砂漠の国シリーズ

@ryuko

番外編

婚前の林檎


 死が想起される八月の終わり。


 甘い山茶花の香りが焚きあがる。炎が罪業を焼く聖火に見えるような、不思議な夜だった。

 姫はひとり、白い長裾の衣装を纏い東屋の腰掛椅子に座っていた。屋外にあるのが奇妙に思われるほど立派な革張り、その猫足にドレープをたっぷりと揺らせ、姫の身分をもつ少女が月を見上げている。まるで童話のようだと、傍らに控えていたクラエは思った。

 銀糸を織り込んだような細い髪を束ねては解き、解いては束ねる髪遊びがひとしきり済んだところで、かがやく満月が雲隠れした。影と遊ぶように少女は足を揺らす。ゆらんと漂う白さに官能を抑えるのは難しい。目を逸らす動機を探して、いつのまにか迷子になっていた靴を草陰から拾い、彼女の足元へ寄せた。ライオンがゆったりと鬣を風に流すような緩慢さで、少女は首をふる。素足のままでいいというのだ。

 この情緒的な夜闇のなか、彼女が喋りだすのをクラエは待っていた。そもそも先に直言できるような立場でもなく、ただ偶然を装って彼女の傍らに立っているしかないような身分だった。もちろん、ふたりの逢瀬は”偶然”ではない。姫は毎夜この東屋を訪れるが、クラエが担当ではない晩は、薔薇を一目愛でただけで帰ってしまう。その視線は灯台のあかりが一周して円を描くように、庭をぐんねりと一巡するそうだ。つまり、苛烈に美しいということ。

 庭番を任じられた騎士たちは皆、姫の美しさに目を潰されるとまで言われていた。周囲の同僚たちが口々に姫への賞賛の言葉を紡ぐのを、クラエは居心地悪く聞いていた。同僚の多くは上流階級出身だったが、クラエは珍しくも庶民の出で、剣は扱えても詩の嗜みはなかった。

 ――銀の乙女。芍薬のような気高さを持ち、誰彼をも魅了し照らす、月光のような方。

 その乙女の、花弁のような唇がぱっくりと割れる。それはちょうど桔梗の花弁が一枚はらりと落ちるような危うさがあって、彼女が口を開くたびにクラエはその一弁を受け止めてやりたくなる。

 空気が震え、クラエの耳に届く。音速ははやい。

「結婚するの」

 姫とクラエ、ふたり以外の誰の気配もない、静か過ぎる夜だった。静謐とも静寂とも違う、ただ何もない空しさを抱えた闇が、すぐそこまで来ているのに、姫が灯台であるおかげでこの東屋の中だけは太陽の香りがする。

「わたしの話よ」

 と、姫は付け加えるように言った。それはまさに、彼女の愛するショコラケーキに添えられた小さなホイップクリームと桜の砂糖漬けのような甘さで、クラエの頭をくらくらとさせた。とはいえ、知っていた。

 右手を胸につけ、敬礼の体配をとる。

「お慶び申し上げる」

「ほんとうに?」

「ええ、国民の一人として」

 膝を突き、そして爪先を立てた。剣を抜き、騎士として最上級の礼をとる。

 ――それが正しい作法だ。

「ご成婚、誠におめでとうございます。これからもイーハの空に姫の月が上がらんことを」

「そう」

 言ったまま、乙女はそれ以上何も言葉を紡がず、ただ仕掛け人形になってしまったかのように一定の律動で素足を揺らして、変わらず月を見上げていた。その光景がどうにも不憫に思え、クラエはもう一度口を開く。

「砂漠の王子への賞賛の声はこのイーハ中央にもよく届いております。これ以上ないお相手かと存じます」

 慰めるつもりだったし、嘘は言っていなかった。

 成婚の報が城中を駆け巡ったあと、クラエは半年ぶりに酒屋へ出入りした。情報を得るために。事務官には書籍を取り寄せさせて、秘密主義の国・イアウォールの数少ない文献を読み漁った。そうして三日かけてクラエが出した結論だった。

 砂漠の国は、悪くない。王子はすでに継嗣と立って日が長く、有力な親族もいないため後取り争いの心配はない。王子本人はまだ若く、その気品ある美は砂漠のこちら側まで届く。武芸に優れ、芸術にも理解がある。巫女と呼ばれる少女が、月の女神の助力を借りて宣下を行うという少々特殊な宗教観だけが気になったが、現王および王子は盲目的に巫女の言葉を呑みこむことはないと聞く。それならばただ、ひとり摂政がいるというだけの話で、珍しい話でもない。そのうえ巫女はイーハの姫に問題なしと宣下したそうだ。

 だから、砂漠の王子は悪くない。イーハの首都・パレマトからは遠いが、力ある隣国であり、美しい都をもち、なにより王族の婚姻を一度に限る戒律がある。つまり、妾腹との争いも起こりえない。

 ――姫は幸せになれる。

「満足そうね。でも、わたしが大人に見える?」

「子どもには見えませんし、満足しているわけではありません」

 あら、と乙女が笑う。同僚たちがふんだんな語彙を用いて表現する、あの愛らしい声で。

「不満ってこと?」

 らんらんと目が輝くような瞳に、クラエはしずかに首を振った。

「私が満足、あるいは不満を持つような類のものではないということです」

 乙女は目を細めて、同時に足を振るのを止めた。

「あの国の宗教や慣習を知っていて?」

「詳しいというわけではありませんが」

「わたしもよ。だから知っているぶんだけ教えて」

 クラエは眉をひそめた。婚儀が決まった以上、いくらでも教師が教えてくれるだろうに、と思う。

 しかし確かに、クラエはいま、それなりにイアウォールの歴史に詳しかった。専門家では当然ないから、本来なら姫に講釈を垂れるべきではない。

 ――けれど。

 間違いが含まれていてもご容赦くださいとあらかじめ含め置き、この数日で頭に詰め込んだ情報を語る。クラエはもともと頭のほうがよくて役人に上がり、後から武芸を身に付けた。だから、と驕るわけでもないが、記憶力は人よりもいいし、そこいらの教師と同程度には分かりやすく説明できる自信もあった。

「姫は、あの国の宗教観が少々特殊であることはご存知でしょう。神を信じ、巫女を通してその助力を得んとする砂漠の民の集まりが、イアウォールの都のそもそもの始まりとされています」

「ええ、その程度しか知らないけど。巫女と王とが同等の権限を持っているとか」

「仰るとおりです。力のバランスは、結局のところ時代によるようですが、建前としてはあくまでも『同等』の力を持つ双璧。二本の柱で国家を運営するという点がわが国とは大きく異なります」

 姫はほんのすこし興味を取り戻したかのようにクラエを見た。

「わが国は王族のみ政権を与えるところが、逆に世界的に珍しいようね」

「はい。文化的なところでいくと、砂漠の国ではその宗教観から、『声』と『月』が尊ばれる傾向にあるようです。月を通して女神と通話する巫女が、声によって現世に天啓を下すから、というのがその理由です」

 まんまると、欠けずに輝く月明かりが、厚い雲の向こうから少しずつ戻ってくる。上空は強い風が吹いているのだろう、今夜は雲の動きが大きい。

「月を尊ぶのは我がイーハ王国も同じですが、意味合いは異なります。月は女神を映す鏡であると考えられているそうで、信仰の対象でもあるようです。しかし、民衆にそこまでの意義が浸透しているわけではなく、そういう意味では我が国の文化と差を感じられるようなこともあまりないでしょう。次に『声』ですが、こちらも、踊り子と歌い手、どちらのほうがより民衆文化に近いかとか、そういった程度のことです。しかし『声』が良いほうが、神聖的であり、美的であると考えられる傾向はあるようです」

「それで」

「姫の声は素晴らしい。数々の詩人がうたっております。きっとかのイアウォールでも、愛される后になられることでしょう」

 乙女は答えなかった。答えないということはつまり、あの美しい声が響かないということで、ただ静寂だけがまた東屋のなかを満たす。おそらくこれ以上しずかな夜は生涯ないだろうとクラエは感じた。

 永遠に夜が続くのではないかという幻想を抱きかけたころ、姫は突然、足がつるのではないかと心配するほどぐんと足指を伸ばしてみせた。クラエは慌てて靴を取り、姫の足元へ掲げる。

「お戻りになりますか」

「ならないわ。分かってるくせに」

 泳ぐ魚のように自由にばたつく姫の足を、掴むわけにもいかず、クラエは苦心して靴を履かせた。右足を済ませ、左足にようやく爪先がはいったとき、乙女は右の靴を放りだす。しかし慣れっこだった。ときたまこの少女は、こういう遊びをしたがるのだ。

「怒った?」

「いいえ、まったく」

 本心からそう言うと、姫はくすくすとまた鈴を転がすように笑う。近しくなってすでに五年以上経つが、未だにこういうところは理解しがたかった。

「わたしにどうなってほしい?」

「愛されていただきたいと思います。砂漠のこちらとあちら、変わらず誰からも」

「そう。誰からも愛されていただきたい?」

「そう、変わらず……」


 誰からも。


「……そう申し上げました」

「いつも土壇場であなたってずるいこと言うの。気づいてる?」

 ずるいことを言わせるのはそちらだ、と、もしも身分の差がなかったらクラエは言っただろうと思った。だが、言わなくても目線だけで伝わっているようにも思った。そもそも二人は、何年も目線と空気だけで会話をしてきたのだ。

 ねえ、と姫がささやく。

「不思議なことね。あなたについてきて欲しいと、さっきまで頼む気持ちでいたの」

「難しいことかと存じます」

「そうでしょうね。でも、そうしたかったの。そうできないとしても、せめてあなたにそう頼みたかったの。分かるかしら」

 分かるとも、分からないともいえなかった。どちらを言ったとしても不敬になるような気がした。

「わたし、不幸だとは思わないし、絶対にそうは言わないの。でも、べつにとりたてて幸せだと思ったことはないわ。幸せではない人は、やはり不幸なのかしら」

 姫がそう言って、クラエの指を掴んだ。貴族ではないクラエは、王族の女性に対して触れる挨拶は行わない。だから、靴を履かせる以外で、つまり足ではない場所に触れたのはこれが初めてのことだった。


 幸せ。もしくは不幸せ。

 幸せでなければ、不幸せ。


「姫、最後に不敬をよろしいでしょうか」

「なあに。一つだけなんでも許してあげる」

 一つだけ、という言葉に気持ちがゆらぐようだった。ほんとうになんでも許してくれそうだな、とあまりに不敬なことを思ったあとで、クラエは彼女の手を取った。貴族のように。手の甲へキスする挨拶の、その一歩手前のしぐさのように。

「姫、おそれながら、いや」

「なに」

「たいていの人はみなそうです。おれも、幸せだと思ったこともなければ、不幸だと思ったこともありません。役人になれたことは人より幸運だったとは思うし、焦がれる気持ちに関してはあるいは不運なこともあったけど、でもそれだけだ」

「不運。そうね」

「姫に会えたことは幸せでした」

 それだけ言って、クラエは彼女の手をはずした。そして目で伝える。行ってください。あの向こうへ。あるいは砂漠の先へ。あなたの幸せのある場所へ。

 姫は結局ふたつの靴を自分で拾い、自分で履いて、そのまま城へと戻っていった。

 彼女の部屋、塔の天辺に近いその場所を、勤務があけてもずっと見つめて、ただその明かりが消えるまで、クラエは見つめ続けていた。


 一秒も目を離さなければ、彼女がその先幸せでいられる呪いをかけられるとでもいうふうに。


FIN

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