ep2.咀嚼されうる問い
「苦悩が生まれる原因を君は知っているか?」
「精神論ですか? それとも脳科学でしょうか?」
「とんでもない、これは歴史だよ」
「苦悩と歴史に何の関係があるのでしょうか。時の施政者が抱えてきた長年のテーマの話でも?」
「施政者だと? 私はそんな俗物共の話などしていないよ。彼らが抱えた盛者必衰の悩みなど、苦悩の一部でしかない」
「それでは歴史の何が苦悩だと言うのですか?」
「君はまだわかっていない。文明、芸術、音楽、言葉。それらが生まれるよりずっと前から、人々の感情というものは存在していたのだよ。歴史のどこかで誰かがそれに「悩み」という冠を被せたに過ぎない」
「嗚呼、なるほど。博士は感情の原始的なことをお話しようとしている。つまり、食欲や性欲などの、考えるまでもない人々の行動原理に感情が逼迫していると」
「その通り! 苦悩をプログラミング出来なかった理由は、そこにあるのだよ。人間たちが当然と思う三大欲求を、ロボットは携えていないのだからね」
「だから貴方は、今回の実験に「食事」を入れたわけですね」
「そう。食事というのは全ての感覚を使うが、それでいて意識して行われるものではない。苦悩を仕込む材料としては有効だ」
「ですが、貴方の計画では……」
「いいかね。食事をしているから苦悩が得られるわけではないのだ。実験体が食事を生活の一部として認識していること。それが私の研究においては非常に仔細な、しかし大事な一つの楔となるだろう」
エコーがナイフとフォークを動かすのを見ながら、僕はそれを真似して肉塊を切り刻む。最初は上手に切れなかったが、慣れてくると気楽なもので、僕は次々と肉を細かくしていった。
目覚めた日から、僕には食事の義務があった。エコーは新しい種類の食べ物が出てくる時にだけ、僕にその食べ方を教えてくれるために同席する。今日のステーキは僕にとって、データベースに登録はされていても、実際に食べるのは初めての代物だった。
「ロスト、肉は食べる分だけ切るんだ」
エコーは僕の手元を見て、首を左右に振った。エコーの肉はまだ半分以上が肉塊のままだ。
「全部食べるよ」
「そうじゃない。その時食べる分だけを切るんだ」
「どちらでも一緒だと思う」
「まだ勘違いしているようだな、ロスト。私は君にステーキの食べ方を教えるために、此処にいるんだ。君とマナーの是非について話すつもりはない」
冷たい口調で言い切られる。僕は言い返したかったが、何を話しても無駄な気がして黙りこんだ。
ステーキの味付けは、良いのか悪いのかわからない。僕の口の中にある舌に味覚はあるようだが、そのセンサーで察知したものの是非を分析することが出来なかった。よくわからないものを、必要だからと口の中にいれる。その行動は非常に退屈だった。
ロボットに食事が必要だとは、僕は思わない。意外なことにエコーもそれについては同意見のようだった。「博士の命令だから」と言いながら食事をしていたのは、確か僕が目覚めて三日目のことだ。あれは確かトマトソースのパスタだった。
「ロスト」
ナプキンで口元を拭いながらエコーが口を開く。僕は口の中にある人参を歯で噛み砕いて飲み込んだ。
「君は食事は好きか?」
「好きじゃない。面倒くさい」
「だろうな。ではやめたいと思うか?」
僕は答えに困って首を傾げる。辞めたいと言ったところで、辞めさせてくれるとは思わない。例え僕が食事を拒絶して口を閉ざしたとしても、エコーは僕の下顎の関節ボルトを緩めて、開いた唇に食事を流し込むだろう。
本日の料理はエビとホタテの炒めもの。ナスの揚げ物。ホウレンソウのスープ。それらを全てミキサーで混ぜあわせたものです。さぁ召し上げれ。
「質問の意図がわからない。僕が辞めたいと言ったら、エコーはどうするの?」
「別にどうもしない。聞いただけだ」
その返事は予想外だった。
質問と答えと行動は一つの塊だと僕は認識していた。僕が是と言おうとも非と言おうとも、何かしらの行動はあってしかるべきだ。それを何もしないとは、正気とは思えなかった。
「じゃあなんでそんな質問をするの?」
僕の質問に対して、エコーの答えは非常にシンプルだった。
「君を悩ませるためだ」
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