ep5.イデアに埋もれる

「認識とは何か。例えば林檎を林檎と認識する時に、そこに何があるのだろうか」

「総合的判断です。人間の場合は、それをイデアと言います。林檎を林檎たらしめる要素を学び、それを個体に適用する」

「そう、その通りだ。林檎を林檎であると認識出来た時、そこには奇跡が生まれるのだよ」

「相変わらず、貴方の言葉は意味不明です」

「良いかね。林檎を認識するには、学びを得なければならないのだよ。そうしなければ、いつまで経っても、「赤くて丸いモノ」から脱却は出来ない」

「それを得るのが奇跡だと?」

「アダムとイブの話は知っているだろう。彼らは最初知性はなかった。神々から禁じられた「エデンの園に生えている赤い果実」を食べることで智慧を得た。それまでは彼らにとって、林檎とはただの「食べてはいけないもの」だったのだよ」

「食べたことで、それが林檎だと認識したとでも?」

「まぁ林檎という名前を、彼らがいつ得たかは別として……。彼らにとってなんでもない物体だったものが意味を持つに至ったのだと考えると、そこには奇跡があると思わないかな?」

「思いません」

「林檎だと例えが悪いな。赤ん坊が、自分を覗きこむ大勢の大人達の中から、愛すべき肉親を選ぶ時のことを想像したまえ。それは間違いなく奇跡だ。人間という一個体が、赤ん坊によって親だと認識される。無垢な赤ん坊が得たイデアは、奇跡に等しいのだよ」

「それが苦悩に関係在るとは思いません」

「君の合理性にも困ったものだね。その奇跡を実験体が持てるのであれば、苦悩にもまた一歩近づけるのだよ」



 揺蕩う。たゆたう。

 僕は深い思考の中で、水に抱かれるような感覚を味わっていた。これはエコーが説明してくれたところの「夢」だ。記憶領域の一部、フラッシュメモリがクリアされる際に起こる現象だという。

 最初は戸惑ったものの、今やすっかり慣れてしまった。夢を見た翌日は、メモリがクリアされるためか、非常に目覚めが良い。見ない日は残存メモリが邪魔して、うまく学習が出来ない。

 夢の中で、僕は水のようなもので満たされた巨大なプールの中に、大の字に寝転がり、天井を見上げていた。これも毎回のことだ。


開示せよオープン


 天井に照らしだされたのは、フラッシュメモリの中にあるものばかりだ。今日は、ずっと眺めていた画集の一枚一枚が敷き詰められている。絵はまるで呼吸しているかのように、大きくなったり小さくなったりを繰り返して、掴みどころがない。

 僕はゆっくりとそれらを見回す。何も思うことなどない。ただ様々な絵が僕の視界を埋めているだけだ。

 消してしまおう、と思って僕は口を開く。「消去せよデリート」と言えば、メモリの中身は綺麗に消去される。

 しかし、それを寸前に思いとどまらせたのは、一枚の絵画だった。僕の目は、まるで吸い寄せられたかのように、その絵を見つけ出した。青い空を背景にして、椅子に一人の人間が座っている。すらりとした体躯だが、成人骨格ではない。スカートの裾は大きく広がっていて、椅子からはみ出していた。ブラウスの胸元と袖口にはレースがあしらわれて、腰は黒いコルセットで締め上げている。

 僕は何度も見たその絵を覚えていた。他の絵を見た時と同じように、何も感じなかったはずの絵が、他の絵を食いつぶすように巨大化していく。

 金色の髪は長く伸ばされ、青いリボンをカチューシャのように巻いている。凛々しい茶色い瞳と、真一文字に結ばれた唇が、今にも動き出しそうだった。

 僕はそれを消去しようとして、口を開く。だがその口の中に水が入り込んできて、言葉を封じ込めた。その代わりだとでも言うように、天井の絵が微笑む。


「答えは出たか、ロスト」


 僕はベッドの上に起き上がる。フラッシュメモリの消去が正常に行われなかったために、視界が細かく揺れていた。

 視線を上げると、僕の部屋の出入り口に立っているエコーが目に入った。それを見た途端に、頭の中に散らばっていたデータが組み立てられて、一つの形を形成する。


「おはよう、エコー」

「おはよう。答えが出ないなら、もう一度画集を見るか?」

「ねぇ、エコー。『或る少女の絵』は、エコーにそっくりだね」


 金色の前髪の奥で、茶色い目が笑みの形を作る。

 少女の身体では長すぎる袖から、指先だけ出したエコーは、笑いを堪えるかのようにそれを口元に当てた。


「合格」

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