ep10.花と概念と破壊
「君は全ての不測事態に対して、的確に処理をすべきだ」
「この実験では、それが多く訪れるとお考えでしょうか」
「実験における複数の条件は、固定化しないことを前提としている。期待値としきい値は存在するが、それは全て確定的ではなく確率的だ」
「不測事態を処理するとは、具体的にはどうすれば良いでしょうか。排除? それとも維持?」
「どちらでもいい。どちらが相応しいか考える能力が君にはある」
「困ります。責任者は貴方です」
「私はつくづくうんざりしているんだよ。全てがお仕着せ通りに進み、誰もが「自主的」という名の教科書を捲って放つ「意見」とやらに」
「だからといって、私でその打破を目論まないで下さい」
「君だからこそだ。他の連中にこんなことを期待するものか。君は非常に優秀で従順だ。だからこそ、私は君を選んだ」
「それは光栄です。貴方はもっと有能な助手を手に入れるべきだ」
「君が私のすることに疑問を抱いていることは知っている。しかしそれもまた、私の望んだことだ」
「この疑問すらも、博士にとっては実験の条件というわけですか」
「その条件が大事だ。他の、何よりも」
僕の目の前に置かれたグラスには、半分ほど水が注がれている。そして一輪の赤い花がその中に入っていた。
僕はその花弁や茎を観察した後、花の向こうに座るエコーに視線を合わせる。
「バラだね」
「その通り。少し品種改良はしているが、概ねバラだ」
「概ね?」
「まだそれをバラとして、植物管理センターに届け出を出していない」
「なるほど。じゃあ概ねバラだね」
僕はその花の茎に生えそろった刺を見る。小さく鋭利な刺は、柔らかな紙ぐらいなら易易と引き裂いてしまいそうだった。エコーぐらいの幼い少女の肌も例外ではなさそうだ。
「これがどうしたの?」
「これをバラではないようにしろ。そう言ったら君はどうする?」
「バラでないように?」
僕は求められたことがわからなかった。処理エラー。処理エラー。処理エラー。僕の頭の中でそんな単語が飛び交う。
エコーは僕の困惑を見透かしたように微笑を零すと、白い指を伸ばして花弁に触れた。真っ赤な薄い花びらはエコーの指に吸い付くように絡まった。
「君はメンテナンスの「夢」で、私が大事だから撃てなかったと言った。それでは私とは関係のない、この花を破壊するのは容易いだろう」
「なるほど。これをバラだと認識出来ないように破壊しろと言いたいんだね」
つまりバラのイデアから分離した存在にしてしまえば良いわけだ。刺を抜いても良いし、花弁を燃やしても良い。全てを灰にして水に溶かし、それを飲み込んでしまうのも良いかもしれない。
「出来るか?」
「簡単なことだよ」
エコーの望みを叶えたい。あの夢以来、僕の実験に対する欲求は変化した。合格を貰うのが目的ではなく、エコーを喜ばせたいと考えるようになった。
僕にとって、彼女のために何かをすることは全く苦ではなかったし、そこには損得勘定も存在しない。あの夢がバグの副産物だったにせよ、今の僕にはとてもありがたい出来事となっていた。
エコーのために僕は花に手をかける。しかしその時、エコーが制止をかけた。
「一つだけ伝えておく。これは目的達成条件には含まれない」
「何?」
「その花を育てたのは私だ。それだけは伝えておく」
花を握りつぶそうとした僕の手が、それを聞いて止まった。
エコーの小さな手でこの花が作られた。つまりこの花は彼女に帰属する。
「目的達成条件に含まれない……んだよね?」
「そうだ。別に君の行動を制限するものではない」
ということは、僕がこの花をどうしようとも彼女はそれに異を唱えないということだ。僕はそう理解しながらも、花を壊すことが出来なかった。
「どうした? 早く私の要求に応じろ」
エコーは何処か楽しそうに僕を急かす。
僕は頭の中に思い描いていた全ての手段を、しかし実行に移すことは出来なかった。この花を汚して壊すことが、僕にはどうしても「正解」だとは思えなかった。
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