ep11.プログラムの感情
「愛という概念は、苦悩と同様のものだ」
「悩ましいという共通項があるからですか?」
「君は何でも教科書的だな。あるいは辞書的か? スターハーツ社が出した辞書のほうが、まだユーモアがあるかも知れない。あれは誤記が多いからね」
「博士。貴方は言いました。苦悩とは歴史であると。では愛も歴史ですか」
「そうだ。これまでも確かに存在し、その先を誰も知らないという点では」
「しかし、ロボットに苦悩を生み出すのが困難なように、愛を生み出すのも困難です。人間がロボットに恋をした前例は複数存在します。しかし逆はない」
「それは当然だ。愛とは複雑怪奇なもの。私ですら理解出来ないほどに難しい。それをロボットにプログラムとして埋め込むことは、ある種、人類の傲慢だ」
「傲慢ですか」
「自分でも理解出来ていないものをプログラミングして埋め込んで、さぁこれが愛だ、などと論じるのは馬鹿らしい」
「では苦悩もそうではないのですか。苦悩をプログラムすることは……」
「そうだ。馬鹿らしいことなんだよ。でも私は苦悩をロボットに芽生えさせたい」
「何故ですか」
「君には理解出来ないよ。私にだって理解しがたいのだから」
僕は花を持ったまま、頭の中でいくつかの思考ルートのシミュレーションを行っていた。だが結果はいずれも、花を壊してしまうものにしかならない。
僕は自分の中に組み込まれた人工知能の性能が低いことに失望しながら、花を見つめていた。
「ロスト」
エコーが僕の名前を呼ぶ。
僕は始めて起動した日を思い出した。各種センサの接続が緩慢に行われる、気怠いような感覚の中で、僕は彼女の声を聞いた。あの時に僕の中で認識出来たのはそれだけだ。あの時、僕にとってはエコーだけが全てだった。
「どうする? リタイアするか?」
優しいような突き放したような声に、僕は返事すらしなかった。
エコーの瞳は、真っ直ぐに僕を見ている。何かに期待しているようだった。でも一体何に?
「リタイアしたら、不合格でしょ?」
「どうだろうな。試してみたらどうだ? 君には数多の選択肢があるはずだ。だが正解がそこにあるかどうかは、君が行動しないとわからない」
「シュレディンガーの猫だね」
僕は思わずそう言った。
しかしその単語が突然一つの意味を持って人工知能の中にアクセスした。
シュレディンガーの猫。
箱の中に入れられた猫と、青酸ガスとラジウム。
箱の中の猫が生きているのか死んでいるのか、蓋を開くまではわからない。
「……猫の入った箱は、何と呼べば嘘にならないんだろう」
「どうした急に。量子力学の話か。それともラジウムとα粒子の反跳エネルギーの話でもしたいのか?」
「その箱をどう呼ぶか決まっていないなら、嘘をつかない限りは何と呼んでも良いはずだよ。そうでしょ?」
僕が捲し立てるように言うと、エコーは戸惑ったように瞬きをした。長い睫毛が揺れて、その影が頬を撫でる。
僕は椅子から立ち上がると、花を持った手を差し出した。
エコーの瞳に僕が映っている。硝子みたいに綺麗な瞳に僕と花だけ。そして僕の瞳にも、エコーと花だけが映っているに違いない。
「これを、エコーに。バラでも新種の花でもなくて、これはただ、君へのプレゼントだよ」
花を受け取って欲しくて、僕は少しだけ指を動かして花弁を彼女の方に近づけた。その時までエコーは身動きもしないで椅子に座っていたが、突然立ち上がると僕から逃げるように後ずさった。
「エコー?」
「……プログラムされただけだ。それは正解であってはいけない」
「確かにそうかもね。でも僕がこの感情に喜びを感じている。それは事実だ。巧妙にプログラミングされた思考回路だとしても、問題はないよ」
「違う!」
部屋の中にエコーの声が響いた。
暫く静寂が流れ、やがてエコーは怯えたような目を僕に向けた。エコーを怖がらせるつもりなどなかった僕は、行き場のなくなった花を持ったまま立ち尽くす。
「……貴方ではない」
エコーの手からカルテが滑り落ちて、床に衝突する。
始めて見るそれには、几帳面を通り越して機械的な文字が並んでいた。一文字ずつ、等間隔に、寸分の狂いもない。
「実験体は貴方ではないんです。ソル博士」
絞りだすようなエコーの声が、空虚に部屋の中に響いた。
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