に魔童だとしても、魔童が魔童を喰らうことなどあるのか。陽は無知を恨む。二葉に視線をやるが、二葉も目の前の光景が異常だと判断したらしい。鋭い眼差しで捕食の行く末を見守っていた。
やがて音が止む。化け物がくるりと二人を見る。顔は霊長類に近いものがあったが、不可解な紋様が刻まれており、人間らしさはない。しばし唸ると、巨躯を低く屈ませた。そして、二葉目掛けて飛びかかった。
「危ない、二葉ちゃん!」
「危ないのはあんただ、陽! さっさと退け!」
慌てて転がり距離を取る陽。力強い足音と共に二葉に迫る化け物。凶器とも言える爪を振りかざし、二葉を引き裂かんとする。二葉は煙管を使ってそれを弾くが化け物の勢いは止まらない。二葉はあっという間に押し倒されてしまう。陽は無意識に魔憑銃をこめかみに当て、引き金を引いた。再び憑魔化した陽は骨の肢体を操って化け物の動きを拘束する。
「二葉ちゃんから、離れろっ!」
体を捻って化け物を放り投げる。無防備な姿を晒したところで陽は羽根を撃ち出した。一点集中の強力な一撃。しかし翼を使って体勢を立て直した化け物はいともたやすく回避する。次の標的は陽だった。翼を大きくはためかせ、爪を突きつけながら陽に襲いかかる。このままでは胸を抉られる。そう思った矢先、棒状のなにかが回転しながら飛来した。化け物の頭部に直撃したそれは一瞬で煙となって掻き消える。化け物は均衡を崩してその場に墜落した。陽も地上に降り、二葉の傍へ駆け寄る。
「大丈夫だった!?」
「こっちの台詞だっての、無茶ばっかして!」
立ち上がる化け物は再び二葉に狙いを定めた。陽は二葉の前に立ち、翼を折りたたむ。骨の肢体は地面をしっかり掴んで離さない。盾となった陽に、化け物の爪が迫る。甲高い音が鳴った。防いだものの、化け物の膂力は凄まじく押し切られる。そう思ったとき、暗い空から影が差した。二葉が飛んだのだ。化け物の背中に降り立ち、煙管で何度も殴打する。しかし効果はないようだった。二葉は舌打ちする。
「足りねえか! 陽、一旦弾き飛ばせ!」
「う、うん! 行くよ、ヤタ!」
『おーさ! どらあああ吹っ飛べェ!』
翼を勢いよく開き、化け物が押し返される。体勢を崩した化け物に肉薄する二葉。その無防備な頭部を、下から掬い上げるように煙管を振るった。鈍い音が響き、化け物は大きく後退りする。二葉も飛び退き、陽を庇うように立った。
様子を窺う化け物。唸り声をあげていたが、やがて興味が失せたように背を向けた。翼をはためかせ、勢いよく飛び去る。嵐が過ぎ去ったような静寂。“髪切り”はもはや魔力の欠片も残っていなさそうなほど惨たらしく食い散らかされていた。二葉は煙管を振るって消すと、ため息を吐く。
「あれじゃあもう無理ね。そのうち消えるでしょ。行くわよ、陽」
「う、うん……わかった」
ヤタに魔童を喰わせることは失敗した。その上、正体不明の化け物にまで対峙した。一夜にして整理できないほどの情報が入ってきたため、陽は車に乗ってからすぐに眠ってしまった。
翌朝、陽は自室のベッドで目覚める。疲れからか、目覚まし時計よりもヤタの声よりも早く目が覚めた。
リビングに出ると、机に突っ伏す二葉がいる。そばには飲み干した酒瓶が転がっていた。やれやれまた飲んだのか、と呆れつつ酒瓶を片付ける。ヤタの姿はない。昨晩の戦闘で疲れているのだろうか、心配する陽。
そのとき、魔憑銃が震えた。黒い光を帯び、銃の隣にヤタが顕現する。
「おー、おはようヒナタ」
「おはよう、ヤタ。昨日はお疲れ様」
「お前さんもな。しかし、昨日のはなんだったんだろうな? あんな魔童は見たことねーけど」
ヤタが知らない魔童ということは、比較的新しく生まれた魔童なのかもしれない。そもそも魔童に新種もなにもあるのだろうか。無知なりに考えてみるが、結論に至ることはなかった。
ヤタが翼を口元に持っていく。妙に人間らしい仕草ももう見慣れたものだった。
「……もしかすっと、ありゃー憑魔士のなり損ないなのかもしれねーな」
「どういうこと?」
「憑魔士は己影と介して力を得るだろ。脆弱な人間の体に異物が流れ込むんだ、拒否反応が起きることだってある。特に、自我を持たない未熟な魔童を己影にするとそーなることが多い。未熟な魔童は力の制御を知らねー。だから、脆い器に溢れるくらいの力を流し込んじまう。そーすっと、人間の体は己影に支配されるんだ」
新事実だった。
ヤタが言うに、自我を持たない魔童は成長途中で思考能力に乏しく理性もない。生存本能に忠実な状態なのだという。形を持つために、魔童は様々な生物を喰らう。その中に人間は含まれず、力も意志も弱い動物を狙うという話は聞いていた。自我を持てば、人間と共生する術を身につけることもできるという。ヤタや“大煙管”は賢い魔童だったと言える。ヤタは続けた。
「未熟な魔童は人間と共生する意志がねーんだ。自分が生きるために契約者を支配して、自分の身体にしちまうんだとよ。そういう憑魔士のなり損ないを、
「つまり昨晩のあれは、堕影の可能性があるってこと?」
「あくまで可能性だけどな」
己影の力は無償で使えるものではない。脆弱な人間が人智を超えた力を扱うには相応の代償がいる。力を焦って求めた結果、人とも魔童ともつかない化け物に変じてしまう。力を得るというのは、そういうことなのだ。陽は改めて、ヤタが協力してくれていることに感謝した。ヤタが共生の道を選ばなければ、陽はそもそも戦うことができなったか、あるいは堕影になっていたかもしれない。
「ところで、フタバは起こさなくていいのカァ?」
「……幸せそうに寝てるし、いいんじゃないかな」
「よだれ垂らして寝るのが幸せなのカァ、人間ってのはわかんねーな」
「それじゃあ僕は学校の準備してくる。といっても、始業式くらいだろうからそんなに準備も要らないんだけどね」
「おう、いってらァ」
制服に袖を通し、手早く着替える。部屋に置いてある姿見を見て、改めて高校生となったのだと実感する。本当の年齢がわからない以上、皆と同じ世代の人間なのかはわからないままだが。
朝食の時間になっても二葉は起きなかった。よほど深酒したのだろう。相手はいたのだろうか。ヤタが相手をしていた様子はない。となれば、誰かと話していたのだろうか。陽は自分のことが話されていたのかと考える。二葉はなにを伝えたのだろう、気が気でない。そのとき二葉の携帯が鳴った。メールを受信したようだった。二葉が起きる様子はない。
ヤタが興味深そうに携帯を覗く。当然、くちばしでも脚でも操作はできない。となれば、陽が見るしかない。しかし、いいのだろうか。見てしまえば、陽が知らなくていいことを知ってしまうかもしれない。それに正統な憑魔士の間で共有している情報ならば、陽が知るのはまずいことだ。見ないふりをして玄関に向かう。
「お前が行ったらフタバ起こしとくわ。なにかあったらフタバから連絡させっから」
「わかったよ、それじゃあ行ってきます」
玄関を開け、エレベーターへ向かう。そこでは菜摘が待っていた。陽の姿を確認すると、快活な笑顔を向ける。
「おはよう、七尾くん」
「おはようございます、真中さん」
どうやら昨日のことを引きずっている様子はなかった。嬉しそうに話をする菜摘を見て、内心安堵した。噂に尾ひれがつくのは仕方がないことだと身を以て体験したので、菜摘の中学生時代の話については気にしないように努める。菜摘自身も、自ら中学校生活についての話はしなかった。部活はどこに入るのか、委員会などは興味があるかなどの質問を投げかけてくる。陽も適当に相槌を打ち、たまに質問を投げ返すなんてことのない会話を続けた。
校舎につくと、菜摘は自分の靴箱のところへ行ってしまった。陽は柔らかい笑顔でそれを見送り、菜摘の姿が見えなくなってから表情を引き締めた。
――さて、ここからだ。
昨日の一件をいまだに引きずっている陽。好奇な目に晒されることは火を見るよりも明らか。どうすれば穏やかに過ごせるのか、そんなことばかり考えていた。自然とため息が漏れる。悩んでいても仕方がない、なるようになる。ヤタがよく言っていることだった。気持ちを切り替え、自身の教室へ向かう。
廊下では自然と道が作られた。やはり半殺しにしたという噂が広まっているのだろう。あのとき理性がもっと働けば、こんなことにはならなかったのに。陽は一時の過ちを激しく後悔した。教室に入ると、視線が集まる。続けて聞こえる小さな声。なにを言われているのかなど考えていてはきりがないので、ため息を一つ吐いて席に着く。
背後で椅子が動く音がしたが、振り返らなかった。大方、昨日の男子生徒が委縮して立てたのだろう。誤った印象が広まれば、自然と風評被害もついてくる。陽にとってはこの上ない厄介事だった。陽は年頃の高校生らしく、やんちゃしたいわけではない。穏やかに溶け込めればそれでよかった。
――結局、あのときカッとなった僕が悪い。誰も責められない。
自業自得だと言い聞かせ、担任の到着を待つ。すると、教室の扉が開いた。担任かと思い視線をやると、そこには男子生徒がいた。
年の頃は陽と同じくらい、色素が完全に抜けた白髪はまとまりがなく、不健康なほど白い肌。目の下のくまが酷く、瞳には活力がない。さながら機械のような印象を抱かせる男子生徒は教室を一瞥した。陽と目が合うと、躊躇いなく教室に足を踏み入れた。途中で何人かの生徒を押し退け、怒声を浴びながらも陽の元へ。男子生徒は陽をじいっと見つめた。
また厄介事か、とため息を漏らす陽。男子生徒は陽の腕を掴み、引っ張り上げる。そうして視線を合わせて、問うた。
「……お前が美景陽か」
男子生徒の声は機械のように抑揚がない。しかしその短い言葉で心臓が急速に冷えた。呼吸も止まる。まさか憑魔士の関係者が学校にいるなど、想像もしていなかった。なんと答えるのが正解か、陽は脳を全力で稼働させる。黙っている陽を見て、男子生徒は再び口を開く。
「美景陽なんだな」
ごまかしが利かないと判断した陽は立ち上がり、男子生徒を廊下まで連れていく。教室を出たところで、男子生徒に向き直る。
「ここは人目につきます。場所を移しましょう」
「なぜ移す必要がある」
「憑魔士は世間の目を忍ぶものです。知らないはずはないでしょう」
「知らない」
そんなはずはなかった。憑魔士となるならば、人目を避けて闇に生きる存在だと教え込まれるはずだからだ。つまりこの男子生徒は憑魔士関係者でありながら、正統な憑魔士となるための教育を施されていない可能性がある。立場で言えば、陽と同じだった。
男子生徒の胸を見やる。そこには「
「お前は俺と一緒だ」
「……どういう意味でしょう」
陽の推測に過ぎないが、九直の境遇は陽と同じものなのだろう。拾われてきたかは定かでないが、一族に保護され、憑魔士とは異なる道を歩むようにある種の隔離を受けて生きてきたのかもしれない。そういった意味では陽と九直は一緒、同類だ。
陽の問いかけに、九直はずいと顔を寄せる。
「お前は今日から、俺と一緒だ。いつでも、どこでも」
「……は?」
目を丸くする陽。当然の反応だった。九直は感情の籠っていない瞳で陽を射続ける。どうしていいかわからずにいると、廊下を歩いていた生徒たちがざわめきだす。
「あれ、入学式の日に半殺しにした奴?」
「なんで男と手繋いでるの?」
「ああ、そっちか」
「うわっ……」
「ありだと思う」
様々な憶測が飛び交う。こうしてまた陽の印象は塗り替えられるだろう。入学二日目でちょっとした有名人だ。ヤタが聞けば大いに笑うだろう。
――どうも平穏は僕のことがとことん嫌いらしい。
もはやため息も出ず、九直の提案を受け入れるしかなかった。
始業式を終えた陽は菜摘のクラスへ迎えに行った。九直が迎えに来るかと思ったが、そんなことはなく。あの発言の真意はわからないままだった。
――憑魔士関係者なら、なにか意図があると思っていたけど。
どうも九直は読めない。年頃の少年らしさが欠片も見受けられなかった。そういった要素全てを捨て去ったかのように無機質な生物に見えた。過去になにかがあったのだろうが、陽は詮索する気はおろか深く関わる気もなかった。
菜摘がいるB組に顔を出す。生徒たちがざわめくのは仕方がないことだと言い聞かせる。菜摘は陽を見つけると、駆け寄ってきた。その後ろには九直の姿もある。陽は血の気が引くのを感じた。
「お疲れ、七尾くん」
「お、お疲れ様です。あの、彼は……?」
「ん? 九直くんのこと? クラスメートで、さっき仲良くなったの」
「な、仲良く?」
無感情な九直とどうやってコミュニケーションを取り、親睦を深めたというのか。陽には到底できない芸当だと、感嘆の息を漏らす。
「九直くん、ちょっと恥ずかしがり屋みたい。あたしが話しかけないと会話してくれないんだ。七尾くんと一緒だね」
いたずらっぽい笑みを浮かべる菜摘。他人から見ると似通った部分があるようだ。陽としては複雑な気持ちであった。九直がどう思っているかは想像できない。九直は陽をまじまじと見つめ、僅かに口の端を吊り上げた。不器用な笑みだったが、陽にはわかる。嬉しくて笑ったのではない。なにか、含みのある笑みだった。
――憑魔士からなにか話があったに違いない。もしかして二葉ちゃんの差し金か……?
陽の学校生活を監視するための刺客ではないか。しかしそれは考えにくかった。陽と二葉が再会した時点で、すでに高校の入学は決定している。こんな時期に転校生として入学するのも普通はない。となれば、陽が迫間学園に入学することを知っていた何者かが監視として送り込んだ可能性の方が現実的だ。
警戒するに越したことはない。陽は九直の不気味な笑みに、作り笑いで返した。
「そんじゃ、帰ろっか! 七尾くん、九直くん、行こ!」
「い、一緒に帰るんですか?」
「嫌?」
「いえ、そういうわけではないんですけど……」
「お前は俺と一緒だ、言っただろ」
「あれ? 知り合いなの?」
菜摘が不思議そうに尋ねる。どう説明するべきか、陽は頭を抱えた。憑魔士のことは口に出せない、その条件下で適切な回答はなんなのか。黙る陽の代わりに九直が口を開いた。
「昔、少しだけ関わったことがある」
「え?」
「そうなんだ、じゃあお互い前から知ってたんだね! それならいいじゃん、帰ろ!」
ご機嫌な足取りで階段を降りる菜摘。残された陽は九直に向き直る。
「……助け舟は感謝します」
「助け舟じゃない。俺はお前を知ってる。お前も、俺を知ってるはずだ」
どこかで会ったことがあるのは本当らしい。しかし、彼の名に覚えがない。いったいどこで出会った? いくら記憶を辿っても、答えは見つからなかった。
――帰ったら二葉ちゃんに聞いてみよう。もしかしたらなにかわかるかもしれない。
ひとまずは菜摘と九直の三人で帰路につくべきと判断し、陽は菜摘を追いかけた。靴箱のところで待っていた菜摘は、二人の到着を見て「遅い!」と言った。怒っている様子はなく、むしろ機嫌はいいように見えた。友達と一緒に帰れるのが嬉しいのだろう。微笑ましく思う陽は自然と笑みがこぼれる。一方で九直は表情を動かさなかった。
三人で歩いていても、会話の主導権は菜摘が握っていた。深い人付き合いを避ける陽と、コミュニケーションを取る気がない九直が相手ではそうなるのは必至。それでも菜摘はご機嫌に話し続け、時折話題を振った。陽が当たり障りのない返事をすれば真面目だねと笑い、九直が言葉足らずで返せば補足を求めた。健気に頑張る菜摘に、陽は少し好感を抱いた。恋情とは異なるものだった。
結局マンションまで三人で歩き続けた。九直がどこに住んでいるかはわからないが、陽の監視のためだとしても徹底している。
「これからよろしくね、二人とも! 明日から三人で学校行こっか!」
「……そうですね」
「わかった」
菜摘は嬉しそうに頬を緩めて部屋に入る。残された陽と九直、二人の間には確かな壁が存在した。菜摘に気を遣う必要がなくなったからだ。陽は九直になにを言うこともなく自室へ向かう。九直は無言でついてくる。憑魔士の関係者ならばヤタを隠す必要がないので、最悪部屋に乗り込まれても問題はないと考えた。
そうして自室のドアを開けると、やはり九直もついてきた。問題ないとは思ったが、監視が目的だとしてもやりすぎだ。しかし陽はなにも言わない。全ては二葉が知っているはずだからだ。二葉から事情を説明してもらえばいい。九直とは会話が成り立たないため、質問することは諦めていた。
リビングではテレビを真剣に見入るヤタと、煙草を吸う二葉がいた。窓は開いていない。ため息が漏れてしまう。
「ただいま。二葉ちゃん、煙草を吸うときは窓を開けるか換気扇の下でお願い」
「おかえり、陽。ごめんごめん、ちょっとマナーがなってなかったね」
「おー、おかえり。って、なんだ友達カァ? オレは嬉し……あれ、やばくね? お邪魔?」
気まずそうなヤタに、陽は苦笑する。一般人に見つかると大変だと考えられるならば、なにも言うことはなかった。
「大丈夫。彼は憑魔士一族の関係者だよ」
途端に二葉の表情が変わった。疑念と、警戒心が混ざった鋭い表情。まとう空気も緊張している。二葉の反応を見るに、彼女も九直を知らないようだった。
「あんた、憑魔士なの? 名前は?」
「憑魔士じゃない。名前は
九直日影。陽に記憶にその名はなかった。少なくとも、美景の人間ではない。二葉も同じことを考えていたようで、数度彼の名前を繰り返す。
「……憑魔士一族にそんな名前の者はいない。あんたは何者? 正直に答えなさい」
「だから憑魔士じゃないと言っただろ。俺は
「大貫さん!?」
思いがけない名前の登場に、陽の目の色が変わる。まさか大貫からの使者だとは思わなかった。九直の肩を掴み、揺する。もっと情報が欲しかった。鬱陶しいとさえ思っていた九直にいまはすがりたかった。
九直の表情は動かない。美景から逃亡したときの自分を見ているようだった。九直はどんな境遇で育ってきたのだろう、少しずつ興味が湧いてくる。九直は小さく息を吸った。
「大貫様は俺に命じた。美景陽を監視し、不都合が生じれば始末しろと」
「……始末?」
大貫がそう命じた理由がわからなかった。あれだけ陽に尽くしていたのだ、生かしておくのはなにか意図があったはずなのだ。なぜ始末することになるのか、陽にはわからない。なにか意図があったとしても、いまの陽は用済みということなのだろうか。途端に絶望感が押し寄せる。
見かねた二葉が煙を吐いた。
「監視は百歩譲って許可する。けど、大貫の爺さんが言う『不都合』がわからない以上、始末するのは許可しない。その条件を提示してくれれば考慮してやる」
「お前の意見は聞いていない。俺は大貫様からの使命を果たすだけだ」
「あのな。陽はもともと美景の人間なんだよ。大貫家の人間はすっこんでな」
「お前がなんと言おうと関係ない」
「関係ないのはそっちだろ、ああ? 目的を明かせないような怪しい奴に陽を任せられるわけねえだろうが」
二葉と九直が口論を展開している横で、陽とヤタは閉口するばかりだった。当事者の陽が置いてけぼりになっており、一触即発の空気にヤタも口出しができずにいる。視線を交わす一人と一羽。どう振る舞うのが正解なのかがわからなかった。
二葉は灰皿に煙草を押し付ける。その動きが乱暴で、苛立っているのが目に見えた。
「話にならない。ひとまず今日は帰りな、坊や。あたしが大貫の爺さんに話しつけとくから」
「大貫様はお前を美景家当主として認めていない」
「……んなことわかってんだよ。いいからとっとと消えろ」
二葉の苛立ちを察したわけではないだろうが、九直はなにも言わずに背を向けた。しかしすぐ振り返り、陽を見やる。
「じゃあな、美景陽」
「……僕は、七尾陽です。お間違いなきよう」
陽の言葉が届いたかはわからなかった。九直は返事をせずに部屋を出ていった。しばし重苦しい沈黙が部屋を覆い尽くす。沈黙を破ったのはヤタだった。
「大貫のジジイが寄越した遣いだとしても、ヒナタを始末するのは解せねーな」
「それはあたしも同意。陽は始末させないよ、絶対」
「ちょ、ちょっと待って。不都合になった場合だよ」
「そんな漠然とした条件で陽の命を握らせてたまるかってんだ」
始末されることが前提で話が展開されているが、九直が言った通り大貫にとって不都合だと判断された場合に限る。なにが不都合になるかはわからなかったが、いままで通り生きていれば変わることはないだろう。
――でも、それは難しいかもしれない。
憑魔士として戦うようになった陽は、いままで通り生活はできない。それが大貫にとって不都合だというのであれば、九直が始末しに来る可能性はある。そのとき、陽は自分の身を守ることができるのだろうか。もしかすると九直も己影を持ち、憑魔士として戦う力を持っているかもしれない。
九直のこと考えていると、二葉が「でも」と口を開いた。
「大貫の爺さんからの遣いだとするなら、あのガキは己影と契約してない可能性がある」
「どうして?」
陽の問いかけに答えたのはヤタだった。
「大貫家は汚れ仕事専門の家系だ。己影を使った戦闘よりも、対人格闘だの武器の扱いだのに優れてるってこったろ」
「そういうこと。大貫家は己影を用いない戦闘技術を持ってる。だから憑魔士一族でありながら、己影を持っていない者も多いのよ。武器を持たなくても戦える、場合によっては殺せるほどの力がある。陽、あのガキの前では決して隙を見せないで。あんたを死なせるわけにはいかない」
大袈裟に考えすぎだとも思った。しかし大貫家の素性を知ったいまでは現実味を帯びてくる。少しでも大貫の期待から逸れれば、九直が陽を殺す可能性が少なからずある。二葉の言う通り、油断はできなかった。かといって大貫の期待に応えるにはどうすればいいのか。答えは相変わらず闇の中だった。
そういえば、と声をあげる陽。
「今朝、二葉ちゃんの携帯にメールが届いていたけど」
「え? ああ、あれか。“髪切り”退治の報告したから、その返信だよ。あと、あのときの化け物についても意見をもあった。本部の人も堕影の可能性があるって言ってた」
ヤタの推測は間違っていないようだった。魔童を弾丸で喰らうのではなく、直に貪るのは堕影の特徴と二葉は言う。陽には新たな疑問が生まれた。
「でも、堕影も元々は憑魔士だったんだよね? 本部の方で討伐令は出されなかったの?」
「無理なのよ。堕影の動きは規則性がない。それに、人間を襲うわけじゃないからね」
「堕影の狙いは魔童だけなんだ?」
あれだけ禍々しい姿をしているのに、人間は捕食の対象外らしい。意外だとは思ったが、魔童のみを喰らうのに理由はあるのだろうか。無知を恨みつつ、再び尋ねる。二葉は窓際へ向かい、煙草に火を点けた。
「堕影が生命活動を維持するために必要なのは、魔力だけなの。一般人には魔力が備わっていないから対象外。訓練した憑魔士は己影の影響で魔力がこびりつくけど、魔童に比べるとごく僅か。だから、純粋な魔力の塊である魔童を捕食することがほとんどなのよ」
「ただし、憑魔化してるときは気をつけな。そのときは己影の魔力で体が満たされてるから襲いかかってくるぞ」
ヤタの補足で、陽と二葉に襲いかかってきた理由も頷けた。化け物が現れたとき二葉は憑魔化していたし、陽が憑魔化したときも襲いかかってきた。堕影は魔力に引き寄せられる。近辺に堕影がいる以上、みだりに憑魔化しない方がいいのだろう。逆に言えば、憑魔化しなければ人間に害はないようでひとまずは安心した。
「で、陽はこれから用事ある?」
「バイトに行かないといけないんだ」
「そっかそっか。また新しい魔童の情報が入ったから一緒に行こと思ったけど無理そうだね。あたし一人で行くわ」
「気をつけてね、二葉ちゃん」
「誰の心配してんのよ、いっちょまえに」
陽の頭を乱暴に撫でる。怒っているわけではないのは陽にもわかった。懐かしい気持ちを思い出す陽のことなど、二葉は考えもしていないようだった。
堕影という化け物、九直日影の存在、大貫からの使命。陽の望む平穏は、まだまだ掴めそうになかった。
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