第1話-3

 翌朝。遅刻寸前で教室に転がり込んだ俺と幹太を、異様な空気が歓迎した。


「えっと……セーフ、だよな」


 思わず前方の壁にかけられた丸時計と、全員神妙な顔つきで着席しているクラスメートたちを交互に見る。時刻は午前八時二九分。ギリギリには違いないが、遅刻ではない。担任の姿もない。いつもなら、まだ未練がましくみんな、教室を立ち歩いてめいめいお喋りに興じている時間のはずである。


「なんだよぉこの空気! みんなして! おい新一、なにこれどういう状況!」


 カンタが手近の席に座っていた少年の肩を叩いてケラケラ笑う。事情を聞くには、確かにそいつは適役だった。弱ったような顔で、新一は長い体を俺たちの方に向ける。


「さっき校内放送があってな。大事な話があるから、二年B組諸君はあらかじめ着席して待機しておけって」


 スポーツ刈りの爽やかな彼の名は勝 新一かつ しんいち。品行方正なクラス委員長。阿久津高校ただ一人の剣術部員で、放課後も暗くなるまで武道場で木刀を振っている、武士道を絵に描いたような男だ。


 剣術アクションはもちろんのこと殺陣の達人でもあり、卒業後は時代劇なんかに引っ張りだこのアクション俳優になることだろう。


「校内放送……? 誰が?」


「分からない。聞いたことない声だったよ」


「ふぅん……まぁ、どうりで静かだったわけだ」


 阿久津高校の校舎は千人を優に収容できるほど巨大だが、生徒は二年B組の十人だけ。校舎に足を踏み入れた瞬間、その異様な静けさにカンタと目を見合わせたほどだ。


「いつまでたっても来ないから心配してたんだが、間に合ってなによりだ。こんな日に遅刻なんてシャレにならないからな」


「ほんとだよ。おい、お前が寝坊するからだぞ」


「ごめんって!」


 両手を合わせる幹太をじっとりした目で睨みつつ、俺も急いで着席した。幹太も座る。示し合わせたようなタイミングで午前八時半を告げる鐘が鳴った。同時に、教卓側の扉ががらがら音を立ててスライドし、見慣れた担任の巨大なシルエットが、ぬっと姿を現した。


『みんな、おはよう!(//∇//)』


 担任が胸の位置で構えた巨大タブレットに、黒背景に白文字で、パッ、とそんな文字列が出現した。俺たち九人は「おはようございまーす」と返す。


 黒いタヌキの着ぐるみ。担任の姿を一言で伝えるとすれば、そうとしか言えない。


 一九〇センチはあろうかという、ずんぐりした二頭身の巨体。指すらない丸っこい四肢。服らしきものは着ておらず、全身を真っ黒な柔らかい毛が覆う。頭頂部に大きな葉っぱが一枚くっついていて、それがいかにもタヌキっぽい。二足歩行である。


 目の周りだけがかすかに白っぽく、よく目を凝らさなければ見つけられないほど小さな、小豆のようなつぶらな目が、ただひたすら正面を凝視している。


 姿形こそ気持ち悪いような可愛いような、やっぱり気持ち悪いような印象ではあるが、タブレットに映し出される、喋れない彼(彼女?)の言葉は目を疑うほど人懐っこく、無害な存在であると認識するのに時間はかからなかった。


 彼のことを、俺たちは親しみを込めて「たぬ先生」と呼んでいる。


「たぬ先生、大事な話ってなんすか!?」


 幹太が元気よく挙手し、たぬ先生に尋ねたそれこそは、きっと全員気になってやまないことだったに違いない。平静を装っているが、教室に入った時に向けられた視線の緊張感は正直だった。


 大事な話。記憶の限り、そんな文句であらかじめ着席を命じられたことは過去一度もない。校内放送さえ初めてだ。内容に検討がつくとすれば一つしかなかった。


 卒業──俺はその日が近いことを、実は数日前から漠然と感じていた。自惚れでもなんでもなく、俺たちは既に役者に必要なスキルを完璧に身につけつつある。


 もう、こんな小さな島に留まるには余る器だ。ここからは現場を知り、経験を積んでより多くのことを学んでいかなければならない。この島で学べることはもう何もないと、ここ最近の学校生活で感じるようになっていた。


 俺でさえそうなのだから、俺より尖った才能のある他のみんなもそうに違いない。だからこそ、みんな緊張しているし、浮ついている。


『濱田君、静かにね(ㆀ˘・з・˘) みんな気になっているだろうからボクももったいぶるつもりはないよ( ̄∇ ̄) けどね、今回みんなに話があるのはボクじゃないんだ!(*゚▽゚*)』


 たぬ先生のタブレットにそんな台詞が表示されて、俺たちは眉間にしわを寄せた。この島には俺たちと、たくさんのたぬ先生しかいない。


 たぬ先生じゃないとしたら、いったい誰から──


『諸君、おはよう』


 ガタリ、と複数の机が音を立てた。かすかに悲鳴を上げた者もいた。突如教室前方のスピーカーから響いたのは低い男の声。嗄れた、不気味な声だった。


「は、誰!?」


『誰、か。さっきも校内放送を流したのだがね。私は言わば君たちの校長であり、父でもある。だがそうだな。私のことは"カントク"と、そう呼んでくれたまえ』


 幹太の叫びに律儀に対応する、カントクと名乗った男。その時背後のドアが乱暴に開いて、直後に胴間声が轟いた。


「おい、はなせっ! クソたぬきが、ぶっ殺すぞ!」


 二匹のたぬ先生に脇を固められ、引きずるように連行されてきたのは久しぶりに見るクラスメートだった。銀髪のオールバックという派手なヘアスタイルに、浅黒い肌、切れ長の凶悪な眼、大柄な体格。


 菅原 煉児すがわら れんじ。10日に1回くらいしか学校に来ない、クラスの問題児だ。レンジを教室の後方に投げ捨てると、二匹のたぬ先生は一仕事終えたようにひたいを拭って教室を出て行った。


「クソが、なんだあの馬鹿力……!」


『菅原君、おはよう。席に着きたまえ』


「あァ!? 誰だテメェ!」


「……カントクだそうだ」


「はぁ!? 新一、なんだそりゃ説明しろ!」


 大声で騒ぐレンジに俺は苦手意識を拭えなかった。物怖じしないで彼の相手ができるのは男子では新一と陽色ぐらいのものだ。ここは彼らに任せることにする。


「僕らも分からないよ。いいから席に座りなって、たぶん説明してくれるんだろうから」


「……チッ」


 陽色の言葉に煉児は舌を打つと、大人しく自分の席にどっかり座りこんだ。見計らったようなタイミングでスピーカーから再び低い声が響く。


『全員揃ったようだね、2年B組の諸君。今からきっかり600日前、君たち10人をこの島に招待したのは私だ。私の手がける"究極の映画"の、キャストとして君たちを選んだ。そして今日まで育ててきた』


 戦慄する俺たちに、カントクは言葉を紡いだ。


『600日とは、一般的な高校生が3年間で受ける授業の日数だ。おめでとう、君たちに教えることはもう何もない。今日からは──いよいよ、"究極の映画"『シアター』の撮影を開始する』

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