第十章 覆水は盆に返らず

10-1 アリシエの小さな挑戦

 その日、アリシエはアサシンブレードと仕込み刀を身につけていた。腕につけたアサシンブレードが隠れるように、長袖の上着を身に付けている。余談だが、アリシエが身につけているのはただの仕込み短剣であって、ハベルトで知られているアサシンブレードとは異なる。しかし、アリシエは呼び方が分からないため「アサシンブレード」と呼んでいた。


 いつでも戦えるようにと身構えるアリシエ。その左隣には暁家の者ではない女性がいる。腰まである青い長髪は一つに束ねられており、その濃い青色の瞳はアリシエと同じ所を見ている。彼女の名は海亞かいあ。女性ではあるが、戦闘貴族 葵陽きよう家の当主である。


 海亞は化粧によって外見を変えていた。また、夜の闇に紛れられるようにと黒い忍装束を身にまとっている。装束のポケットには、潜入に必要な道具を隠してあった。さらに、首には黒い風呂敷を巻いている。風呂敷の中に何が入っているのかは、アリシエにはわからない。


 アリシエと海亞がいるのはハベルトの中央都市クラウドだった。正確には、クラウドの南東に位置する町の外れ。田畑の多いこの地域には、宮殿ほどではないが戦闘貴族の屋敷より広大な敷地を持つ屋敷がある。屋敷の主は皇帝の弟である皇太子であり、皇族の屋敷とあって警備が厳重だ。アリシエと海亞の二人はこの屋敷に用があった。


 二人以外に人はいない。アリシエが今ここにいるのは、海亞の補佐をするように金牙に命じられたからである。今回の任務は難題とされており、アリシエの他に生きて帰れる者はいない。それ故に、本来であればアルウィスに任せるはずだった仕事だ。しかしアルウィスは未だ目覚めておらず、アリシエがこの任務を担当することになった。


 今回の海亞の任務は、皇太子の屋敷に潜入することである。戦闘貴族当主である海亞がこの任務を担当するのは、この任務が皇太子派制圧において重要な役目を果たすから。海亞は皇太子に顔を知られているため、髪を結いたり化粧を変えたりして、身元がすぐにわからないようにしてある。


 この任務は後に皇太子派の反乱の動きを活発化かせる引き金となる。記録上では、「カラードの乱」はこの任務から始まったとされている。任務の先に待ち受けるものを、この時の彼らはまだ知らない。



 アリシエと海亞は屋敷を囲う壁に寄りかかりながら様子をうかがう。屋敷へと通じる正規ルートである門には見張りの武芸者――門番が二人いた。壁の上には侵入者を拒むためにと鉄の棘が付けられている。この棘のために、壁をよじ登って敷地内に入ることが難しくなっている。


「どうする? あの人を襲ってもいいけど、今騒ぎを起こすの、よくないよね?」

「今は、ダメですわ。帰る時までは絶対にダメです。今騒ぎを起こせば、他の武芸者が出てきますから」

「だよね。うーん、壁を登ってもいいけど、あの尖ってるの、が邪魔なんだよね。どうしよ」

「……ですわ」

「それそれ。棘だよ、棘。それが邪魔なの。でもこの距離なら、もしかしたら……」


 二人が今様子を窺っている屋敷は皇太子の住居である。皇族の屋敷とだけあって警備が厳重で、門番の他に侵入者対策で複数の武芸者が中庭に隠れている。二人は今から、そんな屋敷に忍び込もうとしているのだ。


 しかし屋敷を囲む壁は鉄の棘があるために下手に登れない。壁は指先で掴めるほどの厚さしかなく、仮に棘をどうにか攻略しても足場がほとんど無い。また、門番が警戒しているため、正門には下手に近付けない。穴を掘って地下から侵入するのも手だが、人が通れるだけの穴を掘る間に夜が明けてしまう。





 現在、アリシエと海亞は壁の影に隠れ、遠くから門番の様子を窺っている。門番は夜通し門の前に立っているのだが、海亞の情報によると一定時間毎に人が交代しているらしい。侵入に伴うリスクを減らすために、門番が交代するタイミングで侵入しようと考えていた。


 侵入方法は壁を登るのが最善である。下手に正門で門番を襲って騒ぎを起こすよりは、足場のほとんどない壁をどうにかよじ登る方が、より安全に敷地内に侵入出来る。門番が交代するのを確認したアリシエは、ふとあることを思いついて口を開いた。


「ちょっと、離れててくれる?」


 アリシエは海亞にそう頼むと、壁の上にある鉄の棘をその銀色の目で見つめる。失敗すれば、次の門番交代の時間まで動けなくなる。だからだろうか。距離を目測するその顔は真剣で、アリシエに特徴的な笑みを見せる余裕もない。


 壁と鉄の棘の位置を確認すると、数歩後退して間合いを調整。刀の鯉口を切ってから、再び壁の影から正門の様子を窺う。交代の時間になったのだろう、門番が交代の者と何やら話している。それを確認すると、アリシエは刀を鞘から抜いて奇妙な構えを見せる。刀を持つ腕とそうでない腕を胸の前で交差させたのだ。


「もし失敗したら門を飛び越えてね。僕はなんとか逃げるから。あと、音でバレたらごめんね」

「あなた、何をする気ですの?」

「あの棘、斬る。何本か斬れば、壁を手で掴めるようになるでしょ?」


 そういうや否や足を動かし始める。まず、右足を僅かに浮かせた。不安定な足場を作ると、身体が重力に従って下へと前のめりに倒れていく。鼻頭が地面に付く寸前、アリシエは右足で力強く地面を蹴った。そのまま重力を利用して加速すると壁に急接近し、跳躍。跳躍した先にある壁を右足で蹴り、体を上へと移動させる。


 アリシエの目線が鉄の棘と同じくらいになった時だった。左腕で刀を持つ右腕を内側から強く弾いた。その勢いを利用して刀を横に動かし始めるとすぐに、左手を刀の峰に添える。そして、左手で刀を押した。左腕と左手によって加速された刃が鉄の棘五本を一気に斬る。


 刀を振り切ると、アリシエの身体は不安定な体勢のまま地面へと落下していった。落下していく間に、落下で生じる音を和らげようとして空中で上手く身体を動かし始める。空中で刀を仕舞い、頭より先に肘が付くように身体を少し丸めた。その結果、地面で受け身を取ることに成功し、前転してから立ち上がってみせる。


「……うん、成功。でも、痛い。怪我ないのに、身体の節が少し痛い。落下位置が少し高過ぎたのかな」

「そもそも、こんなことして無傷で済む方が普通じゃないですわ。さて、屋敷内に入りますわよ。準備は?」

「大丈夫。僕、怪我には慣れてるから」


 アリシエの返事を聞くと、海亞は装束のポケットから紐のようなものを取り出した。三メートル程のロープが束ねられたその先端には、鉄鉤てつかぎがついている。鉤縄かぎなわと呼ばれるそれを壁に向けて投げた。紐を強めに引っ張る。上手く何かが壁に引っかかったのだろう。強く引っ張られた紐の先端は壁から落ちてこない。





 まずはアリシエが紐を使って壁を登り、壁の頂上から敷地内へと飛び降りた。それに続いて海亞が紐を使って壁を昇り降りする。海亞は使っていた鉤縄を慣れた手つきで回収し、夜の暗闇の中で敷地内の様子を窺う。アリシエは何をしているのかが分からず、呆然とするばかり。


「このあと、どうするの?」

「協力者に会いに、隠し通路へ向かいます。それから潜入です。あなたの仕事は帰る時に出来るだけ騒ぎを起こすこと、ですが。とりあえず、場所を移動しましょう。ここは目立ち過ぎます」


 人に見つかることを恐れてだろう。二人の会話は小声で行なわれた。わざわざ壁から敷地内に侵入したのは、海亞の潜入を屋敷の者に知られないようにするため。今ここで屋敷を警備する者に見つかれば、これまでの努力が全て水の泡となる。


 だが海亞が潜入するにあたり、一つだけ問題がある。皇太子の住居とだけあって、敷地は広大だ。夜の闇の中で、広い敷地内を手がかりなしで移動するのは危険だった。かと言って、一箇所に留まったままでは敵に見つかる可能性が高くなる。ひとまず二人は、壁に沿って移動しながら今後の動きを確認することにした。


「隠し通路ってどうやって探すの? こんなに広いのに」

「隠し通路の行き方は協力者から知らされています。たしか……『隠し通路の入口は屋敷の裏側の壁にある。隠し通路は、皇太子の寝室の床下にある隠し扉と隠し部屋に繋がっている』だったはずです」

「協力者って捕まっているんでしょ?」

「捕まる前に手紙をもらいましたの。さて、とりあえずこのまま壁に沿って移動して、屋敷の裏に回りましょう。隠し扉の開け方も覚えていますから」


 門番が交代した直後の今、門番の注意は正門の外に向いている。警戒すべきなのは門番以外で夜通し警備にあたっている他の武芸者である。先ほど壁上部にある棘を切り落として侵入した。その時の物音を聞かれていなければ問題ないのだが、油断は禁物。二人は出来るだけ物音を立てないように、周囲に警戒しながら屋敷の裏側へと移動を開始した。





 レンガを積み上げて作られている皇太子の屋敷。その隠し通路への扉は、屋敷の壁に紛れるように、巧妙に隠されているらしかった。その証拠にドアノブの類はなく、手で壁に触れるだけではどこに扉があるかもわからない。どうやら壁を構成する石の一つが扉を開ける仕掛けになっているらしい。しかし――。


「どの石か、までは書いてませんわね」

「協力者の人も知らないってこと?」

「そうなりますわ。……いや、もしかしたら手紙の文に隠してあるのかもしれません。今から手紙を確認するので、警戒をお願いします」


 夜の闇の中では、目が慣れてたとしても文字をはっきり読むことは難しい。海亞は灯りを用意する様子も、手紙を取り出す様子も見せなかった。なのに、何も無い空間で両手を動かしながら何かを呟いている。異様とも言えるその光景に、アリシエは絶句するしかない。


 何も無い空間で指先を動かし、腕を動かし、何かを思考する海亞。そんな彼女はついに、レンガの壁に手を伸ばす。指でレンガの数を数え、レンガの壁を叩いて音を聞き、何かを探す。そしてついにその時がきた。


 海亞がレンガの一つを強く押すと、ガゴンと何かが動く音がした。レンガの奥で歯車の動く音が微かに聞こえる。その歯車の音に呼応するようにレンガの壁の一部が動き、微かな隙間を作る。レンガの壁の中央付近に全長二メートル、幅三センチの隙間が現れると、機械音が止まった。


 海亞が恐る恐る隙間に手を入れる。罠でないことを確認すると隙間の左側を掴み、躊躇なく隙間を左側へ押す。その刹那、隙間の横幅が広がり始める。現れた隙間は取っ手の代わりだったようだ。隙間を限界まで広げると、レンガの壁の中央付近には人一人が通れる程度の長方形の空洞が現れる。


「海亞、人、近付いてる。戦っていい? ねぇ、攻撃して――」


 敷地内を警備する武芸者を視界に捉えたのだろう。アリシエが慌てた様子で海亞に近寄る。だが海亞はアリシエに最後まで言葉を紡がせなかった。その代わりに、アリシエの身体を空洞に押し込んで自らも空洞に入る。空洞の中に入り込むと、急いで内側から隠し扉を閉めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る