第3話:新生活

 騒ぎを聞きつけて人が集まってくるかもしれない。

 二葉はそう言って、陽を近くの飲食店へ連れ込んだ。二葉は酒を、陽はコーヒーを注文する。飲み物が揃ったところで、二葉は再び煙草に火を点けた。

「陽、ずいぶん大人びたね」

「二葉さんこそ、ずいぶん大人っぽくなりましたね」

 美景家は一哉と二葉の二人兄妹であり、二葉には年下の家族がいなかった。一哉との年齢差が大きかったこともあり、可愛がられて育ったのだろう。そこにさらに幼い陽が現れ、姉気分を味わおうとませた言動を取ることが多かった。その都度、空回して一哉に笑われていた姿を覚えている。

 ところがいまはどうだ。体つきは女性らしい丸みとしなやかさがあり、闇を映す長髪をうなじの辺りで結んでいる。パンツスーツがよく似合う、凛々しい大人の女性だった。

 二葉が笑う。口から煙が吐き出され、陽の顔を包み込む。バニラのような甘い匂いが鼻孔をくすぐった。

「あたしだってもう二十だよ、来年には一哉兄さんに追いつくんだから」

 そうか、と陽はうつむく。一哉は本当に若くして亡くなったのだと実感した。

 二葉は酒を勢いよく呷る。昔の二葉を知っている陽としては考えられない光景だった。あんなに勢いが空回りしていた、実年齢より幼い印象を受けた二葉が、いまでは酒を呷り紫煙をくゆらせる女性になっているとは。開いた口がふさがらないとはまさにこのことだった。

「さて、本題に移ろっか。陽、正直に答えて。一哉兄さんを殺したのは、あんたなの?」

「……僕じゃない。信じてくれるとは思ってないですけど、僕じゃないんです。一哉様は、僕の目の前で亡くなりました。あまりにも突然に、呆気なく」

 美景の者に打ち明けるのは初めてだった。緊張で声が小さくなってしまったが、二葉には届いただろう。重たい沈黙が二人を包む。そうして、二葉は再び煙を吐き出した。

「まあ、そう言うよね」

 やはり完全に信じてはいないようだった。仕方がないことだ、と陽は笑う。二葉は再び煙を吐き出した。空いてる手で陽のトートバッグを指差す。中にある魔憑銃――正確には“八咫烏”を示しているのだろう。

「美景の象徴を強奪したってことについては?」

「……言い訳はしません。一哉様が亡くなったとき、自由の身となった“八咫烏”は傍にいた僕と契約を結びました。そのまま逃げ出したので、強奪に関しては言い逃れができません」

「なるほどね。正直でよろしい」

 煙草を灰皿に押し付ける二葉。仕草が男っぽく粗雑に見えるが、まとう空気は決して悪いものではなかった。苛立っているわけではなく、陽の回答が想定内だとでもいうように。

 いま、美景家はどうなっているのだろう。陽はそれが気になっていた。当主を若くして失った美景の権威が地に堕ちるようなことはあってほしくなかった。陽の気持ちを察したらしい、二葉は酒を呷る。

「あれから美景は危ない時期が続いたよ。一哉兄さんを快く思っていなかった連中が、ここぞとばかりに美景を陥れようとした。でも、あたしがそれを許すはずもないでしょ?」

 美景家は憑魔士一族の長だ。美景家当主とは、つまり憑魔士の頂点とも言える。二十代そこそこの一哉が当主となったことは、少なからず反感を生んだのだという。その一哉がいなくなったのを機に、美景家の座を奪おうと画策する輩が増えたと二葉は言う。

 二葉は美景の家族を大切に思っていた。美景の家族からは充分すぎるほどの寵愛を受けて育ったのだ、思い入れは強い。美景家を守るために、十歳だった二葉は血の滲むような努力を積んだに違いない。

「あたしは守られるままじゃいられなかった。だから、所有者のいない魔憑銃を持ち出して、魔童を探しに行った。自分の己影を得るために。そこで出会ったのは“大煙管おおぎせる”」

「……ちょっと待ってください、ひとりでですか?」

「当然でしょ。あたしが己影と契約したいなんて言っても、誰も頷かない。だってガキだもん。だから自分の力だけで己影と契約する必要があった。特殊な弾丸――封弾ふうだんを魔童に撃ち込めば、己影として使役することができる。これは知ってる?」

 初耳だった。陽は憑魔士として育てられておらず、己影との詳しい契約方法などは専門外の知識なのだ。

 二葉の話から考察するならば、現在憑魔士が使役する己影はもともと魔童だったことになる。必然、ヤタも魔童だったということだ。

 陽がかぶりを振ると、二葉は「そうだよね」と笑う。

「己影はもともと野良の魔童。あたしが契約した“大煙管”も、当然魔童だった。戦うことを好まないあいつはあたしに試練を出した。美景家から最も大事なものをここまで持ってこい、って。そのときのあたしにとって一番大事なものは、一哉兄さんと撮った写真だった」

「……“大煙管”は、なんて?」

「『ただ高価なものを持ってくるより純粋でいい』ってさ。金目のものを持ってきたら、あたしは煙管で擦り潰されてたみたい」

 あくまで“大煙管”の話を聞いた限りだが、自我を持った魔童は高い知能を持っていると考えられる。ヤタもあれで、実は高い知能を兼ね備えているかもしれないと思った。普段の振る舞いからは想像もできないほど思慮深く、賢いのかもしれない。

 ――いや、ヤタに限ってそれはない。

 悟られないように、コーヒーを飲む。砂糖が必要だと後悔した。

 二葉は再び酒を注文し、煙草に火を点ける。出会ってからもう三本目だ。ペースが早いことには少し不安を覚える。そんな陽のことなど露知らず、二葉は語り続けた。

「“大煙管”と契約してから、あたしは鍛錬を続けた。無理を言って、一人で魔童退治に向かうこともした。そうしていま、あたしは美景家当主になった」

「二葉さんが、当主……」

 感慨深いものがあった。一哉の背中を追い、陽に情けない背中を見せた美景二葉が、現在では憑魔士の頂点に君臨している。元家族としてはやはり嬉しいものがあった。

「いまは目立った動きはないけど、やっぱりあたしが当主ってのも気に食わないみたいでね。少しでも見返してやろうって思って、こうして自分で動いてる。そしたら、いつか認めてくれると信じてね。それに、陽にまた会えた。いまはそれだけで充分だよ」

「……恨んで、いないですか?」

「恨むもなにも、あんたがやったっていう決定的な証拠はない。“八咫烏”の件は擁護のしようがないけど、あんたあのとき五歳だったでしょ? 気が動転するのも無理はないって」

 言葉が出てこなかった。美景の者からはずっと憎まれているものだと思っていたから。だが、二葉は違った。状況を冷静に分析し、自分の中に余裕を産み出した。それが結果的に、陽の重荷を僅かに軽減させた。

 陽はうつむき、小さく口を動かす。

「……ありがとう、ございます」

 その声が届いたかはわからなかった。

 二葉が注文した酒が届き、二杯目に口をつける。陽もコーヒーをすすり、ふうと一息吐く。そこで陽は、いままで疑問に思っていたが切り出せなかったことを口にした。

「そういえば、二葉さんはどうしてここに? 憑魔士本部からは結構な距離だったと思いますが……」

「ああ、大貫の爺さんが妙なことを言ってたから」

「大貫さんを知っているんですか?」

「当然。大貫家も憑魔士一族だからね。ちょっと特殊な立場だけど」

 大貫が憑魔士の関係者ということも初耳だった。陽はいままで、なにも知らずに暮らしていたのだと実感する。

 二葉が言うには、大貫家は憑魔士一族の中でも特に汚い仕事――憑魔士と魔童について知ったものの口封じや、場合によっては暗殺などを生業としており、魔童と戦う機会よりもそういった仕事の方が比率が多いとのことだった。

 目的も言わずに援助をしていた大貫に対して深い感謝を抱いていた陽にとって、少なからず衝撃的な事実だった。

「それで、大貫の爺さんが言ってたことなんだけど。ここに来れば秘密が知れるって。たぶんあんたのことだったんだろうね。陽、大貫とはどういう関係なの?」

 正直に話すべきなのだろうか。陽は悩む。嘘を吐くメリットはない。けれど、正直に話せば大貫の立場が危うくなる恐れがある。どちらにせよ、二葉次第なのだ。陽は深いため息を吐き、正直に話すことを決めた。

「……大貫さんは、僕の逃亡を手伝ってくれたんです。そして、この街のマンションに住むように案内してくれました。家賃や光熱費は全部大貫さんが支払ってくれています」

「大貫の爺さんが陽の逃亡の手引き、ねえ……それに生活の援助だなんて、なにを企んでんだか」

 怪訝そうに息を吐く二葉。どうやら憑魔士の間で大貫家はあまり良い印象を抱かれていないようだった。陽は少し複雑に思う。

「ま、そんなところさ。大貫の爺さんの言うことも、たまには真に受けてみるもんだね。んじゃ、そろそろ帰ろうか。あたしも宿に帰らないと」

「はい、ありがとうございました。……また、会えますか?」

「しばらくはここに滞在するからまた会えるよ。それに――あんたは弱っちいから、あたしが守ってあげないといけないもんね」

 ふと、昔のことを思い出す。当時十歳だった二葉も、同じことを言っていた。あのときは頼りないと思っていたが、いまはこれ以上に強く、優しい言葉を知らない。

 会計は二葉が持ち、宿へ消える彼女の背中をじっと見つめ続けていた。バッグの中からヤタが顔を出す。夜も遅く、人目が少ないからだろう。陽を見るなり、またいやらしい笑みを浮かべた。気がした。

「なんだよヒナタ、美景の方にも女作ってたのカァ? やるなあ、おい」

「違うよ、二葉さんがよく構ってくれただけ。姉と弟みたいなものだよ」

「ホォ? まあ、いい関係じゃねーの。ひとまず、見つかったのがフタバでよかったな。話のわかる奴でよ」

 ヤタの言う通りだった。もし陽に対して理解のない憑魔士が相手なら、また逃亡生活が始まるところだったかもしれない。二葉だからこそ、陽が抱えていたものを打ち明けることができた。

 大貫には頭が上がらない。陽は改めて、大貫に直接感謝を伝えたいと思った。ヤタはバッグの中に頭を引っ込ませて、あくびを一つ。

「さあ、帰ろうぜ。目的は果たせなかったけどな」

「……そうだったね。結局、魔童は二葉さんが消してしまったし」

「ま、次があるって。今日は頑張ったな、お疲れさん」

 労いの言葉に苦笑する。眠たそうな声で言われても説得力がなかった。

 今日は陽にとって成長の日だった。見つかることを覚悟して魔童と戦い、信頼できる者に思いを打ち明けることができた。

 明日から、また日常に戻る。そして、高校生としての生活が始まる。その中でまた魔童が現れることがあれば、こうして戦ってみよう。陽はそっと心に誓った。


 インターホンが鳴る。携帯のアラーム音よりも早い、時刻は午前六時半。こんな朝早くに誰が訪ねてきたのだろう。ヤタもまだ起きていないようだった。寝惚け眼をこすりながら玄関へ向かい、扉を開ける。

 そこには不安そうな面持ちの菜摘がいた。紺色のブレザーとチェックのプリーツスカートを着ている。陽はその制服を知っていた。陽が今日から通う迫間はざま学園のものだった。まさか同じ学校の生徒だったとは。それよりも、どうして菜摘が部屋を訪ねてきたのか、陽にはわからなかった。

「おはようございます、真中さん。どうされましたか?」

「おはようございます。えっと、昨日はありがとうございました。それと……大丈夫でしたか?」

「大丈夫、というのは? ……あっ」

 魔童との戦闘と、二葉との再会のせいで、菜摘を庇ったことがすっかり頭から抜けていた。なんと説明すればいいのだろう、陽は悩む。退けたと言えば、どうしてかを問われるだろう。しかし逃げたというのも胡散臭い。どう答えるのが正解か――口を閉ざす陽を見て、菜摘は目を伏せた。

「あんな化け物みたいなものから逃がしてくれたことはありがとうございます。でも、私のせいで怪我とかしてたら……本当にごめんなさい」

 確かに空中から落下して体を打ちつけはしたが、命に別状はない。それに菜摘が無事であったなら、陽にとっては充分だった。心配させないように笑顔を向ける。

「ご安心ください、あれはすぐに消えましたよ。僕も怪我はありません。なにより、真中さんが無事でよかったです」

 なにも知らない菜摘相手には嘘を吐くしかなかった。ひとまずは不安を取り除き、安心させた方がいい。菜摘はいまだ不安そうだったが、小さく「本当に?」と呟いた。陽は力強く頷いて返す。少しずつ頬が緩み、やがて大きく息を吐いた。

「よかった……あたし、七尾さんになにかあったら、どうしようって」

「ご心配には及びません。こちらこそ、なんの説明もせずにすみませんでした。僕なら大丈夫なので、どうかお気になさらず」

 なんとか騙し通せたようだった。内心胸を撫で下ろす。しかしまだ問題は残っている。いかにして菜摘を帰らせるかだ。理由は簡単、ヤタに見つかってはまた面倒なことになりかねない。また、ヤタが見つかったらいろいろと面倒な問答が展開されることになるだろう。もはや陽の頭は、菜摘を穏便に帰らせる方法しか考えられなかった。

「七尾さん? なんでそんなに汗かいてるんですか?」

「え、いや、はは……緊張してるんです。同世代の女の子とお話する機会がなかったもので」

「あはは、結構シャイなんですね」

「そうなんです、はは。ところで真中さん、その制服……」

 制服を指摘された菜摘は、小さく声を上げる。どこか嬉しそうな表情だった。

「へへ、今日から高校生です。七尾さんもですよね? 同い年なら、ですけど」

「ええ、同い年みたいですよ。僕も今日から高校生です。真中さんと同じ、迫間学園の」

「本当ですか!?」

 菜摘はぱあっと表情を輝かせ、おもむろに陽の手を握った。突然のことに動揺する陽、そんなことなど露も知らない菜摘はぶんぶんと握った手を上下に振っている。

「ちょ、真中さん落ち着いて……!」

「だって嬉しくて! よかった、友達できるかすっごく不安だったんだ! 七尾くんがいれば安心だね! 同じクラスになれるといいね、ね!」

 敬語も忘れて嬉しさを表現する菜摘に、陽はなおのこと動揺する。それに、こんなに騒いでいたら――

「ヒナタァ? 朝っぱらからなにやって」

「ひゃあっ!?」

 菜摘の手を振り払い、すぐさま扉を閉める。力任せに閉めたため大きな音が廊下に響いたことだろう。しかしいまの陽にそんなことを気にしている余裕はなかった。一般人にヤタを見られるわけにはいかない。防衛本能のようなものだった。

 ヤタは訝し気に陽を見つめる。ぴょこぴょこと扉の前に寄ったところで、扉の向こうから菜摘の声が聞こえてきた。

「七尾くん? どうしたの? あたし、なんか変なこと言った? っていうか誰かいる?」

「ホォーッ、なるほどねえ。やっぱ隅に置けねえな、お前?」

「うるさい、黙って。……すみません、ちょっと人前に出してはいけないものを飼っておりまして。お話は、登校するときにでも」

「え、う、うん。わかった……それじゃあね、またあとで!」

 足音が遠ざかる。陽は扉にもたれて安堵のため息を吐いた。だが、ひとつの問題が解決しただけであって、根本は解決していない。ヤタを見れば、相変わらず気味の悪い笑みを浮かべていた。

「なんだよ、ちゃっかり一緒に登校する約束取りつけてんじゃねーの。カァーッ、積極的だねえ。惚れたカァ?」

「勘違いしないで。ああ言った方が円滑に会話を終わらせられると判断しただけだよ」

「カッカッカァ、恥ずかしいことじゃねーよ。青春いいじゃん、大いに結構!」

 話を聞く気が一切ないヤタ。これ以上話し合うのも無駄だと呆れ、朝食を済ませに向かう。昨日の出勤のときに持って帰ってきたサンドウィッチだ。店内の厨房で作っているのだが、これがなかなかボリュームもあり、小腹を満たすには充分過ぎるほどだった。

 歯を磨き、顔を洗う。先程の一件ですっかり頭は冴えていたが、冷水が一層気を引き締めてくれる。高校生活も、できるだけ穏便にやり過ごそう。目立ってはいけない。それが自分の身を守るのに最も効果的だった。中学生時代、悪目立ちして質の悪い嫌がらせを受けていたクラスメートを見ていたこともあり、目立つことをひどく恐れていた。もっとも、自分からなにかを発信しなければいいだけのことなのだが。

 制服に袖を通す。紺色のブレザーに、チェック柄のスラックス。これらは全て大貫が手配したものだ。なにからなにまで準備してもらっているため、感謝と同時に怖くもあった。なぜ自分にこうまで尽くすのか、陽には真意がわからなかったからである。

 ――大貫さんの考えていることはわからない。けれど、問い質すこともできない。無下にすることなんて、もっとできない。

 ますます頭が上がらないと苦笑し、鏡を見る。それほど高くない背丈にぴったりで、どうやって採寸したのかも不明。それもまた恐ろしい話だとヤタが笑った。

「それじゃあ、行ってくるから。ヤタは人に見つからないように」

「おーよ、任せとけ」

「……二度は言わないからね」

 暗に信用していないことをほのめかした一言だったが、ヤタにそれが伝わったかどうかは疑問だった。ドアノブを掴んだところで、ヤタが「そうだ」と声をあげた。

「喧嘩はすんなよ、怪我しちまう」

「えっ、どうしたの? 心配してくれてるんだ?」

「相手がだ。自分じゃわからねーかもしんねーけど、己影と契約してるだけで普通の人間よりは身体能力は格段に上。じゃなきゃ、魔童を駐輪場まで蹴り飛ばすなんてできねーって」

 陽は男としては小柄な方だった。線も細く、たくましさは感じられない。そんな陽が猿の魔童を蹴り飛ばせたのは、己影と契約しているからだとヤタは言う。その気になればビルからビルへと飛び移ることも可能だとつけ加えた。それだけ人間を逸脱しても、憑魔化しなければ魔童とは戦えない。どうしようもない、生物としての格差を感じた。

「まあ、大丈夫。初日から喧嘩なんてしないよ」

「……それもそっか、思い過ごしだわな。カッカッカァ、ひとまず、行ってこいよ」

「うん、行ってきます」

 ドアノブを捻り、家を出る。雲一つない空からは暖かな陽射しが注いでいた。新生活の門出としては悪くない一日になりそうだ。陽の足取りは軽くなる。

 エレベーターの前に菜摘が立っていた。携帯の画面をじっと見ており、ときおり指を滑らせている。陽がゆっくり歩み寄ると、菜摘も気づいて笑顔を向けた。

「おはようございます、真中さん」

「おはよう、七尾くん。さっきはごめんね、急に押しかけちゃって」

「いえ、こちらこそ乱暴な区切り方ですみませんでした。それじゃあ、行きましょうか」

 幸い、ここから学園まではそう遠くない。交通機関を使わずとも通えるのは陽にとってありがたかった。さすがに交通費まで世話になるわけにはいかないと考えていた陽は、大貫への細やかな気遣いで迫間学園を受験したのだった。

 ちらほらと同じ制服を着た少年少女の姿が見える。意外と見分けはつくものだ。同じ新入生はまだ、制服に着られているように見えた。陽もそう見えているのだろうか。ちらりと菜摘を見やる。陽の視線に気づいてか、小さく首を傾げた。

「どうしたの?」

「いえ、僕たちはまだ制服に着られているなと」

「あはは、それはそうだよ。ぴかぴかの一年生だよ?」

「ふふ、ぴかぴかですか。そうですね」

 楽しそうな菜摘を見て、笑顔を誘われる。陽は違和感を覚えた。その違和感がなんなのか、本人はわかっていなかった。

 他愛のない雑談をしながら歩き続け、迫間学園が見えてくる。校舎は二メートル程度の煉瓦で囲われており、校門を抜けると駐輪場が見えてくる。その先に校舎が構えられており、入学式ということもあって新入生向けの道案内が随所に設置されていた。

 一年生の教室は四階にある。クラス分けは各教室前の張り紙で確認するようだった。同じクラスだといいね、と笑う菜摘。陽も相槌を打ち、自分の名前を探す。

「あ、あった!」

 声を上げたのは菜摘。どうやら自分の前を見つけたらしい。菜摘はB組の生徒となるようだった。B組に陽の名前はなく、菜摘はがくりと肩を落とした。陽はたまらず苦笑した。

「そう気落ちされると僕もどんな顔をしたらいいのかわかりません」

「そ、そうだよね。クラスが違っても会えるし、家も近いしね!」

「そうですよ。それじゃあ一旦ここでお別れですね。僕も自分の名前を探しに行ってきます」

「うん、わかった。それじゃあ、またね!」

 手を振って教室に入っていく菜摘。陽は内心、安堵した。

 あまり深く関わるべきではない。関われば、いずれ秘密が漏れる可能性がある。説明が面倒というのもあるのだが、なによりも戦いに巻き込んでしまう可能性を危惧した。先日のような偶然が、今度は必然として起こり得るかもしれない。戦い慣れていない陽が菜摘を守りながら戦うことは不可能だからだ。

 ――やめよう。考えても仕方がないことだ。

 しかし、いまは近くに二葉がいる。仮に窮地に陥っても、助けに来てくれるかもしれない。昨日のように。

 廊下を渡ること六分。とうとう自分の名前を見つけた。晴れて陽はF組の生徒となるわけだが、当然知っている名前はない。中学生時代にろくに人間関係を築いて来なかったからだ。だが、陽は安心した。自分を知らない人間ばかりなら、特に複雑なしがらみもなくやり過ごせるだろう。

 扉を開ければ、すでに何名かの生徒が談笑していた。席には手作りの名札が置いてあり、陽も自分の名札を見つける。教室の真ん中より少し後ろ、窓寄りの席だった。

「なあ」

 ふと、背中から声がかけられる。振り向けば、男子生徒が笑みを浮かべていた。陽は一瞬で察する。関わってはいけない人間だ、と。釣り上がった口の端から悪意が漏れている。大方、中学生時代に力にものを言わせてきた人種だろう。陽は表情を繕うこともなく、「はい?」と返した。

「お前どこ中出身?」

「竹野原中学ですが」

「あー、あそこ。可愛い子いっぱいいたよな」

「そうでしたか?」

 単にクラスメートの顔を覚えていない陽には、そう返事するしかなかった。男子生徒の表情が歪む。自分が可愛いと思っていた人間が、冴えないクラスメートにとってはそうでもないと言われた気がしたのだろう。自分の価値観を、自分よりも程度の低い人間に軽んじられれば誰だって不愉快になるはずだ。この男子生徒の顔にはそれが顕著に映し出されていた。

「お前、彼女は?」

「いませんが」

「そんな奴が『そうでもない』とか言うんだ、天狗だな」

 やはり意味を履き違えて捉えられていたようだ。訂正するのも面倒で、陽は小さく肩を竦める。男子生徒が陽の前髪を掴んだ。ぐい、と引き寄せられた拍子に椅子が大きな音を立てる。クラスメートの視線は釘付け。陽が恐れていた最悪の事態だった。これ以上は、目立ってしまう。

 だが、ここまでやられて黙っているほど陽は利口ではなかった。敵意には敵意を以て返す。これは美景の家訓であり、ヤタの警告などすっかり頭から抜けていた。

 鼻先が触れそうな距離で、陽はすうっと目を細める。嘲りを込めて。

「コミュニケーション能力にいささか問題があるように見えます。きみの周りではこんな力任せのコミュニケーションを取るのが普通なんですか?」

「お前、あんま調子に乗んなよ」

「『あんまり』ですよ。正確な日本語は『あまり』ですが。それにしても、おかしいですね? 『り』を忘れることなんてあるのですか? 口が回っていないだけでしょうか」

 気づいたときには、陽は机を巻き込んで倒れていた。どうやら殴られたらしい。頬の辺りがじんじんと痛む。女子生徒の短い悲鳴があがった。入学式でいきなり喧嘩が勃発したのだ、無理はない。男子生徒はというと、浮足立っているのか口笛なり手拍子なりで盛り上げようとしていた。余興程度の考えなのだろう。

 陽はゆらりと立ち上がり、いつもの歩調で男子生徒に迫った。あまりにも表情の変わらない陽に不気味さを抱いたのか、一歩後退りする。

「目には目を、歯に歯を。ご存知ですか?」

 陽はくるりと身を翻し、勢いをそのままに蹴りを繰り出した。陽の一撃は過たず男子生徒の腹部にめり込み、教室の後方まで机と椅子を巻き込みながら飛んでいく。凄まじい音が鳴り響き、呆然とするクラスメート。陽はここでようやく我に返り、額にそっと手をやった。

 ――ああ、もう無理だ。

 これからしばらく、平穏な生活は叶わないだろう。陽は深々とため息を吐いた。


 入学式を終え、早速職員室に呼び出された陽と男子生徒。先に仕掛けてきたのは彼です、と何度も訴えたものの、男子生徒が震えてまともに喋らなかったため、現場を見ていない教師からしてみれば陽がこっぴどく痛めつけたと判断するのも仕方のないことだった。最初から聞く耳を持っていない教師に対して呆れつつも、男子生徒に頭を下げる。男子生徒も同様に、深々と腰を折った。

 今回は厳重注意ということでなんとか事なきを得たが、明日からの生活がひどく気がかりだった。入学式に喧嘩など、あまりにも非日常だ。きっと男子生徒は面白がって近寄らず、女子生徒は言わずもがな凶暴な人間だと判断して近寄って来ないだろう。近寄って来ないのはまだよかった。問題は、興味や注意の的になってしまうことだ。

 あまりにも派手な一件となってしまったため、すでに他のクラスにまで話が及んでいるようだった。職員室を出た二人を歓迎したのは、いかにも野次馬といった様子の新入生の群れ。仮面を被ったような陽と、萎縮してしまった男子生徒を見た野次馬はどよめく。こんな弱そうな奴が同級生を半殺しにしたのか、などと早速尾ひれがついていた。やれやれとため息を吐く陽。一歩踏み出しただけで道ができる。いつの時代の不良なのかと苦笑した。

 人垣の真ん中を悠然と歩く陽の前に、女子生徒が現れる。菜摘だった。心なしか表情が険しい。

「真中さん?」

 菜摘はなにも言わない。ただ、陽をじっと睨みつけていた。なにを言われるか皆目見当がつかずに首を傾げる陽。菜摘は肺一杯に空気を吸い込み――

「このおバカ! 入学式早々なにやってるの!?」

 廊下の端から端まで届くような声で、陽を罵倒した。あまりにも突然の出来事に呆然としていると、菜摘は陽を座らせた。正座だ。めまぐるしく変化する状況に、野次馬もついてこれていないようだった。菜摘はお構いなしと言わんばかりに陽を責め立てる。

「あのね、浮足立つ気持ちもわかりますよ。でもね、いくらなんでも喧嘩は駄目。聞けば半殺しにしたとか言うじゃないですか。経緯はわかりませんけど、物事には限度というものがあります。おわかりですか?」

 腕を組んで敬語でまくし立てる菜摘に、陽はこくこくと頷くしかなかった。

「いいですか? あなたがどれだけ凶暴でも構いません。ですが、最初は猫を被るものではないでしょうか。なぜそれができなかったのですか?」

「ええと、深い事情が」

「話してみなさい」

 陽はこれまでの経緯を簡単に説明した。男子生徒に絡まれたこと、反論したら殴られたこと、だから仕返ししたこと。菜摘はふむと顎に手を当て、しばし沈黙する。野次馬も二人の様子を固唾を飲んで見守っていた。陽も心臓がばくばくと音を立てている。魔童と戦っているときもこれほど緊張しなかった。

 やがて、重々しく口を開く菜摘。

「喧嘩両成敗ってことですね。それならばなにも言いません」

 安堵に胸を撫で下ろす陽。しかし菜摘は「ただし」と付け加えた。

「もう二度と喧嘩はしないと誓ってください」

「なぜ」

 当然の疑問が口から漏れる。菜摘は陽の目を射抜いた。

「知り合いが傷を作るのは見たくありません」

「左様ですか」

 それならば、喧嘩はもうやめよう。こうして大声を上げられるのも陽としてはたまったものではない。

 菜摘は満足したように深く頷いた。直後、野次馬の一人が呟いた。

「あれ、もしかして“鬼童おにわらべ”?」

 びくりと菜摘の肩が跳ねた。その呟きに反応する野次馬たち。

「確か幕之倉中学の女子バスケ部だったっけ」

「試合中、とんでもなく強引な切り込みで得点源として活躍してたんだっけ」

「チームメイトを殴って休部させられたんだっけ」

 どうやら反応したのはバスケットボール部に所属していた女子生徒のようだった。菜摘の顔がどんどん青白くなる。触れられたくないことだったらしい。菜摘は陽の腕を掴んで強引に立たせると、そのまま引きずっていった。玄関までやってきたところで菜摘は足を止めた。沈黙する背中に、陽はなんて声をかけたらいいのかわからずにいた。

「……忘れて」

「はい?」

「さっきの。“鬼童”のこと」

「ああ……それでしたら大丈夫です。噂には尾ひれがつくものですし、鵜呑みにしていませんよ」

 現に、喧嘩したことに関しても半殺しにしたなどという脚色がされていたのだ。噂話は噂話、信憑性なんてあってないようなもの。大方、菜摘のプレーが勇ましかったこともあって皮肉でつけられたものだろう。陽は信じてはいなかった。

 菜摘はいまだ背中を見せ続けている。どんな感情かがわからない以上、陽から声をかけるのは憚られた。振り向く菜摘、表情は険しい。なにを言われるのかと身構える陽。

「それじゃ、あたしは先に帰るね! ばいばい、また明日! 一緒に行こうね!」

 大股で去っていく菜摘。陽は終始圧倒されており、なにも言えずに手を振って見送るのだった。


 マンションに到着した陽。喧嘩を買ったおかげで帰りが遅くなってしまった。ヤタになんと説明するのがいいのか。ヤタのことだ、どうせ菜摘となにかしていたのだろうと推測しているに違いない。面倒事は家に帰ってからも続きそうだと嘆息した。

 鍵を差し込み、回して違和感に気づく。鍵が開いている。ヤタは窓から外出するため、扉の鍵を開けることはないはずだ。となれば――空き巣の可能性がある。今朝の一件で身体能力の高さに気づいた陽なら、空き巣を相手取ることも可能なはずだ。だが、その前に警察に電話を入れるべきだろうか。悩む陽だが、静かにドアノブを回した。見慣れない靴が置いてあった。誰のものかは検討がつかなかったが、空き巣がわざわざ靴を脱ぐのだろうか。困惑する陽の耳に、陽気な笑い声が飛び込んでくる。ひとつはヤタのもの。ではもうひとつは?

 確認のためにリビングへ向かう。すると、意外な客人の姿があった。タンクトップにホットパンツというラフな格好をした女性だ。

「カッカッカァ! お前さんも大変だったな、ええ!?」

「そんなことないって! あんたこそ陽の世話大変だったでしょ!?」

「そりゃ大変だったさ! オレがどんだけ笑わそうとしても眉ひとつ動かさねーの! 寂しいわ!」

「あっはっは! そっかそっか! 陽って表情動かなくなったんだ!? 昔はいっつもおどおどしてたのにね!」

 二人は陽の帰宅に気づいていないようだった。それもそのはず。ヤタはなにかが注がれたおちょこを頻りについばみ、客人はいかにも値の張りそうな酒瓶でテーブルを叩いている。割れたら誰が片付けると思っているのか。怒りよりも呆れが勝るこの光景に、陽は絶句するほかなかった。

 やがてヤタの視線が陽に向く。喜んだように翼をはためかせた。続いて客人――美景二葉もヤタの視線を追いかける。

「おう! おかえりヒナタ!」

「ただいま。それより、どうして二葉さんがうちに……?」

「あんたを訪ねてきたら、今日入学式だったんだね! 高校進学おめでとう! まあまあ一杯どうさ!?」

「未成年なので遠慮しておきます。そしてもう一度お尋ねします。どうして二葉さんがうちに?」

「あー、そうね! それ言ってなかった! 陽にね、魔童の情報を伝えに来たの」

 意図がわからなかった。それを伝えてどうするつもりなのだろう。怪訝そうに見つめる陽に、二葉は懐から煙草の箱を取り出した。陽は無言で窓を開ける。青少年の部屋に煙草の匂いがついてしまったらよからぬ疑いがかけられる可能性があった。誰を呼ぶ予定もないのだが。二葉は窓の方へと歩き出す。足元が覚束ない、ふらふらとした足取りだった。初めて千鳥足と呼ばれるものを見て、陽はどこか感慨深い気持ちになった。

 口から甘い煙を吐き、二葉は語りだす。顔は真っ赤だが、表情は真剣そのものだった。陽は姿勢を正す。

「あたしと一緒に魔童を倒しに行きましょ。ちなみに、あんたに拒否権はない」

「……監視のつもりですか?」

「それもあるけど、あんたが“八咫烏”を使いこなせるかの確認が目的よ。あたしは陽がピンチに陥るまで手を貸さないからね」

 陽は焦りを覚えた。“八咫烏”の力を使った戦闘は一度しか行っていない。使いこなすもなにもなかった。もし使いこなせていなければ、陽はどうなってしまうのだろう。“八咫烏”を所有するに値しないとなれば、ヤタは美景に保護されるのだろうか。陽は美景に連行され、罰せられてしまうのだろうか。少しだけ、怖いと感じる。

 陽の不安を察してか、二葉は笑った。

「大丈夫、悪いようにはしないよ。ヤタから聞いたけど、こないだの戦闘が初めてだったんでしょ? だから、あんたのレクチャーも兼ねてね」

「……二葉さんは、どうして僕にそこまでしてくれるんですか?」

「前に言ったでしょ、あんたが一哉兄さんを殺したって決定的な証拠がないから。本当にあんたが殺したのなら、あたしはあんたを殺す。それだけよ」

 口から安堵のため息が漏れた。一哉を殺したのは陽ではない。それは陽自身がよくわかっていた。証拠など出るはずがない。だから、二葉は全面的に味方になってくれると判断した。

 ここで黙っていたヤタが笑い声をあげる。

「カッカッカァ! まあまあ、堅い話はこの辺にしよーや! ほれほれ、ヒナタも飲め!」

「未成年だってば。あーもう、こんなに汚して……誰が掃除すると思ってるの、もう」

 テーブルはヤタが飛び散らかした酒で濡れており、足元は二葉が持ち込んだ缶ビールが転がっている。酔っ払い二人を相手にしながら片付けなければならないと考えると、深いため息が漏れた。

 まずはごみ袋を手に取り、転がった缶ビールを放り投げていく。ヤタと二葉は相変わらず酒を酌み交わしていた。のんきなものだ、と呆れる陽。二人の話と言えば、やれ最近のテレビはどうだのあの俳優がこのアイドルがと、井戸端会議に興じる主婦となんら変わらない。陽気に語り、笑う二葉を見て少しだけ懐かしく思った。美景の世話になっていた頃に見た二葉を思い出す。あの頃より、よくも悪くもやんちゃになったと陽は思う。

「……それで、二葉さん。今回の魔童の情報について、詳しく教えてもらえますか?」

 二葉はぐいっと酒を呷り、陽の方に向き直った。机に放った携帯を掴み、指を滑らせる。メールの確認をしているのだろう。ヤタが画面を覗いて、声を上げた。

「なになに? 口元にクワガタの顎のようなものがあり、姿形は霊長類に似ている。それで女性の髪を切るという被害が相次いでいる……こいつは“髪切かみきり”だろーな」

「ヤタは魔童について詳しいね」

「そりゃ同族だしな。長生きってのもあるし、成長した魔童の姿形さえわかりゃーどんな奴かは見当がつくって」

「カラスとは思えないほど物覚えが悪いとか思っててごめんね」

「正直に言ったから許す! カッカッカァ!」

 陽気に動き回るヤタ、散らばる黒い羽根。どうしてこうも抜けるのだろう。ストレスでも溜まっているのだろうか。陽は漠然とそんなことを考える。片付けという現実から目を背けているだけなのだが。

 二葉は再び煙草に火を点け、窓の外に煙を吐き出す。浮かない顔で片付けに勤しむ陽に、二葉は「でも」と呟いた。

「泣き虫だった陽がこうして一人暮らしして頑張ってるなんてね。あたしは安心したよ」

「……どうしたんです、二葉さん。酔いが回ってきましたか?」

「ああ、だいぶ前から酔ってる。だからこれは本音だよ。あんたが元気に生きててよかった」

「……一哉様を殺したかもしれないのに?」

 どうしても負い目を感じる陽。自分がやったわけではない。だが、それを証明することはできない。そんな中でも、二葉は敵意を向けることもなく接する。十年前の、あの頃のように。嬉しくもあり、複雑でもあった。

 二葉は煙草を口に咥え――陽に向かって思い切り煙を吐き出した。バニラの甘い匂いが一瞬で迫り、たまらずむせてしまう。

「なにして……!」

「だから、まだ決定的な証拠はないでしょうが。あんたはそれを提示できるの? 一哉兄さんを殺した証拠を」

「……いえ。でも、僕が殺していない証拠も提示できない」

「なら、証拠があがるまでは今まで通りに接する。それにあんたの性格上、そもそも一哉兄さんを殺すなんてできっこないって思ってる。やってないって言うなら、あんたは今まで通り接しな」

 無茶な注文だった。自分がやっていないのは確か。だが、美景からは裏切り者と扱われている。そんな中、美景の当主から「今まで通りでいい」などと言われても、簡単にはできなかった。

「ま、好きにしな。証拠が見つからないなら、あたしはあんたの姉貴分だから。それだけは忘れないで」

「……ありがとう、ございます」

「敬語も要らん」

「あはは……ありがとう、二葉ちゃん」

 たまらず漏れる笑み。陽にとって十数年越しの笑顔だった。二葉は大きくあくびをして体を伸ばす。

「それじゃ、あたしはひと眠りするわ。魔童の調査は今日の二十三時から。準備しといてね」

「おやすみなさい……ん?」

 緩んだ口元がきつく結ばれる。表情もどこか強張っていた。その異変に二葉が気づいた様子はなく、陽の自室の扉を開ける。陽はその腕を掴んだ。二葉はなんのことかわからず、のんきに頭を掻いた。陽の表情は重苦しく、まるで死人が出たかのようなものだった。

「どした?」

「二葉ちゃん、どこで眠るつもり?」

「あんたのベッド」

「僕はどこで眠ればいいの?」

「一緒に寝る?」

「……馬鹿なこと言わないでさっさと寝て」

「ヤタ~、陽が冷たいよ」

「照れてるだけだって、カッカッカァ」

 ――なんだか、ずいぶん賑やかになったな。この家も。

 不思議と、鬱陶しくはなかった。

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