中編 なんかあたまがボバーンって

 10分ほど走ったところで、僕の家にたどり着いた。僕は、ゴミ置場から取ってきた袋を広げた。

「しおり。服にウィルスが付いているかもしれないから、ここで全部脱いで袋に入れよう。そのあと家に入って、シャワーで体を洗う。いいね?」

 僕は、いつかテレビで見た知識を思い出しながら言った。しおりは、キョトンとした表情で動かなかったが、僕が先に服を脱ぎ始めると、それに習った。

 家へ入り、しおりとシャワーを浴びた。こんな非常事態だから、裸で一緒にいても、どうとも思わなかった。

 シャワーから上がると、適当な服を着て、2人で部屋に座った。この家はもともと姉と2人で住んでいたため、2DKと、1人で住むにはかなり広い。

「驚いたね……。まさかこんなことになるなんて……。」

「……うーん。」

 先程から思っていた。しおりの様子がおかしいのだ。僕が何を言っても、曖昧な返事しかしない。

「しおり、どうかした?」

「なんか……あの、あのー……頭が……。」

「え、どうかしたのか!?」

「その、頭が……あー、ボバーン!みたいな、こう、メキョメキョ〜みたいな、スポーン!みたいな……」

「ちょちょちょ、ちょっと落ち着きな!?

 どうしたの、頭が痛いの!?」

「……痛くない。」

「ぼーっとする?」

「いや、なんか、すごい……」

「すごい?」

「……やばい。」

 しおりの必死な様子を見ていれば、ふざけていないことはわかる。もしかすると、これはウィルスの影響なのかもしれない。僕は1つ試してみることにした。

「しおり、5×7は?」

「……なんで?」

「答えてくれ。5×7。」

「……さんじゅうご。」

「180×4は?」

「えー……ななひゃくにじゅう。」

 知能を消失させるものではないか……。だとすると会話の齟齬は何故……あ。

「しおり、今、凄く語彙力が低下してると思わないか?」

「え……ごいりょくがて……?」

 なるほど。この様子を見るに、語彙力が著しく低下するウィルスなのかもしれない。ある程度の受け答えができるのなら、言語中枢は両方生きているし、計算ができるのなら、知能は生きている……はず。語彙力のみに作用するウィルスなど聞いたことはないが、とりあえずはそう理解しよう。

「しおり、疲れたでしょ。ちょっと休みな。あっちで、寝な。」

「うん……。」

 しおりは立ち上がり、寝室にあるベッドへ向かった。やはり簡単な言葉を使えば会話はできる。ただ、日本の社会は簡単な言葉だけで回せるほど単純じゃない。語彙が消失してしまえば、ありとあらゆる組織が機能を停止するだろう。思ったよりも重大な事態になりそうだ。もっと情報を集めなければ。

「しおり、僕はテレビで情報を……じゃなくて、あのー……やることがあるから、あっちにいるね。」

 洋室を指差して言った。しおりは不安そうな表情をしている。

「まーくん……。」

「どうした?」

「今すっごい、怖いから、あのー……えーっと……ぎゅっとしててほしい。」

「しおり……。」

 かわいそうに……。語彙力が低下すると、心を伝えることが難しくなるだろう。本当に思っていることも、伝わらなかったり、別の意味に捉えられたりしてしまう。しおりは、そのうち心を伝えることが嫌になってしまうかもしれない。

 僕はベッドに横たわるしおりの手を握った。しばらくはしおりを見ていたが、疲れていたせいで、いつの間にか僕も眠ってしまった。




「あれ……いつの間に……。」

 随分と長い時間寝ていた。時計を見ると、16時40分。2時間以上寝ていたようだ。

 しおりはスースーと寝息を立てている。色々なことがあって混乱しただろうし、寝かせておいてあげよう。

 僕は洋室へ入り、テレビをつけた。画面端に「テロ情報」と大きくテロップが出ていて、どこかの偉い人が会見をしている姿が映った。まるで宇宙飛行士のような白い服を着ている。

「えー。今日午後12時30分頃。おー、全国の街頭ビジ……あのー、えー、でっかいテレビで、男が、悪いことをすると言いました。あー、そのあと、毒を、撒いたようです。えー、毒は、平たく言えば、難しい言葉が、わからなくなる……ものです。えー、そうなるまでの時間は、人によって違います。毒は、日本のいろんなところの、おー、駅や、人が集まるところ、つまり、わかんないけどたくさん、撒かれました。今、調べたり、どうすればいいか、考えて、えー、います。」

 既に感染した人にもわかるように喋っているんだな。そう思ったが、少ししてから周りにいる記者が「どく……?」「どくってなに……。」とざわつき始めていたため、残念ながら伝わっていないようだ。

 寝室からしおりの声がした。テレビの音で起こしてしまったのかもしれない。僕は、しおりにお茶を飲ませてあげようとキッチンへ行き、冷蔵庫を開けた。お茶を取り出し、コップに注ぐ。その後冷蔵庫の中身を見てみた。1人暮らしだから当然と言えば当然だが、食料は十分とは言えなかった。

「しおり、起きた?」

「うん……。」

「どこか、痛いところとか、変な感じがするところ、ある?」

「ない。けど、あの、あの……。」

「……簡単なことしか分からなくなっちゃったんだよね。」

「……うん。そうなの。」

「……お茶、飲みな。」

 忘れてはならないことがある。しおりがウィルス感染者であることだ。数時間一緒の部屋にいることを考えると、僕だって感染していてもおかしくない。さっきの会見で発症までの時間には個人差があると言っていたが、ここまで差が出るものなのだろうか。

「しおり、お腹減った?」

「うん……。」

 食料を買いに行くにも、外へ出れば感染の危険性が高まる。どうにかして……あ。

「しおり、近くで、食べるものを買ってこれるか?」

「……うん。」

 既に感染しているしおりならば、外へ出ても問題ないはずだ。もっとも、このウィルスの症状が語彙力の低下だけならの話だが、他に手が思いつかない。



 まーくんにいわれたから、たべものをかう。ちかくに……ちかくで、かう。

 おみせにひとがいっぱいいる。みんなおみせのひとにすごい……すごい……えーっと……あれしてる。

「おい!たべものはないのか!」

「ごめんなさい。もうないです。」

「もう……その……ないのか!」

「だから、ないです。」

「いやいや……その……あれしろよ!」

「あれって……。」

 みんなすごい。おみせにいけない。こわい。たべもの、ない。

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