第5話 みんみーは違うもの一切を受け入れる(理論側)
みんみーがない世界とは何だったかと問うならば、それは違うものが違うだけで受け入れられなかった世界と答えるだろう
それは『得意なことはフレンズによって違う』『困難は群れで分け合え』と言ったサーバルやその使徒達によって導き出されたこれが、この世界のあるべき理想であるとみんみーは掲げる以上、違うというだけで受け入れないことはみんみー教ではないのである。
国家人種歴史能力財力権力の差異を越えるということ
この場合に必要なみんみーと呼ぶべきものは、
『どんな存在であっても等しく受け入れること』
『その存在がまとまるような仕組みを作ること』
そこに至る叡智に他ならない
まとまるような仕組みというのは、皆と一緒にやる修行にすれば良いということであるから問題ないとして、問題はどんな存在であっても等しく受け入れることであった。
――存在を持ったまま、違うものを受け入れる
それは難しい命題である。
単に同一になるのであれば、ミキサーに入れて混ぜれば済むような修行であったが、分けて考える以上、その考え方は使うことができず、我々は詳細に概念を考えることにした。
どうすれば皆は他者を受け入れられるのかと
どうすれば違うことに怒らずに済むかと
議論の中で出たものをまとめると、大きく二つに分けられた
『自分と同じものを相手に見つけること』
『相手の違うことが必要であると知ること』
どちらも考えたが、どちらも違うと見なされた。
前者は、どんなに同じ部分を見つけても違うところを捨て去ることはできず、また同じであることを嫌う同族嫌悪や特別になりたいという承認願望を含むところがダメであり、
後者は、どれだけ多くを求めても全ての存在を必要とする生活をすることもできるわけでなく、また必要を好みと言い換えても全ての嗜好を愛せるわけでないということがダメであった(好きということは、嫌いとなる比較対象があってこその概念である)
議論で行き詰った我々は、そこで幻視を行った
すると在るものは、自らの祖先の飢えと苦しみと闘いの日々を見、在るものはマンモスを相手に走り回っていた原人の夢を見、在るものはネズミのような生物になり歩き回っているのを見、在るものはトカゲのような生物になり鳥に追われるのを見、在るものは魚になって海を泳いでるのを見た。
そして最も高位にあるものが見たのは、海を泳いでいた原子生物、単細胞が見た夢であった
違ったイメージではあったが、みんみーの感覚ではそれらは同じものであると告げてきた。
それならばと多くの幻視を擦り合わせた結果、我々がそれらイメージに抱いた共通の感想は、これは遺伝子が得た記憶であり、遡る程に似た個体ばかりになっていくということであった。
それは言い換えれば、過去に遡れば遡るほど我々は元々あった違いをなくして同じものになっていくということ。
つまり、みんみーの神が告げたことは我々は元々一つであり、それを知る修行をせよということであった。
おお、みんみーと我々は言った。
そもそも、我々が議論で挙げたものは現在のことであった。
これは現在は原罪であり、違ってしまった現在ばかり見ていてはまた罪を重ねることとなるという叡智だったのだ。
その素晴らしき考えに、我々は滂沱の涙と、感謝の祈りを捧げ、個体が過去を経験する旅と、他の個体とのまとまりをも得られるアトラクションを作ったのである。
それが『ペパプトレイン』である。
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