ep3.最善の否定
「人間の苦悩をロボットが得るには、一つの重要な工程が必要だと考えます」
「聞こうじゃないか。この実験において君の意見は非常に重要なものとなる」
「普段から重んじていただけると、ありがたいのですが」
「それは無理だ」
「苦悩とは成功や幸福の中には生じないと考えます。では何が苦悩を生み出すか。それは否定と挫折です」
「挫折はその通りだな。否定とは?」
「自分が「これは真実絶対である」と思っているものを否定されることです。そうすることで思考の足場を失い、途方に暮れる。それが苦悩の引き金ではないでしょうか」
「なるほど。良い意見だ」
「参考にしていただけますか?」
「勿論。実験体にはあらゆる方法で否定を与えよう。何、気にすることはない。それで壊れたとしても、実験のうちだ。実験体が耐え切れないのであれば、早々に破棄することも重要だからな」
「一つ良いでしょうか」
「なんだね」
「実験体を壊すような真似は、極力避けていただけないでしょうか」
「何故?」
「……それが正解だと思うからです」
与えられた本は非常に分厚くて、従って重かった。僕の腕に伸し掛かる重さから、優に一キログラムは超えていると推測出来る。
「ねぇ、エコー。電子書籍じゃないのは感心しないよ」
「君に感心されなくても、私は一向に構わない。本を開け」
僕は言われた通りに本を開く。すると、赤や青や黄色といった、様々な色の暴力が僕に襲いかかった。なんだろう、これは。絵本を見た時よりも遥かに鮮烈で、無秩序で、救い難い。頭の中の回路は、その色の選別に戸惑ったのだろう。僕に鈍痛のシグナルで警告する。
「酷い色だ」
「理由を述べろ」
僕は一度、本から目を逸らした。エコーが身にまとっている長すぎる白衣を見て、視覚情報をリセットする。
もう一度、本に目を落とす。白い紙に印刷されたのは、恐らく絵だと思われた。でもそれは、絵本に比べると全く意味の無いものに見えた。赤い絵の具をぶちまけた上に、黄色い線と青い線が、喧嘩するように縦横無尽に走っている。
「意味がない。この絵に意味はない」
「それは実に機械的回答だ」
エコーはカルテに文字を書き込みながら、静かに言った。
「人間が絵画を見た時に抱く感情を、君にはトレースしてもらう」
「つまり?」
「一枚ずつ見て、感想を述べろ。内容も文字数も問わない」
僕はその指示にうんざりしながらも、紙を捲った。僕には実験に対してコメントすることは許可されているが、拒否を述べたところで受理されることはない。それならば口を開くエネルギーを消費するよりも、命令を遂行することに割り当てたほうが賢いと言える。
僕は常に最善を選択するべきで、それは使命でも命令でもなく、元々備わった機能だと信じていた。それはエコーにも話したことはない。僕が常に最善を選んでいると知ったら、エコーは驚くだろう。
「内容は問わないんだよね?」
「そうだ」
「否定的な表現と肯定的な表現は、どちらがいいだろう」
「それは、君の思考回路で生み出すべきだ。私の知ったことではない」
エコーは素っ気なく返す。ならば、と僕は背筋を伸ばした。
最善を尽くしてやろう。僕の中にある知識や語彙を駆使して、最も賢い答えを並べる。僕にとっては造作もないことだ。
「この作品は色使いが特殊だね。幅広い筆を使っている」
「チェック。次は」
「描かれている馬の後ろ足と前足のバランスから考察するに、躍動感が強く表現されている」
「チェック。続けて」
その調子で僕は全ての絵の感想を述べた。考えうる限り、僕は最善の答えを用意出来た。前にエコーは僕に対して「絵画の知識がインプットされていない」なんて言ったが、そんなものが無くても問題がないことを示せたと思っていた。
エコーは淡々と僕の感想を処理していたが、最後の感想を書き留めると、疲れたような溜息をついて顔を上げる。その表情は、僕が期待をした賞賛も労いもなく、ただ呆れ果てたと言わんばかりの倦怠感が満ちていた。
「不合格」
「どうして!」
僕は椅子から立ち上がって、抗議をした。
不合格なんてとんでもない。僕は全ての絵の感想を述べろと言われて、一枚残らず処理したはずだ。それを不合格と言うなら、提示条件が悪いのだ。
「君は全ての絵にコメントをつけた。だから不合格だ」
「訳がわからない」
「ロスト」
エコーは冷たい声で、僕の名前を呼んだ。僕は途端に落ち着きを失ってしまって、再び椅子に腰を下ろす。
白い部屋の中に投げ出された絵が、赤いページを晒していた。僕が立ち上がった拍子に落ちてしまったのだろう。だが僕はそれを拾うことも出来ず、エコーの視線の先で小さくなっていた。
「君は、「最善を尽くした」と思っているのだろう? 全ての命令に対して、最善を尽くす能力があると」
「知っていたの?」
エコーは一度頷いたあと、気の毒そうに僕の目を覗きこんだ。
「残念なことを君に告げなければいけない。ロスト、君はこの実験において、何一つ最善を示せてはいない。それどころか、最悪だ」
僕は当惑して、視線を膝の上に落とした。
最善を尽くせていない。最悪。不合格。色々な言葉が僕の体内を巡っていた。
「僕は……実験に相応しくないの?」
「明日、もう一度チャンスを与える」
エコーは小さい身体を動かして椅子から降りると、床に落ちたままの本を持ち上げた。僕の膝の上に、投げ出すようにその本を置いて、今度はやや友好的な笑みを見せた。
「これを読んで学習するんだな。少なくとも、不合格になりたくないのであれば」
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