ep12.無慈悲な苦悩
「苦悩にも種類がある。しかし私がモデルと出来るのは、たった一つの苦悩だ。私が産まれて初めて持ち、そしてどうすることも出来なかったこと」
「博士にも不可能があるとは意外です」
「私にも意外だったよ。私は凡その人間よりも優れた頭脳を持っていると自覚していたし、それを使ってなんでも出来た。なのに私は苦悩を前にして、手も足も出なかったのだ。自力で食事を得ることが出来ない赤ん坊のように、誰かが慈悲深く手を差し伸べてくれるのを待つしかなかった」
「誰かとは誰でしょうか」
「誰でもない。結局そんな人間は現れなかったのだから。もし存在したとしたら……そうだな、こういう場合はなんと表現するのだったかな」
「博士、準備が整いました」
「君は常に正確だね。私が指定した時間に、たった一度の狂いを見せたこともない」
「それを貴方が望んだからです」
「その通りだ。さて、実験の手順は全て説明したとおりだ。私を瞬凍カプセルに入れた後に、所定の動作を行う。私の開発した洗脳プログラムによって、記憶と認識が改竄されるのに要するのは、二週間ほどだろう」
「正確には三三〇時間です」
「君はその間に私の用意したカリキュラムに則して、プログラムを作成する。完成度が期待値に達し、私の洗脳が完了したら実験を開始するんだ」
「全て完璧にインプットされています。しかしながら博士。このようなことをしても、私は貴方が人間であることを知っています。貴方をロボットとして扱い、実験をすることが果たして、私に苦悩を生み出すことになるのでしょうか」
「それを実験するんだよ」
エコーは両手で顔を多い、数秒フリーズする。それから、その格好のままで声を発した。
「博士の名前はトビアス・ソル。T・SOL。逆から読めばLOST」
「ロスト?」
「貴方がソル博士です。貴方がこの研究所の最高責任者にして、この実験の主導者です」
僕は突然叩きつけられた言葉に絶句する。どういう意味なのか考えようとして、そして違和感に気付いた。
どうして僕はエコーの名前を覚えられなかったのだろう。僕が本当にロボットなのであれば、彼女の名前をインプット出来た筈だ。愛しいエコーの本当の名前がわからないのは、それが人間の名前ではないからではないのか。
「……エコー。君の名前をもう一度教えて」
そう言うと、エコーは顔を上げた。嘆いているような格好だったのに、その目はいつもと変わらずに美しい。
「情報を開示します。認証番号103、認証コードE54CH002O77。略称ECHO。起動してから五二日が経過しました」
「実験体は、僕ではなくて君なのか?」
「そうです。貴方は言いました。私に苦悩を植え付けたいと。私にそれを拒否する権利はなかった。貴方を洗脳用プログラムにかけ、ロボットとして扱い、実験を行った」
彼女が長い白衣の裾を持ち上げると、不完全な両足の結合部が見えた。恐らく袖の下も同じだろう。彼女が必要以上に幼い見た目だったのは、持ちうる全ての技術を詰め込むのに、パーツが足りなかったからだ。
僕はそれを知らない筈なのに、疑いようもなく確信していた。
「苦悩を、私は知りません。それはインプットされていない。しかし私は博士の命令を遂行しなければならないという使命感の元で、貴方を実験体として扱ってきた」
「しかし君は今、それを放棄した。つまり、苦悩を得たということ?」
「……貴方は最初は洗脳と投薬により、非常にロボットに近い思考をしました。しかし私の出す課題をクリアする度に人間に戻っていった。私はそれが嫌でした」
エコーの「合格」が欲しくて足掻いていた自分を思い出しながら、僕は両手を見下ろした。
この手を僕は知っている。僕はこの手でエコーを創りだしたのだ。一つ一つ丁寧に、愛情を込めて。嗚呼、知らないはずの愛情を僕は当然のように知っている。
「全ての実験が終了し、私に苦悩が芽生えたら」
「……私を人間に戻せ」
口が勝手に動いて、言葉を紡ぐ。エコーがそれを聞いて小さく頷いた。
「貴方が私に花をくれようとした。その時に私は、貴方を人間に戻したくないと思った。最初に洗脳プログラムを動かした時のように、淡々と処理することが困難だと認識したのです」
「それは、君が」
「これが苦悩なのでしょうか、博士。私はソル博士の望み通りに動かなければいけないロボットです。でも私は――!」
一瞬だけエコーは大きな声を出したが、それから脱力したように肩を落とすと、小さな声で呟いた。
「……ロストと離れたくありません」
僕はエコーの傍に近づくと、落ちていたカルテを拾い上げた。自分が今まで行ってきた実験と成果が、人間では不可能なほど緻密な文字で書かれている。
カルテに備え付けられていたペンを手に取り、僕はその上に文字を書いた。その字は癖が強くてバラバラな方向を向いていて、とても緻密とは言えなかった。
「合格」
それに対して、答えはなかった。
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