その7-2 英雄再び

一時間後。

ヴァイオリン城、女王の私室――

 

 外から差し込む朝日の光は今日も穏やかで、鳥の囀りが微かに聞こえてくる。

 時刻はまだ六時前。朝の澄んだ空気が漂う廊下に人の気配はない。

 音を立てずにそっと扉を開けて、廊下の様子を窺ったマーヤは、よし――と、一人頷くと素早く部屋から出て後ろ手に扉を閉めた。


 現れた蒼き女王のその姿は、普段着ている朝議用の正装とは異なる旅装束。

 即ち、十年前ヴィオラ村を旅立った時と同じ、麻でできた白象牙色ホワイトアイボリーの長衣と下衣スカート

 革のブーツに浅葱色のコーディガン。その上から黒灰色ダークグレーのフード付き外套を羽織っていた。

 

 ヴィオラ村はチェロ村よりもさらに高い位置ある高原の村で、四季を通して気温が低く涼しい場所だった。

 秋口には既に積雪が生じる年もあるほどだ。故に防寒のしっかりした服装が一般である。

 故に長衣は手首までしっかり覆っているものだし、下衣も厚手のもので脛まである長目のものだ。

 肩下までの美しい黒髪も今は邪魔にならぬように、一本のおさげにして束ねている。

 乾季真っ最中のこのヴァイオリンでは少しばかり暑いが、コントラバス遺跡もヴィオラ村と同じく高所の盆地に位置する遺跡なので問題はないだろう。

 

 そして右の腰には左利きレフトハンディング用に彼女専用で造られた蒼い鞘に納められ、聖剣グランディオーソの柄が朝日を鈍く反射している。

 じゃあ騎士団が出発するまでの間は私が預かっておくから――と、昨日封印の間に赴いた際、呆れるイシダ宰相を余所に強引に運び出していたものだ。

 ちょっと子供じみた反抗で言ってみたものであったが結果的にそれが幸いし、また取りに行く二度手間が省けた。


 携帯食料、その他も抜かりはない。肩にかけたやや大きめの布鞄を今一度覗き込み、マーヤは気合を入れる。

 後は昨夜兄から教えてもらった、外へ通じる抜け穴より城下町へ出るのみ。

 コントラバス遺跡までは、徒歩ならで二日でいけるはずだ――


「……いってきます」

「どちらへですか?」


 ごめんね、タイガ君――

 そう心の中で祈りながら静かに呟いたマーヤは、あろうはずがない返事が聞こえて来て吃驚しながら顔をあげる。

 見えたのは腕を組み、彼女の進路を塞ぐように佇む若き宰相の姿。

 いつの間にそこに――マーヤは鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くしてしまった。


「タ、タイガ君?!」

「おはようございます女王。朝議まではまだ時間がございますが、朝食もとらずにどちらへ行かれるおつもりですか?」

「あーその……ちょっと朝の散歩に――」

「随分と遠くまで散歩に行くおつもりのようで」

「……もしかして、バレバレ?」

「私が貴女のお考えに気づかないとでもお思いで?」


 イシダ宰相は片眉を吊り上げ、首を傾げてみせる。

 彼とて伊達で何年も蒼き女王に仕えていたわけではない。

 冒険大好きで好奇心旺盛なかの女王が、自分が諫めた程度で諦めるわけがないことなど、当然想定の範囲内であったのだ。


 我ながら本当に忠義溢れる臣下を持ってしまった。

 自分で抜擢した人物とはいえ、まったくもって彼の才気には脱帽する。

 だがここで引き下がるわけにはいかないのだ――

 パン――と拝むようにして手を合わせ、マーヤはイシダ宰相に頭を下げる。


「お願いタイガ君。どうか見逃してもらえないかしら。用事が終わったらすぐ戻ってくるから」

「なりません。ご自分のお立場をよくお考え下さいと申したはずでしょう?」

「……だって約束したんだもん」

「本日も施政が山積みなのです。決裁してもらわねばならない書類もたくさんございます。認めることはできません」


 まったくこれではどちらが年長者かわからない。

 まだ朝早くで僥倖だった。彼女のこんな姿を臣下に見せるわけにはいかない。

 反抗するように口を尖らせたマーヤを見て肩を落とすと、イシダ宰相はまるで母親が娘を諭すようにして説いていく。


「どうしても駄目?」

「くどいですぞ女王。ダメなものはダメです」

「……むー」


 駄目だこりゃ。これ以上は何を言っても無駄だろう。それに理は確かに彼にあるし。

 話し合いによる平和的解決は無理だ。

 と、なればそう。こうなればやる事は一つしかないわね――

 やにわに拝んでいた手を下ろし、マーヤはやれやれと諦観の表情と共に溜息を吐く。


「……そう、わかったわタイガ君」

「おお、それでは――」


 やっと納得してくれたか――

 聞こえてきた女王のその穏やかな声に、イシダ宰相は思わず笑みを零す。

 だがしかし。



「うん、じゃあから」



 刹那、マーヤの表情が諦観から、悪戯を企む少女の笑みに変わった事に気づき、彼が浮かべた笑顔は即座に凍り付いた。


 えっ!?――と

 若き宰相が吃驚して言葉を詰まらせる最中、蒼き女王は一転素早く踵を返すと、脱兎の如く廊下を走り出す。

 あまりに唐突な出来事に唖然としていたイシダ宰相は、だがすぐに我にかえると、大慌てで彼女を追って走り出した。


「ごめんっ! ちょっとそこどいてっ!」


 と、朗らかに談笑しながらこちらに歩いてくる侍女達に告げ、だが間に合わないと判断したマーヤは、目を白黒させる彼女達の頭上を軽やかに飛び越える。

 見事に着地したマーヤは外套を靡かせながら再び全力疾走を開始した。


「お待ちを女王! 何を考えてらっしゃるのです!」

 

 今のは女王様? 何故あのような恰好を……一体何処へ行くつもりだろう――と、状況が掴めず呆然とする侍女達の背後から、今度は息を切らせてやってきたイシダ宰相が大声で叫ぶ。

 何とも健気な忠臣の諌言。だが今のマーヤがそれを聞き入れるはずもなく――

 

「ごめんねタイガ君! じゃーねー!」


 侍女達の間を縫ってようやく姿を現した若き宰相を一瞬振り返り、蒼き女王は笑顔でそう返答すると、あっという間に廊下を走り抜け、下へと続く階段に身を躍らせたのであった。


「お待ちを女王! どうか懸命なるご判断を!」

「もう、しつこいなあ」


 落ちそうになる程手摺から身を乗り出して、階下へ叫ぶイシダ宰相に気づき、マーヤは苦笑を浮かべた。


「この城から出られるわけがないでしょう! 無駄な抵抗はお止めください!」


 息も絶え絶えに若き宰相は説得を続ける。

 元々運動が得意ではないのに、彼女に追いつこうと全力でここまで走って来ていたのだ。

 もっとも、彼が階段まで到達した頃には、既にマーヤは三階下まで駆け下りていたが。


「どうかしら。そんなのやってみなくちゃ、わかんないでしょ?」

「やらなくて結構! そろそろ朝議も始まります! 部屋にお戻りを――」

「やーだ!」

 

 目を輝かせ、満面の笑みを浮かべながら、マーヤは階段を降りるスピードをさらに加速させた。


「あああ、女王っ!」


 うぬぬ――と、喉奥で唸りイシダ宰相は悔しそうに拳を握りしめる。

 迂闊だった。女王の体面を考慮して、一人で止めに来たのが仇になってしまった。

 まさか彼女がここまで子供じみた反抗に出るとは、このタイガ=イシダの眼をもってしても。

 まったく王も女王も、この国の王家の御方々は何をお考えか!

 ……嗚呼、訂正しよう。そういえば母国管国も似たようなものだった。

 

 だが、もうこうなっては体面など気にしている場合ではない。

 何が何でも止めねば! 彼女の身に何かあってからでは遅いのだ――


 

「誰か女王を止めよ! 決して彼女を城から出してはならない。緊急配備だ! 警備隊も騎士団も総動員せよ!」 



 その日、彼は二十五年間の生涯で最も大きな声を張り上げた。

 自分でもよくこれだけの声が出せたものだと感心するほどの、それこそ城中に響き渡るほどの魂の叫び。

 唖然としていた侍女達は、水呑鳥の玩具の如くコクコクと頷いて、大慌てで駆けてゆく。


 かくして、長閑な朝の蒼き城は、やにわに騒然となった。

 女王と忠臣達の追いかけっこが期せずして始まったのである。


「こりゃタイガ君、本気にさせちゃったかな」


 一気に六段跳びで階段を降りきったマーヤは、城の二階に到達すると同時に上から降って来た、イシダ宰相の雷の絶叫に思わず身を竦ませる。


 やれやれ、まったく忠誠心の厚い、良い臣下を持って私は幸せだ。

 でももう止まれない。この胸の高まりは押さえることはできない――

 ちらりと階上を一瞥しペロリと悪戯っぽく舌を出した後、彼女は廊下の奥を見据えた。


 聞こえてきたイシダ宰相の怒号に、近くを歩いていた騎士や兵士、それに城の関係者達も、何事かと周囲を見回している。

 だが未だ当惑しているようだ。

 すれ違った城の者達誰もが、不思議そうに二度見する中、チャンスとばかりに彼等の間をすり抜けて、マーヤは一気呵成に二階廊下を駆けてゆく。

 目指すは一階ホール。まずは外へ出なくては話にならない。


 と――

 

「女王! 待って……お願い……します!」


 裏返った悲鳴のようなイシダ宰相の声に、マーヤはちらりと背後を振り返る。

 流石に体力の限界のようだ。おそらく全力で階段を駆け下りてきたのだろう。

 生まれたての小鹿のように膝をがくがくさせながらも、彼はこちらへと手を伸ばし、懸命に自分を追ってきている。

 タイガ君頑張るなあ。無理すると身体壊すわよ――

 またもや苦笑しながら、しかし情け容赦なくマーヤは疾走し彼との差を開けていった。

 

 だがしかし。

 

「良いところに! サ、サワダ殿……スギハラ殿。どうか……どうか女王を止めてくださいっ!」


 刹那聞こえてきた、若き宰相の最後の望みを託すようなその悲鳴に、マーヤはぎょっと目を見開く。

 はたして――


「ん?」

「なんだ?」


 談笑しつつ前方から歩いてきていたサワダとスギハラは、喉を締められたガチョウのような声に反応し歩みを止めた。

 そして迫ってくる旅装束の蒼き女王の姿に気づくや否や、訝し気に眉を顰めお互いを見合う。

 

「何事だ一体?」

「よくわからないが……止めた方が良さそうだ」


 あの冷静な宰相が血相を変えて、息も絶え絶え女王を追っているのだ。

 そして女王のあの出で立ち。何となくではあるが、どちらに分があるかは想像がつく――

 瞬時に悟った空気の読める若き騎士の言葉に、スギハラも渋い顔を浮かべながらも了承していた。

 

 致し方なし――と、二人は身構えマーヤを出迎える。


「げげっ! サワダ君、スギハラ君。お願い見逃して!」

「申し訳ありません、宰相命令ですので」

「何それ酷いっ! 宰相と女王の命令、どっちが上だと思ってるのよ?」

「されば見逃して、とは何故に?」

「うっ、それは――」

「御免。どうかお許しを!」


 やはりこれは止めた方がよさそうだ。

 確信した二人は、マーヤに向かって手を伸ばした。

 マーヤは思わず表情を強張らせる。


 これはまずいのと出会ってしまった。

 噂の三銃士のうちの二人が相手とは厄介だ。


 けどこうなればやるだけやってやろうじゃない!

 自分だって英雄と呼ばれた一人だ。

 この十年、政治政治の毎日だったが、密かに鍛錬だけは続けてきた。



 ……嗚呼、そうだ。



 これよこれよ! これなんだ!

 この気持ちだ! このどうしようもない程の、恋慕にも似たこの高揚感!

 サヤマ邸でもそうだったけれど、この高鳴る胸の鼓動を偽る事など私には無理なんだ!


 いくよサワダ君、タイガ君!

 止めれるものなら止めてみなさい!――


 マーヤは大きく息を吸うと、獣のように姿勢を低くして二人へと吶喊する。


 待ち構える蒼き騎士と緑銀の警備隊を真っ直ぐに見据え。

 そして前へと踏み出す足を決して止めず。

 その時、蒼き女王が浮かべたその表情は――

 

 プレゼントの中身を想像し、胸躍らせる子供のような無邪気な笑みだった。

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