影陽―カゲヒナタ―
杉野冬馬
第一部:陽の世界
第1話:血の濡れ衣
大切な人から奪ったものだった。できれば使いたくない。使えば、いよいよ帰る場所がなくなる。陽にとって、一番の恐怖はそこだった。いま足を止めて、事情を説明すれば、また自分を迎え入れてくれるかもしれない。
つい先ほど起きた事件で冷静さを欠いているだけに違いない。真っ先に陽が疑われたのは、たまたまその場に居合わせたからに他ならない。そう信じたかった。でなければ、美景の人たちは最初から陽を疑っていたことの証明になってしまう。
足音がどんどん近くなる。憔悴した陽に、もはや正常な判断を下せる力は残っていない。いっそ捕まってしまえば楽になるのではないか。もしかしたらもう真犯人が見つかって、保護しに来ただけではないのか。様々な想像が泡のように浮かんでは、弾けて消える。陽は足を止めた。
地鳴りがしたかと思えば、陽の背後になにかの影が降り立った。全身を黒い毛で覆い、開かれた口からは獰猛な牙が見える。おぞましい唸り声と荒々しい息を漏らすそれは陽よりも頭一つ大きく、成人男性のようだった。男は陽の方に手を伸ばし、叫んだ。
「とうとう追いついたぞ、陽!
――違う、僕じゃない。
そう訴えたかった。しかし朦朧とした頭ではろくな言葉も紡げない。ただ、深い息が漏れるだけだった。抵抗の意志も出せず、肯定したとみなされたらしい。男はゆっくり陽の元へと歩み寄る。隆々としたたくましい腕が陽の首を掴んだ、そのときだった。
「ッ!?」
男は大きく飛び退いた。
なにが起こったのかわからず、陽は尻もちをついてしまう。陽の元に迫る、ゆったりとした足音。それは紛れもなく人のものだった。それも、まだ若い。足音は陽の隣で止まる。
「誰?」
陽の問いかけに返事はなかった。ガチッと金属の音がしたかと思うと、重たい音が響いた。陽にも聞き覚えがある。銃の音だった。
飛び退いた男は警戒心をあらわにし、唸る。
「何者だ?」
「――化け物だ」
その声は少年のものだった。陽よりも二回りは大きな体、十代半ば程度だろう。
瞬間、一筋の光条が閃いた。直後、男は呻き声を上げてうずくまる。男の鳩尾に拳がめり込んだことに、陽は気づかない。厳つい腕を振り回す男だが、振り被ったときにはもう遅い。きらりと光が瞬いたかと思うと、少年は陽の隣に立っていた。
「その力、いったい……?」
「知らないのも無理はない」
「陽を守るつもりなら、容赦はしないぞ」
「好きにすればいい」
男は唸り声をあげて突進した。狙いは陽ではない。敵と判断した少年だった。少年は再び光を瞬かせると、直後には男の背後に回っていた。瞬間移動でもしているようだった。男は少年の能力が掴めていないようで、苛立ったように息を吐く。そして、そばにいた陽を脇に抱えた。
「これ以上、私の邪魔をするならば陽を殺す。貴様の目的は陽の保護、違うか?」
「俺の目的は保護じゃない」
「なんだ――と?」
直後、男の体の均衡が崩れた。そのまま、受け身も取らずに倒れる。胴体のそばに、なにか大きなものが転がった。
陽の背後には、別な男が立っていた。暗くて顔がよく見えないが、そこまで大柄ではない。線も細めで、どうやってあの男を殺せたのかが想像できなかった。
「苦喰(くくい)、よくやった。だが、まだ甘い。もう少しでこの小僧が死ぬところだったぞ」
「申し訳ありません」
「まあ、いい。それより――」
男の視線が陽に向いた。追手からの解放感からか、まるで体が動かなかった。男は陽の頭をぐいと掴み、顔を寄せる。生傷の絶えない顔だった。
「お前が陽か」
問いかける声は低く、思わず肌が粟立つ。戦いとは縁遠く暮らしていた陽にもわかる。数えきれないくらいの場数を踏んできたのだろう。まとう空気が美景の者とは別物だった。
陽はゆっくりと頷く。男はニイと口の端を上げた。
「お前が、美景一哉を殺したのか?」
「ち、違う……一哉様は、僕の目の前で、首が飛んだんだ。僕はなにもしてない、本当に」
いくらか冷静になった頭で真実を告げる。
美景一哉。二十一歳で美景家の当主となり、闇の中で戦っていた。当然、人望が厚かった。そんな人の首が、突然宙を舞った。なにが起こったのかまったく理解できなかった陽だったが、すぐに叫び声を上げた。部屋の外にいた側近がすぐに駆け付けたが、綺麗に飛ばされた首と、銃を手にする陽。そして、物々しく顕現した“八咫烏”。この状況で、誰が陽を信じられるだろうか。
側近はすぐに人を集めた。陽はたまらず逃げ出した。気が動転していたこともあるだろう、しかしそれがいけなかった。陽への疑いはますます強くなるばかりだった。気がつけば、追手が放たれていた。そして、現在に至る。
男は陽の語る真実を真に受けるのだろうか。不安な陽ではあったが、男はふむとあごに手を当てる。
「そうか、それは大変だったな。ひとまず、陽よ。お前はこのまま逃げるといい」
「逃げるって、どこに?」
「私の手の者が、森を出た先で待っている。あとはその者に任せるんだ。いいね?」
諭すような声音ではあったが、有無を言わせぬ圧力があった。陽はただ頷き、森を抜ける道を走り出した。追手の気配は、もうなかった。
闇を切り裂くように腕を振り、走り続ける。そうしてどれだけ走ったか、森の出口が見えてきた。そのとき、体の中から声がする。
『戻らなくていいのか?』
確かめるような、試すような口調だった。うつむく陽の足が止まる。声は続けて問うた。
『いま戻って真実を告げれば、お前の疑いも晴れるかもしれないのに?』
甘く、砂糖菓子のように誘惑する声音。だが、陽の足は前に出ていた。
『いいのか? 本当に? ここで逃げたらお前は、恩を仇で返した重罪人のままだぞ?』
「……それは、嫌」
『ならば、戻るといい。いまなら――』
「でも」
唆す声を遮る。声は消えた。陽は顔を上げ、再び歩き出した。
「もう、戻れない」
その数日後。
陽は美景家当主殺害と“八咫烏”強奪の容疑によって、闇の中で指名手配されることとなる。
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