第2話:初めてと再会

 ――陽。

 懐かしい声がした。柔らかく、温かさのある声だった。どこで聞いたんだったっけ。おぼろげな記憶を辿る。

 ――陽。

 再び声が聞こえる。どこだ、どこで聞いた。暗闇の中、声だけが聞こえる。せめて顔さえ見えれば。

 ――どうして、俺を殺したの?

 ぞわりと背筋が粟立った。暗闇の中に映像が映し出される。微笑む男、幼い顔立ちの陽。男は銃を差し出し、かつての陽はおずおずと受け取る。直後、男の首が飛んだ。緩やかな弧を描き、呆気なく床に転がった。倒れる体、床に染み込む赤色。開かれるふすま、叫ぶ側近。迫りくる無数の足音。

 そうだ、この声は――。

「どうして俺を殺したの? 陽」

 転がった生首がこちらを見ている。夜空と青空を混ぜたような長髪、美しい鼻筋、人々を惹きつける穏やかな瞳。生首は赤い涙を流して、陽を見つめる。責めるようなその眼差しに、陽は口を開けた。

「ちが――」

「違わないでしょう? 俺が拾ってあげたのに、俺を殺して“八咫烏”を奪うなんてね」

「僕じゃない」

「証拠はあるの?」

 提示はできなかった。なにせ陽自身にも説明ができない。証人もいない、証拠もない。これでは疑われたままで当然なのだ。わかってはいる。けれど――

「僕じゃない」

 確かめるように呟く。しかし、生首の涙は止まらない。

「否定しなかったのはどうして? 後ろめたいことがあったからだろう? きみが、俺を、殺したんだ」

「違う」

「違わない」

「やめて」

「きみが、俺を、殺――」


「――タ、ヒナタ!」

 甲高い声がした。耳をつんざくやかましい声だ。七尾陽ななおひなたはびくりと肩を震わせ、ベッドの上で跳ね起きる。ベッドの傍には、黒い鳥がいた。闇を思わせる漆黒の体毛に、鋭いくちばし。体を支えるのに心許ない脚は三本ある。

 日本の妖怪、“八咫烏”がそこにいた。“八咫烏”は陽の枕元でばさばさと翼をはためかせている。抜けた羽根が散らばって部屋中が大変なことになっていた。

「……ヤタ? どうしてこんなに騒ぎ立てたの?」

「そりゃ、ヒナタがうなされてたからさ。早く起こしてやらねえとって思ってよ」

「お気遣いありがとう。でも、この部屋を誰が掃除するのかまでは考えられなかった?」

「いくら“八咫烏”っつっても、オレはカラスだぞ? そこまでは考えられない」

「カラスは小学校低学年くらいの知能はあるって見たことあるけど」

「じゃあアレだ、どうしようもない個体差があるってこったな。カッカッカァ」

 やれやれ、と肩を竦める。まったくどうして、こんなのが憑魔士ひょうまし一族トップの己影こかげなのだろう。

 七尾陽はかつて、美景陽だった。幼い頃に両親から捨てられ、一人さまよっていたところを、当時の美景家当主の一哉に拾われた。美景家は憑魔士という一族であり、己影という魔物の力を借りて魔物と戦う役割を担っていた。他にも憑魔士はいるのだが、美景家はその一族の長であった。憑魔士は各々で契約する己影が異なり、美景家の当主が代々契約する己影がこの“八咫烏”なのだ。

 最初はもっと威厳のある佇まいかと思っていた。ところがどうだ、この己影――陽はヤタと呼んでいる――は、陽気で軽薄で、サイズだって普通のカラスと変わらない。威厳の欠片なんてこれっぽっちもなかった。美景家を追われる前に抱いていたイメージはことごとく打ち砕かれた。

 ――あれから、もう十年も経つのか。

 ふと、思い返す。美景一哉が死んだ夜から、もう十年の月日が流れた。あと数日後には市内の高校に進学することになる。普通の人間の日常を、十年間も過ごした。うっかり忘れそうになる。机の上に置かれた、一丁の銃のことを。

「……そろそろ行かないと」

「ヒナタ? どこ行くんだ」

「バイトだよ。大貫おおぬきさんの援助だけじゃ物足りないから」

「カァーッ、真面目だね。もっと寄越せジジイ! くれえ言ってもいいと思うんだがな?」

「命の恩人にそんなこと言えないよ」

 あの日、森から逃げ出すことに成功したのは、大貫という人のおかげだった。本人から直接連絡があったわけではなかったが、陽を待っていた運転手が「大貫様の使い」と名乗っていたことで初めて知った。大貫という人物の素性については詳しく知らないが、どういうわけか生活の援助もしてくれている。陽が住んでいるマンションの一室も、大貫が支払っていると聞いた。

 ――なにが目的なんだろう。どうして僕を生かし、こうも支えてくれるのだろう。

 疑問は尽きないが、質問する機会もない。あの日以来、大貫は陽の前に姿を現していないからだ。

「ま、頑張って来いよな。オレはその辺でふらついてくっからよ」

「人に見つからないように。三本足のカラスなんて伝承に過ぎないんだから」

「それオレの前で言うカァ? 実在してんのに?」

「うるさいなあ。もう行くからね」

「おうよ、行ってらァ」

 ばさばさと翼を振って見送るカラス。舞い散る羽毛。帰ったらどうしてくれようか。

 ため息を一つ。陽はエレベーターに乗り込んだ。閉めるボタンを押したところで、慌ただしい影が駆け込んでくるのが見えた。

「あーっ! 待って待って待ってください!」

 時間は午前七時二十分。廊下に元気な声が響き渡る。開くボタンを押して迎え入れる準備をすると、表情がぱあっと晴れた。駆け込んできたのは、マンションのごみ捨て場でたまに顔を合わせる少女だった。

 栗色のショートボブに、快活そうな大きな眼。小柄ながらも引き締まった体をしており、春先の少し冷えた空気の中、温かな色味のワンピースを着ていた。

「セーフ! ありがとうございます、助かりました!」

「いえ。それより、朝早いのにあんな大きな声を出して大丈夫なんですか?」

「大丈夫大丈夫、みんな目覚ましだと思ってくれますって」

 ずいぶんと前向きというか、傍迷惑な考え方をするものだ。普通の人間は皆こうなのか。十年、人の世で生きてきたものの、陽の中ではいまだに普通の人間の像が定まっていなかった。

 少女は陽をじいっと見つめる。なにか顔についているのかと携帯を鏡代わりに覗いてみるが、別段おかしなところはない。なにを訴えているのか、陽も見つめ返してみると、少女はくすっと吹き出した。

「ごめんなさい、なにもついてないです。ただ、若いなーって思ってて。同年代くらいかな? って思っただけで」

 単純に興味があっただけらしい。陽は指を折って年齢を数える。正確な生年月日は覚えていなかったので、実際に今年で高校生なのかも怪しかった。

「たぶん、今年で十六になります」

「たぶんって? 自分の生年月日把握してないんですか?」

「人間、生きてればそういうこともありますよ」

「あはっ、なにそれ! 寝惚けてますか?」

「いえ、手のかかる奴に起こされてとても冴えています」

「あはは、なにそれ面白いですね!」

 なにか面白いことを言ったのだろうか。自覚のない陽は首を傾げる。

 エレベーターの扉が開き、少女が一礼して去っていく。続いて陽も出るが、少女が振り返って手を振った。

「あたし、真中菜摘まなかなつみって言います! どこかで会ったらよろしくねー!」

「七尾陽です。ええ、それでは」

 ぎこちなく手を振り返して、自身も駆け出す。バイト先までは走って十分程度、間に合う時間だ。陽は朝の陽射しを堪能しながらのんびりと歩いた。犬の散歩の途中だろう、井戸端会議に興じる婦人の姿が見える。婦人は陽に気づくと、ひらりと手を振った。若くして一人暮らしをしている陽は、近所ではちょっとした有名人だった。軽く会釈を返す。「頑張ってね」とエールを貰い、微笑で答えた。

 そうして辿り着いたのはコンビニだった。中学生の頃から世話になっており、オーナーや店長、パートの主婦は随分気にかけてくれている。人に恵まれたのは、孤独な陽にとって幸いだった。夜勤の青年は陽の顔を見てくたびれた笑顔を向けた。

「おはようございます」

「おはよう、陽。今日は大変だったよ、納品の最中にクレーマーに捕まっちゃってさ」

「胸中お察しします。帰ったらゆっくり休んでくださいね」

「ありがとう、酒でも買って帰るよ」

「程々に」

 微笑む陽に、青年は苦笑で返す。事務所に入ると、オーナーが制服を着てパソコンに向かっていた。陽の挨拶に、おうと軽い返事をする。

「おはよう、今日も一日よろしくな」

「はい、よろしくお願いします」

「朝は食ってきたか? 食ってないなら廃棄つまんでから出勤しなよ」

「では、お言葉に甘えて」

 陽が勤める店舗では廃棄になった食品を持ち帰ることができる。事務室には籠に積まれたパンや麺類がぎっしりと詰め込まれていた。その中から低脂肪のパンを選び、かじりつく。実際、廃棄になったからといって一晩程度では味に変化はない。もっちりとした生地が腹を満たす。そうこうしていると、相方の主婦も姿を現した。そそくさと制服に袖を通し、勤怠登録を行う。オーナーとそりが合わないのか、二人が会話しているところを見たことがない。

 陽も同様に勤怠登録を行い、売り場に出る。夜勤の青年たちが、待ちくたびれたとため息を吐いた。仕事内容の伝達を手短に済ませ、二人は事務所に引っ込む。相方の主婦が、陽の肩を叩いた。

「七尾くん、知ってる? 最近、この辺に出るらしいわよ」

「出る? おばけですか?」

「おばけっていうか、化け物なんだって。猿に似てるけど、もっと腕が太くてごっついらしいの。おまけに真っ黒なんだとか。主婦仲間も見たって言ってたわ。襲ってくる気配はないみたいなんだけど、おっかないわよね。七尾くんも気をつけてね。可愛いんだから」

「……あはは、ご忠告ありがとうございます」

 ひょっとすると、近くまで来ているのかもしれない。かつて家族だと思っていた人たちの誰かが。主婦の話を聞いてピンときた。おそらく美景家が――憑魔士が戦ってきたものだろう。

 憑魔士が戦うもの。それは闇に生まれ、闇に消える。憑魔士は魔童まどうと呼んでいた。魔童の被害に遭うのは、主に動物だ。犬、猫、鳥、虫。彼らは抵抗の余地もなく闇に飲まれる。その段階での退治は容易だが、成長した魔童は自我を持ち、人に仇為す存在となる。被害の拡大を防ぐために早急な対処をするのが憑魔士の務めだった。

 ――任せよう。僕は正統な憑魔士じゃないんだから。

 入店時の音でハッと我に返る。すう、と空気を吸い込む陽。

「いらっしゃいませ、おはようございます」

 その声は、震えていた。


 時刻は十七時七分。退勤した陽は家への帰路についていた。右手には買い物袋いっぱいに詰め込まれたおにぎり、弁当の山。全て廃棄になった商品である。これで二日は凌げるだろう。

 部活を終えたジャージ姿の高校生の姿がちらほらと見受けられる。自分もあと数日でああなるのかと少し感慨深く思う。

 ごみ捨て場にカラスが群がっている。その中にヤタの姿はなかった。ごみ捨て場から見つけたものを持ち帰ろうものなら、ヤタを家から追い出すことも辞さないが。ヤタは普段食事を摂らないため、どうやってエネルギーを供給しているのだろう。ふと、ヤタの生態について考える。

 現在、ヤタの契約者は陽だった。正確に言うならば、所有者。己影がなにを供給源として姿を維持しているのかまでは知らなかった。帰ったら確認してみよう、陽の足取りは少し軽くなった。

 マンションまで到着しエレベーターを待っていると、肩を叩かれる。振り向くと、今朝の少女――真中菜摘がいた。

「あ、やっぱり七尾さんだ。こんばんは」

「こんばんは、真中さん。いま帰りですか?」

「はい、ボランティアに行ってて」

「へえ、献身的です、ね……!」

 陽の顔から血の気が引く。どうしたのかと振り向く菜摘。そこにはカラスがいた、三本脚の。ヤタだ。ヤタは陽と菜摘を交互に見てから、ニイといやらしい笑みを浮かべた――ような気がした。訝し気にカラスを覗き込む菜摘。

「カラスがこんなところまで入ってくるの、珍しいですね。……あれ、この子、足が――」

 菜摘が違和感に気づいたところで、陽はヤタをひったくるように抱き抱える。

「……あはは、いけない子ですね。こんなところに入り込むなんて。僕が責任を持って、外に逃がしてきます。それでは真中さん、失礼致します」

「あ、ちょっと! 手洗いうがいは忘れずにね!」

 菜摘の声に手を振って答える。マンション近くの空き地に駆け込み、ヤタを下ろす。

「なんだなんだ、ガールフレンドでもできたのカァ? 隅に置けねえなあ、おい?」

 ニヤニヤと下衆な笑みを浮かべるヤタ。どうやら陽の言いつけはまるで意味をなしていなかったらしい。深いため息が漏れる。

「ヤタ……家を出る前に僕が言ったこと、忘れちゃった?」

「なんて言ったっけ?」

 案の定だ。ヤタはいつもそうだった。陽の言うことなんてちっとも聞きはしない。その場では頷いても、三歩歩けばすでに忘れている。本当にカラスなのかと疑うほど物覚えが悪かった。

 陽も負けじと黒い笑みを浮かべる。

「ぽんこつ頭には教育が必要かもしれないね」

「褒められて伸びる子だから、その辺丁寧にな」

 まるで堪えた様子がなかった。もしかすると自分は舐められているのではないか。憑魔士としての実戦経験は皆無に等しい。己影としてのプライドがヤタの中にあるとすれば、頼りない、力を使えない憑魔士として見下している可能性がある。それは仕方がないことだった。美景家からの逃亡を図る上で、むやみに憑魔士の力を使えば勘付かれる恐れがある。大貫の指示ではあったが、それは陽としても避けたいことだった。

 そのおかげか、ヤタとはある種対等な関係を築けているとも言える。使役する者される者ではなく、一個の存在として対等な関係となっている。嬉しいことではあるが、憑魔士として在るべき姿かと言われると微妙だった。

「そういえば、ヤタ。この辺りに魔童が出るって話を聞いたよ」

「魔童? まさかだろ」

「本当みたい。美景の人が来ているかもしれないから、もし僕が頼りないと思っているなら、銃を持って美景の人に保護された方がいいと思う」

 それがきっと、ヤタにとってもプラスになるはずだ。

 そう思っての発言だったが、ヤタはぽかんと目を丸くするばかりだった。なにかおかしなことを言っただろうか。振り返ってみるが、別段妙なことは言っていなかった。首を傾げる陽を見て、ヤタは天井に向かって高らかに笑った。

「カッカッカ! そりゃねーわ! だってよォ、ヒナタといる方が自由だしな! 戦いばっかの毎日から解放されて、オレはいまサイコーに楽しいぜ?」

 これが憑魔士の長たる美景の己影だとは思えない。陽は肩を竦めた。

 ヤタは戦うことを望んでいない。いや、正確には、戦いから離れた生活を楽しんでいる。当時の所有者であった一哉ですら気づかなかっただろう。陽についてきて正解だったと笑う“八咫烏”。いざ戦いに飛び込んだとき、果たしてヤタは力を貸してくれるのだろうか。――陽自身が戦うことがあれば、の話だが。

「で、どうする? 魔童がいるならオレらも探してみるカァ?」

 ヤタから提案があるとは思わなかった。戦うことはうんざりだと思っていたが、実際そうでもないのだろうか。だとしたらヤタのためにも、一度くらい実戦を積むべきなのかもしれない。けれど、それはリスクが高すぎた。正統な憑魔士が姿を現したとき、すでに魔童が倒されていたとしたら陽以外ありえないからだ。

 憑魔士一族は森の中に本部を構え、一族の者は皆そこで生活している。そして、各地に潜む魔童を倒しに行くには本部を通す必要がある。現場についたとき魔童の気配がなければ、本部を通していない憑魔士――つまり、本部から逃げ出した陽が倒したという証拠に他ならない。近辺に陽が隠れているとなれば、美景家は血眼になって陽を探すだろう。

 そうなるくらいなら、正統な憑魔士が訪れるのを待つ方が賢明だ。

「やめておこう。きっと憑魔士にはすでに話が届いてる。そう遠くないうちに姿を見せるから」

「人任せかよ」

「僕は正統な憑魔士じゃないからね」

「正統な憑魔士じゃないと戦っちゃいけない理由でもあるのカァ?」

 ヤタの質問の意図がわからなかった。陽の事情を正しく理解しているヤタならば、賛同すると思っていたからだ。ヤタはなにかを確かめるように陽の目を見つめる。やがて根負けしたかのように、やれやれと翼を広げた。くちばしからため息が漏れる。

「ま、ヒナタにはまだ早いカァ。忘れてくれや」

「僕はカラスより頭がいいから、そう簡単には忘れられないよ」

「おー、言うねえ。オレ、馬鹿にされた?」

「ご想像にお任せするよ。さあ、そろそろ帰ろう。ヤタは窓から入って」

「はいはい、人目を忍ぶってのは大変だねえ」

 翼をはためかせ、マンションの方へ飛び去るヤタ。

 人目を忍ぶ術は十年間で身につけてきたつもりだった。僕は、本当に忍び込めているのだろうか。普通の日常に。ふとしたときに、不安になる。自分はなんでもない平和な街の異物なのではないかと。三本脚のカラスを連れ、この春から高校生になるというのにアルバイトをしている。こんな人間は、きっと普通ではない。

 ――僕はいったい、何者なんだろう。この平穏な世界において、どんな存在であるべきなんだろう。

 答えはまだまだ見つかりそうもない。

 自室に帰って真っ先に目についたのは、今朝ヤタが散らかした黒い羽根だった。そうだった、食事の前にこれを片付けなければ。陽の口から呆れが漏れる。

「おう、おかえりヒナタ」

「ただいま、ヤタ。早速気が滅入ってるよ、なんとかして」

「なんだ、じゃあ笑かしてやろうカァ? オレ、落語とか大喜利とか好きだぞ」

「そんなものは求めてないの」

 話をするだけ無駄だったか、と陽は項垂れる。

 ごみ袋を取り出し、羽根を一枚ずつ拾って捨てる。まったく、どうして己影の粗相の後始末をする羽目になっているのか。最初の己影がヤタであったため、正統な憑魔士と己影の関係性についてはわからないことが多かった。もしかすると、皆このように己影の世話をしているのかもしれない。

「そういえば、ヤタって食事摂らないよね」

「んあ? なんだ、藪から棒に」

「いや、どうやってその姿を維持してるんだろうと思って。出会った頃からなんにも変わってないから……」

「そりゃ実体じゃねーし。この姿は概念みてーなもんだよ。オレの本体は、ここにある」

 くちばしが突くのは、銃。かつて美景一哉が使っていた憑魔士の証――魔憑銃まひょうじゅうだ。憑魔士は魔憑銃を使い、特殊な弾丸を自身に撃ち込むことで己影の力を借りる。そうして初めて、魔童に抗する力を得られるのだ。己影の本体は魔憑銃に込められた特殊な弾丸であり、ヤタが言うには弾丸に込められた魔力を使うことでこの姿を象っているのだという。

 つまり弾丸の魔力が途絶えない限り、ヤタはこの姿を維持できるということだ。どうりで食事が要らないはずである。さらに疑問が一つ。

「魔力はどうやって補給するの?」

「魔童を倒すんだよ。弱った魔童にオレを打ち込めば、弾丸に魔童の魔力が上乗せされる。そうして、オレたち己影は存在を維持しつつ強くなっていくのさ。理解したカァ?」

 理解はした。けれど、それはつまり――

「ヤタの魔力は、ずっと減り続けてるってこと?」

「そりゃそーだ、十年前から一度も補給してねーしな」

 陽は自責の念に駆られた。自分が戦えない、戦いたくないという理由で、ヤタのことを一切考えてこなかった。さらに不安な点が一つ。

「あと、どのくらいの魔力が残ってるの……?」

「さあ? でもあと二十年分くらいはあるんじゃねーの?」

「そ、そんなに?」

「いままでの美景がどんだけ魔童を倒してきたと思ってんだ。美景は憑魔士一族の長だぞ?」

 現状、ヤタは貯金を切り崩して生命活動を維持しているということだ。自分のことで手一杯で、ヤタについて考えることを放棄していたことを悔やむ陽。動きを止め、深い息を吐く。

「ヤタ」

「んあ?」

「魔童、倒そう」

 七尾陽の、大きな決断だった。


 その夜、陽はふらりと外に出た。車の通りはまだまだ勢いを落とさず、仕事帰りであろうスーツ姿の男性が運転している姿が見える。最初は大きな通りに出た陽だったが、しばらく歩いてから住宅街の方へ戻った。

 主婦が言っていた場所まではわからなかったが、彼女が見たというのであればこの近辺で間違いはないだろう。トートバッグに一哉の魔憑銃を忍ばせ、宛てもなく夜道をさまよう。そのとき、弾丸の姿に戻ったヤタが声をかけてきた。

『どーしたんだよ、心変わりでもしたカァ?』

「別に、ちょっとした恩返しだよ」

『義理堅いねェ』

 カッカッカ、と笑うヤタ。

 あの部屋に案内されてから間もなく、ヤタは姿を現した。最初は鬱陶しいと思っていたが、寂しいときも悲しいときもそばにいてくれた。陽にとって、大貫とは違った意味での恩人だった。人ではないが。

 それならば、どこかしらで報いたい。そう思っての決断だった。それにあの事件からもう十年も経つ。美景の者と鉢合わせても、冷静になって話し合えばきっと理解してくれる。陽はそう信じるしかなかった。

 職場の近くまで歩いてきた。現在、時刻は二十二時三十分。夜勤の時間だった。職場に寄っても仕方がないので、通り過ぎようとしたが、あれ? と高い声が聞こえてくる。

「七尾さん?」

「……真中さん?」

 マンションの住人、真中菜摘がいた。手には買い物袋。どうやらコンビニで夜食でも買っていたらしい。陽の職場であることは知らないようだった。

「どうしたんです、こんな時間に。夜中に女の子が一人で出歩くのは危ないですよ」

「あはは、紳士的ですね。ありがとうございます。恥ずかしながら、ちょっと小腹が空いちゃって」

 照れ臭そうに笑う菜摘。魔童についての噂は聞いていないのだろうか、どちらにせよ不用心だと思った。ヤタがひゅうと口笛を吹く。どうやって吹いたかは想像がつかない。

『家まで送ってやったらどうだ? こういうところでご縁を作っとくのも大事だぜ』

 なにが大事なのかはわからない。だが、このまま一人で帰すのも忍びなかった。陽は小さく頷く。

「家まで送りますよ」

「え、いいんですか?」

「女の子が夜中に一人はなにが起こるかわかりませんから」

「しっかりしてますね。それじゃあお願いします」

 そうしてマンションまでの道を辿る。その道中、菜摘の他愛のない話を陽が聞くという構図が生まれていた。菜摘の中学時代の部活――バスケットボール部だったらしい――の顧問や部員の笑い話や、得意な科目、苦手な科目、友達との関係など。お喋りな人だなと思った。

 陽に話題を振ることもあったが、語れないことが多いため短い回答で区切ることとなる。多少印象が悪くなるかもと考えたが、どうせ大した縁でもないだろう。ヤタの言葉の真意がわからない以上、鵜呑みにするのは厳禁だと考えていた。

 マンションが見えてくると、菜摘が数歩先に駆け出す。

「もうここまでで大丈夫です! ありがとうございます、話し相手になってくれて楽しかったです!」

「それならよかったです。では、お気をつけて」

 手を振りながら走っていく菜摘の背中を見て、ヤタが語りかけてくる。

『愛想のねーやつだと思われたかもよ?』

「別にそれでもいいんじゃない」

『カァーッ、冷めてるねえ』

 どこか残念そうなヤタを放って、踵を返したそのときだった。

 背後から――マンションの方から悲鳴が聞こえた。すぐにわかった。菜摘のものだった。暴漢かとも考えたが、違う。それよりもっとおぞましいものと相対したときの悲鳴だった。陽はすぐに勘付く。

「魔童……!?」

『だろーな、急げ!』

 再びマンションの方へ駆け出す。見れば、長く厳つい腕をした漆黒の影が菜摘を追いかけていた。主婦が言っていた魔童だろう。すかさず駆け出し、魔童を蹴り飛ばす。駐輪場に突っ込む影。陽は怯える菜摘を庇うように立つ。

「な、七尾さん……!?」

「早くエレベーターに乗ってください」

「でも」

「早く!」

 陽の剣幕に圧されたらしい、菜摘は覚束ない足取りでエレベーターまで駆けていった。

 起き上がる影――猿の魔童。陽はトートバッグから魔憑銃を取り出す。初めての実戦、しかもいつ人が集まるかもわからない場所だ。あまり長くは戦えない。狙うは短期決戦、ヤタの声が響いた。

『こめかみにオレを撃ち込め! そうすりゃ憑魔化ひょうまかできる!』

「やってみる……!」

 ヤタの声に従い、銃口をこめかみに当てる。引き金に指をかけ、引いた。ガン、と衝撃が頭に走る。体の中になにかが入ってくるのがわかった。美景の己影“八咫烏”の力で満たされていく。肩甲骨の辺りが熱を帯びる。ぞわりと音を立てて、漆黒の翼が生えた。変化はそれだけに留まらない。肘の部分が音を立て、骨のような肢体が生えてくる。これが美景の力、“八咫烏”。己影と契約者の融合を、ヤタは憑魔化と呼んだ。

「成功した……!」

『ボケッとすんな! 来るぞ!』

 猿の魔童は剛腕を振り回しながら肉薄する。殺意を伴った突撃に、陽は足が竦むのを感じた。すかさずヤタが叱咤する。

『飛べ!』

 一体化したヤタの意志が怯えた体を動かす。陽は翼をはためかせ、地面を蹴った。夜の空に漆黒の影が浮かぶ。重力に抗う動きに戸惑う陽だが、ヤタの意志が介在しているおかげで不自由はしなかった。

『空中に出ちまえばこっちのもんだ! 撃つぞ!』

 陽はわけもわからず右手をかざす。狙いは、こちらに向かって威嚇する猿の魔童。背中の翼が呼応し、黒い羽根が舞う。それらは空中で停止すると、猿の魔童目掛けて飛んでいった。羽根なんかに攻撃力があるかは疑問だったが、そこは己影の力。羽根は硬質なものとなっており、さながら矢のように猿の魔童に降り注ぐ。猿の魔童はそれを防ぐこともできず、文字通り蜂の巣となった。だが、まだ倒れない。

「くっ、魔童ってこんなに頑丈なのか……!」

 猿の魔童が吼えた。近くに転がった自転車を片手で担ぎ――陽へ向かって投げつけた。堂々とした攻撃に陽の反応が僅かに遅れる。ヤタの意志で体を逸らしたものの、右側の羽根に直撃した。均衡を崩した陽はきりもみしながら地に堕ちる。受け身の取り方も知らない陽は、無様に背中を打ちつけた。

「ぐう……!」

『ヒナタ! しっかりしろ!』

 猿の魔童が迫ってくる。陽は体勢を整えながら手をかざした。黒い矢が腕を貫き、引きちぎる。しかし止まらない。絶体絶命かと思われた、そのときだった。

 陽の背後から何者かが飛び出し、バットのようなもので猿の魔童を薙ぎ払った。原型を残さずバラバラに弾け飛び、闇に溶けるように消えていった。

 脅威が去ったと安堵したのも束の間、陽は気づく。常人にできる芸当ではない。間違いなく憑魔士の仕業だった。逃げようと試みるが、上手く体が動かない。突如現れた影はバットのようなものを振る。するとそれは黒い粒子をまき散らしながら掻き消えた。直後、影は懐から小さな箱を取り出した。中から短い棒を引き抜くと、口に咥える。一瞬、明かりが灯ったかと思えば甘い匂いが漂った。煙草の匂いだと気づくのに時間はかからなかった。

 影は陽に歩み寄り、顔を覗き込む。女性だった。鋭い眼差しが陽を射抜く。そうして、恐れていたことを口にする。

「あんたが陽?」

 魔童との戦闘現場を見られたのだ、言い訳はできない。陽は覚悟を決めて頷く。すると女性は「やっぱりね」と呟いた。

「僕を、捕らえに来たんですか?」

 当然の疑問だった。もはや確信と言ってもいい。これから憑魔士本部へ連行され、然るべき処罰を受ける覚悟もできている。ところが女性の反応は、陽が想像していたものと少し異なった。

「まずは話を聞いてから。昔馴染みのよしみよ、陽」

「……あなたは、いったい……?」

 昔馴染みという言葉の真意がわからない。首を傾げる陽に、女性はため息を吐いた。

「覚えてないの? あたしよ、二葉ふたば。美景二葉。美景一哉の妹で、あんたの姉貴分だったんだけど」

 二葉、という名前を反芻する。そうして、思い出す。美景に拾われて間もなく、親しくなった少女がいた。名は二葉。天真爛漫で、ませた言動をする少女だった。その少女がいま、憑魔士の女性として目の前に立っている。

 思いがけない再会に、陽の目は丸くなるばかりだった。

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