第1話-1
『GO!』
担任の掲げた巨大タブレットの画面に、その文字列が光って弾けると同時、俺たち九人は一斉にビルの屋上から飛び降りた。
道路や建物が模型のように圧縮されたパノラマがぐわーっと視界を覆い尽くして、内臓を置き去りに、体がその光景に引っ張り込まれる。朝の冷たく乾いた空気が、制服の隙間から入り込んで全身を切りつける。
寒い、怖い、痛い。いつの間に気にならなくなった感情だろうか。
「ひゃっほーい!」
「また着地で舌噛むぞ、口閉じてろ!」
隣の幹太に親切にも忠告してやってから、身体を
がつん、と襲う激しい衝撃を回転で受け流す。俺より優雅に無駄なく着地してさっさと先に行く背中はいつもの二つだった。
案の定舌を噛んで悶絶している幹太と、べちゃっと張り付くように着地して涙目になっている絵磨を無視して、俺は回転の勢いを殺さず立ち上がって先頭集団を追う。
疾走。風を切って平らな屋上を駆け抜ける。身を竦ませる余計な感情を削ぎ落として目を眇めると、ダメ押しに加速する。なんせこの建物から次の建物までは五メートル以上離れているし、さっきほど高低差がない。
柵のない屋上の終わりスレスレで思いっきり踏み切って、俺は空を飛翔するように跳躍した。全身をくの字に折り曲げて空中で勢いを加える。眼下を高速で流れる爽やかな朝の町並み。火照った体の熱気が、冷たい風にあっという間に攫われていく。
「おっ……らっ!」
間一髪。俺の靴先が向こう岸を踏みしめた。後ろに引きずり込まれそうになるのを振り払って前に全身を押し込み、どうにか転がり込むように着地。
今のは流石に……少し肝が冷えた。
一瞬休憩。少し荒れた息を整えながら立ち上がる。後ろをちらりとだけ振り返ったが、後に続くものはいなかった。この道が最短コースだがルートは自由だ。ここに飛び移る自信のない者は、別の道を選択することになる。
「くそ……あいつらピョンピョン先行きやがって」
睨む先には、二人のクラスメートの背中。もうこの建物を蹴飛ばして次へ飛び移るところだった。身のこなしが人間じゃない。
今は一時間目、体育の授業の真っ最中。内容は"パルクール"。
パルクールとは、己の身体能力のみを頼りに、障害物によって動きが途切れることなく、いかに効率的に目的地を目指せるかを突き詰めたものだ。
本来なら階段を使って降りなければならないビルから飛び降りたり、逆に壁を駆け上がって登ったり、足場から足場へ飛び移ったり。
ただ効率と速度を求めるだけでは見た目が泥臭くなってカメラ映えのするアクションが身につかないので、体育の授業で扱うアレンジ型パルクールは、タイムと芸術性の二項目で採点されるという特別ルールになっている。
効率的にゴールに向かう、というパルクールの趣旨から外れる宙返りなどのアクロバティックな動きも、無駄なく、かつ積極的に取り入れていかなければ総合の高得点は取れない寸法だ。"フリーランニング"という方が適切かもしれない。
『GOooooooooooAL‼︎』
精一杯のタイムで目的地の校門をくぐった俺を、担任の掲げる巨大タブレットが歓迎した。画面を派手に横切るその文字列を無感動に睨みながら、荒い呼吸を整える。
『出席番号四 黒衣 佑
タイム 四二点
芸術点 四三点
総合得点 八五点
暫定順位……三位』
タブレットの画面に映し出された俺の成績は予想通りのいつも通りで、微かな悔しさ以外特別な感情は湧かなかった。基本、タイムと芸術点にそう差は開かない。暫定順位はだいたいそのまま最終順位になる。万年三位の称号を、今日もほしいままにすることだろう。
「よっ! 待ちくたびれたよ」
やんちゃでどこか勝ち誇ったようなムカつく女の声が聞こえて、俺は仏頂面をそちらに向けた。
「くそ、速すぎんだよ……ゴリラ女が」
「やっだー、こんな華奢ガールつかまえてゴリラだなんて!」
華奢ガールと名乗った少女が楽しそうに俺の背中を叩いた。瞬間、爆竹でも破裂したかのような衝撃が背後で走る。
「いってえ!
「ユウが弱いんだってぇ。そんなんじゃいつまで経っても、あたしと陽色に勝てないよ」
ケラケラ笑う、赤毛を大胆に短く切り揃えた快活な少女。こうして笑っていれば美少女には違いあるまい。
鳳
まるで飛び石でも渡るように建物から建物へ飛び移る、その化け物のような身体能力は、スタントのいらないアクション女優の大器だともっぱらの評判だ。
「俺はバランス型だからいいんだよ……お前音楽や美術散々だろ」
「あたしはアクション女優になるんだからいーの! 佑こそただの器用貧乏でしょー? 悔しかったらどれか一つでも一位取ってみなさいよ」
「ぐ……」
目を意地悪げに細め、明日火は俺の顔に自分の顔を近づけると、ぷぷっと笑った。
「せめて同じバランス型でも、陽色みたいな絶世の美少年だったらねぇ?」
「はぁ!?」
「佑も決して悪くないけど、なんか没個性っていうかぁ、陽色と並ぶと勇者と村人って感じだよね。名脇役目指せば?」
「おまっ、人が気にしてることを!」
明日火を突き飛ばそうとして、なぜか俺の方が吹き飛ばされた。物理法則どうなってんだ。
バランスを崩した俺に素早く接近し、抱きかかえてくれた明日火の顔が再び至近距離に迫り、俺が礼を言うのもその速度に驚愕するのも待たず、小さな口が耳元に近づけられる。
「ごめんごめん、じょーだん。今日もあたし達に追いつこうとして無茶なルート選んだでしょ? ムキになりすぎてないかなーって、ちょっと心配だっただけ。佑は佑のできることやればいいよ」
パッと体を離され、俺がなにかを言うより早く、「んじゃ先教室行ってるから」と敬礼し、勝手にものすごい速さで校舎の中に入っていってしまう。
「……子ども扱いしやがって」
二着の陽色は既にグラウンドにいなかったのに、まさかあれだけ言うためにアスカはわざわざ俺のことを待っていたのだろうか。
俺と明日火が話していた間にも次々に後続がゴールしてきていたようで、間もなく俺の元に馴染みの友人が駆け寄ってきた。
「おう幹太、舌は大丈夫か?」
「まだいひゃい」
まだ痛いらしい。片頬を手でおさえてしかめ面している、背の低い坊主頭を見下ろして俺はたまらず苦笑した。
「みんな教室戻っていくな。俺たちも行こうぜ」
「絵磨をまひゃなくていいのか?」
「なんで待たなきゃいけないんだよ。たぶんあいつあと十分は帰ってこないぞ」
「はくじょーな彼氏だなぁ」
「うっせ」
渋る幹太を強引に連れて、教室へ戻るべく歩き始めた。
***
俺たち、2年B組芸能科の授業は、全て役者になるために、もっと言えば、役者になるためだけにある。とはいえ各教科ごとに習得するスキルは多岐に渡り、決して生ぬるいものではない。
体育ひとつをとっても、走る、跳ぶ、回る、闘う、運転する……様々なアクションの基礎を理論と実践両面から学ぶ。重要なのは、例えば俺たちは速く走るフォームを学ぶのではなく、最も速く、美しく"見える"走り方を学ぶということ。俺たちが本質的に磨くのは運動能力ではなく、常に表現力、演技力だ。
学ぶのはなにも派手なアクションにとどまらない。ここ数百日の過酷なレッスンを経て、俺たちは"全身"を手足のように操れるようになった。声帯も、表情筋も、涙腺も。今や俺たちは意のままに操ることができる。
他にも、たとえば国語の時間では、物語の多角的な読解力や、脚本から製作の意図を汲み取り演技に昇華する理解力、台詞回しの微妙な変化が及ぼす効果の研究など、これも数え切れないほど多くのことを学ぶ。
音楽も、美術も、数学も理科も社会も英語も。時間割に従って俺たちは毎日、最高の役者になるための勉強を繰り返してきた。実践的な訓練にあたるのは毎日必ず5.6時間目にある「総合」だろうか。
数シーン分の台本が配られ、実際にカメラの前でその通り演技する。カメラマン、監督などの役回りも演者以外で担当し、まさしくクラスのメンバーだけで、ワンシーンの撮影を行うのだ。この時間は本当に楽しくて、同時に死ぬほど緊迫する。
カメラを回した瞬間、別人のようになるクラスメートたちを見るのが、俺はいつも、少しだけ怖い。
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