その6-3 グリコのおまけ

同時刻。

チェロ村、馬小屋――


 村で共有し、主に荷運びに利用している馬がいた。いずれもやや年齢の経った牝馬ばかりではあるが。

 元々は二頭だったが、先のコル・レーニョ盗賊団との戦いで鹵獲したものを加え、今は四頭の馬が飼育されていた。

 

 その馬小屋の入口に、深夜にも拘わらず人影が現れる。

 魔法使いの旅装束に身を包んだその人物は、頼りない足取りでふらふらと小屋の入口に寄りかかると、ヒューヒューと咽喉を鳴らしながら呼吸を整えた。

 そしてややもって小屋の中を覗き込み、左手に持っていた樫の杖にもたれるようにして、入口付近にいた一頭の牝馬に歩み寄る。

 葦毛の小柄なその牝馬は、寄ってきた深夜の来客を不思議そうに見ていたが、やにわに小さく嘶きをあげてその人影を歓迎していた。


 大人しい馬のようで助かった。人懐こいのか、それとも私のことを覚えてくれたのだろうか――

 その人物――日笠さんは目深に被っていたフード付きケープより覗く口元に、弱々しい微笑みを浮かべた。

 

「お願い、力を貸してほしいの。ヴァイオリンまで私を連れて行って――」


 囁くようにそう言って彼女は木でできた簡易柵取り外し、恐る恐る中へと足を踏み入れる。

 だがしかし。


「何を考えているコノヤロー?」


 入口から聞こえてきた低くやたらと良いその声に、少女は一瞬身を震わせながらも恐る恐る振り返っていた。


「会長……」


 はたして、その声色から予想したとおりの人物が、入口に寄りかかり厳しい顔つきでこちらを見つめているのが見えて、日笠さんは気まずそうにこうべを垂れる。

 月明かりを背に受けてそこに佇んでいた鬼才の生徒会長は、七三に分けた髪を一撫でし、少女を見つめていた双眸を細めた。

 そして小さな嘆息を一つすると、入口に寄りかかるのをやめて日笠さんへと歩み寄る。

 

 彼が気づいたのはたまたまだった。

 ふと腕時計に目を落とせば時刻は深夜二時。

 もうこんな時間か――書斎に籠り、ヘオン病に関する情報を集めていた彼は手にした本を閉じると、背伸びをしながら立ち上がった。


 書斎の本はあらかた調べつくした。だが依然としてヘオン病に関する情報はなしのつぶてであった。

 博識な老人が蒐集している書物でも見当たらないとは。まったく厄介な傷病だ。

 かくなるうえはヴァイオリンまで出向いてみるべきか。

 一国の首都であれば、或いは有益な情報が掴めるかもしれない――

 

 珍しく焦りの色を浮かべ、だが務めて平静であろうと顎を撫でながらササキは窓辺へと歩み寄る。

 と、そこで彼は気づいたのだ。

 ふと目を向けた広場を横切る人影に。


 こんな時間に外を出歩くとは一体誰だ?

 もしやコル・レーニョの残党か?――

 一瞬のうちに十数通りの可能性を頭の中に思い描きながら、ササキは外の闇へと目を凝らす。

 だが、その人影が見せるおぼつかない足取りと、思い描いた十数通りのを照合させ、最も高い可能性を導き出した彼は、思わず大きな溜息を吐いていた。

 そして椅子にかけてあったブレザーを手に取り、足早に外へと飛び出していたのである。


「バカなことはやめたまえ日笠君」


 案の定だった。予想通りだった。

 上気した顔で俯く日笠さんの前に立つと、ササキは彼女が持っていた木の柵を奪い取りそっと元に戻す。


「そんな身体で柏木君達を追ったとしても、その前に倒れるに決まっているだろう」

「でも――」


 決意を秘めた強い眼差しで彼女はササキを見据えていた。

 だがやっとのことで口から紡げたのは掠れた一言のみだ。それ以上続けようとした日笠さんの身体は、彼女の意思に反してふらりと傾き、咄嗟に手を伸ばしたササキに支えられることとなっていた。

 それ見たことか――鬼才の生徒会長は、呆れ気味に吐息を漏らす。


「仮に合流したとしよう、そんな身体で何ができる?」

「……」

「彼等は君のために薬を取りに行った。君が彼等のためにできることは安静に療養して、彼等の帰りを待つことだ」


 違うかね?――と。

 まるで子供に言い含めるようにそう告げて、ササキは確認するように首を傾げてみせた。

 日笠さんは怯えるように視線を虚空へ向けながら、長いまつげに覆われた双眸を細める。


「……不安なんです――」

「何がだ? まとめ役の君がいないあの濃い連中がか?」

「……違います」

「ではなんだ?」

「……自分が……置いていかれるのが怖くて――」


 古城の死闘の中で、彼の背中にやっと近づけたと思った。

 でもそれは自分の力じゃなかった。

 みんなに背中を押されて、彼に手を差し伸べられた結果だった。


 この世界に来たあの日から私は自分の足で前に進めていない。

 なのに、彼は……いや彼だけじゃない。みんなはどんどん前へと進んでいってしまう。


 自分のせいだとわかっている。どれだけ卑しい望みであるかも承知している。

 でも待ってほしいんだ。置いて行かないで欲しいんだ。


 どうか私を一人にしないで――

 

 死に至る黒き病は、少女の身体を、少女の精神を蝕む。

 熱に浮かされ、そして夢から覚めた彼女の弱った心を襲ったのは、漠然とした不安だったのだ。


 長い沈黙の後に、振り絞るようにしてそう答えた日笠さんをじっと見つめ、洞察力に優れ、機微を読むのに長けたこの生徒会長は全てを悟る。


 あの古城での通話以来、なんとなく懸念はしていた。

 しかしチェロ村に帰ってきた彼女の様子は予想に反して明るかった。生き抜け――そう指示した自分の言葉に従ってのではないかと思っていた。


 だが違った。

 しっかりしなくては。彼等を引っ張っていかなきゃ――という、元部長としての責任感。

 そんな彼等が徐々に成長していく様を後ろから眺めるしかできない自分に対する劣等感コンプレックス

 徐々に膨らんでいくその負の感情を、彼女はさらに心の奥底に溜め込み、そして自分を責め続けていたのだ。


「……私……みんなの足手まといには……なりたくないんです。だから――」

「――もうそれ以上話さなくていい」


 決して熱のせいだけではない潤んだ瞳でササキを見つめ、苦しそうに息を吐きながらそれでも言葉を続ける彼女に対し、だが耐えきれなくなったササキは命令するように遮る。


「足手まといと思っている者のために、誰が薬を取りにいくというのだね」

「……」

「日笠君、私は何度も言ったはずだ。悪い方向に考えすぎるな――と」

「でも――」


 我慢強い子だ。相当苦悩したのだろう。


 常識に囚われこの世界に馴染めない事を。

 そして後悔ばかりしている自身のことを。

 

 しかしそれは……危うく、そして誤った考え方だ――

 揺蕩う少女に向けてササキは首を振って見せる。


「もういい。さあ部屋に戻るぞ日笠君」

「……行かせて下さい」

「だめだ、これは命令だ。立っているのもやっとだろう?」

「……会長、私は――」


 と、なおも食らいつこうとする少女へ、ササキはやにわに背を向けて屈みこんだ。

 唐突な彼の行動に日笠さんは、思わず目をぱちくりさせて言葉を飲み込む。


「会長……?」

「今回だけだコノヤロー。肉体労働は苦手だからな」


 照れ臭そうにちらりと振り返り、ササキはどこかの我儘少年のように口をへの字に曲げながらぼそりと告げる。

 どうやらおぶってやるという事らしい。

 ようやくその意図を理解した日笠さんは、偏屈で知られる生徒会長の意外な行為に日和るようにして、つい彼の背中に寄りかかってしまった。

 それを確認した後、ササキは掛け声を放つ代わりに短い息を咽喉から鼻にかけて吐くと立ち上がる。

 そしてゆっくりと歩き出した。

 

「むっ……日笠君。君、意外と重いな」

「……会長、それセクハラです」

「だが胸が背中に当たって、これはこれでなかなか――」

「……会長、それもセクハラです……」


 そういうことは口に出さないで、せめて心の中で呟いてほしい。

 どこまでオープンなスケベなんだろうこの人――

 喋るのも辛いのに、律義にツッコミを入れながら日笠さんは眉根を寄せる。


「……やっぱり私歩きますよ。降ろしてください」

「待て待て、冗談だコノヤロー。まあ任せておきたまえ」


 そう言いつつも、既に息があがり始めたササキの様子をちらりと眺め、だが日笠さんは嬉しそうにクスリと笑った。

 馬小屋から一歩外に出ると、途端山から吹く冷たい風が二人の身体を撫でる。

 やはり山の麓の夜は少し肌寒い。熱で火照る身体には丁度いいが。

 仄かに温もりを感じるササキの背中に頬を預け、日笠さんは目を閉じる。


「日笠君、人には人の考え方がある。価値観も人それぞれだ。違うか?」


 空は雲一つない満天の星空だ。

 広場を横断しながら燦然と輝くその星々を見上げ、ササキはやにわに話し始めた。


「だが我々の目的は一緒だ。元の世界に帰る事――無い知恵と少ない才能を活かして我々はそのために行動している」

「……」

「柏木君は目的のためにとった行動がたまたま、この世界を受け入れる事に繋がっただけだ。彼が成長したのだってその副産物だ。だから気にしなくていい」

「……そうでしょうか?」

「そうだとも。我々はこの世界の人間ではないのだ。この世界を受け入れるのに時間がかかるのは当然なのだ。君は柏木君よりしっかりしていた。常識的だった。だから受け入れるのに時間がかかっている……それだけなのだよ」


 むしろ彼等の方が異常なのだ。

 元々色濃い連中だったおかげで。

 そして、こうと決めたら一直線な、我が道を行く連中だったおかげで。

 ここまで早く覚悟を決めて、死地を切り抜けることができていただけだ。


 だから気に病む必要などない。

 それこそ気に病んでいたらきりがない。

 そう、と比べていたらきりがないことなのだ――

 

「そもそも、君が今気にしているものは目に見えるようなものではない。ましてや他人と比べるようなものでもない」

「……」

「『成長』なんてものは、目的のために行動した過程から生まれる小さな小さな『ご褒美』だ」

「……ご褒美?」

「そうだ。それもなくて当たり前、あって些細な喜びが味わえる『グリコのおまけ』なのだよコノヤロー」

「グリコの……おまけですか?」

「そうだ。グリコのおまけだ」


 と、大真面目な顔で返答したササキは、背中から聞こえてきた少女のクスクスという掠れた笑い声に気づき、不服そうに双眸を細めた。

 

「そんなに可笑しかったかね?」

「ええ。会長らしくない例えだなって――」

「フン……三神先生の受け売りだからな」

「先生の?」

「そうだ。私もコンプレックスは人一倍あるほうなんでね。一年生の頃はよく諭された……」


 そう言ってササキは誤魔化すようにコホンと咳払いをする。

 神童、鬼才、天才――彼を表す言葉はそれこそ多々あるが、得てして特異な才能を持つ者は理解されにくいものだ。

 その才能故に彼はいつも孤独であったし、理解してくれる者も少ない。

 そして成果のために、彼が人知れず並々ならぬ努力をしていることも、やはり知る者はごくわずかだった。


 だからこそ彼は知っている。

 努力しても望むものを手に入れられない劣等感コンプレックスを抱く者の気持ちを。


 白くなった吐息を風が攫ってゆく。

 ササキはしばらく黙して広場を歩いていたが、はたと足を止め口を開いた。


「だからもう一度言うぞ? 気にするな。悲観するな……君は君なりに頑張っているのだろう?」

「……」

「黙ってないで答えたまえ。どうなのだ?」

「……もちろんです」

「ならいずれ『ご褒美』を貰えるさ。そして気づいたら今より一歩前に進んでいるはずだ。成長とはそういうもの。焦る必要はない――」


 わかったかね? 日笠君――

 そう付け加えて、ササキは背中を振り返る。

 『天才』だと思っていた人物の意外な言葉に、日笠さんは応える代わりに掴っていた彼の肩口をきゅっと弱々しく握りしめていた。


 よろしい――と。

 肩から伝わってきた少女のその反応に、ササキはニヤリと不敵に微笑んでみせる。

 そして再び、静まり返った村の広場を踏みしめる様に再び歩き出した。

 

「会長……」

「なんだコノヤロー?」

「……カッシー達が行った場所は……危険な場所ではないんですよね?」


 と、消え入りそうな声で尋ねた少女に対し、ササキは一瞬ではあるが表情を強張らせる。

 僥倖にも、彼の背中にいた彼女はその変化に気づくことはなかったが。

 妙に勘の鋭いことだ――ポジションを修正するように日笠さんを背負い直し、ササキは感心するように苦笑を浮かべた。

 

「まったく君はどこまで面倒見がよいのだ。こんな時まで他人の心配とは」

「ごめんなさい。なんとなく胸騒ぎがしたので……」

「心配ない。彼等ならすぐに薬を持って帰ってくる」

「変なトラブルに……遭ってないと……いいんですけど……」

「余計な心配はせずに、今は自分の身体を第一に考えたまえ」

「……」

「日笠君?」

「……」


 返事はなかった。代わりに耳傍に聞こえてきたのは小さな寝息だ。

 どうやら眠ってしまったようだ。

 しかしこんな状態で、柏木君らを追いかけようとしていたとは。

 まったくもって呆れるほかないな――

 やれやれと首を振り、ササキは見えてきた宿屋の扉を開けると、二階へ向かう。

 そして女子部屋に入るとそっと日笠さんをベッドに寝かせ、毛布をかけた。


 ふう――と大きな息を吐いて、ササキは肩を叩く。

 ふと見下ろした少女の寝顔は、悪夢にうなされる様に歪んでいた。

 上下に動く胸と共に、風のように唸る小さな呼吸音が聞こえてくる。

 

 そして、その首筋に新たな黒い半円が一つ浮かび上がっていたことに気づき、ササキの顔はみるみるうちに剣呑なものへと変わっていった。



 変なトラブルに遭ってないといいんですけど……――


「仕方がない。まったく、世話の焼ける後輩達だ――」


 一人呟くと、鬼才の生徒会長は緩めていたネクタイを締め直し、ブレザーの上着を正す。

 そして意を決したように踵を返すと、部屋を後にしたのであった。

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