Chapter.17 - Silent,Silence

 右手側から大きな影が飛び込んできた。影はその速度のまま強い衝撃となって男を弾き飛ばす。振り下ろされた鉄は垂直にそのベクトルを変え、逃げ出すように手から離れてゴミ袋に突き刺さる。

 大きな影は男性――監視の、あの男だ。

『ボディーガードであったなら』

 初対面の印象を思い出すと、片目の開かない情けない笑みが浮かんだ。

 落ちた包丁を左手で拾って立ち上がり、名前も知らない二人の闘いの行方を目に焼き付けるべく、一歩下がって身構えた。



 意外にも先に攻撃を仕掛けたのは監視の男。太い腕をまっすぐ突き出すが、それはバックステップで回避された。ゼインの部下はバックステップの着地からシームレスに低い姿勢へと移行し、一瞬で監視の男の懐に入った。砂袋を叩くような重い音が三回。

 腹と胸で拳を受け止めながらもまるで効いていないと言わんばかりに監視の男は反撃する。押し潰すような前進。勢いのままに肩を掴み、万力のごとき握力にその肩はミシミシと軋む。腕を伸ばせば、掴まれた者の体は軽々と持ち上がった。瞬間、浮いた足がぐんと縮み、ドロップキックに似た攻撃が監視の男の顔を捉える。手を離すもキックは命中し、帽子が落ちる。ゼインの部下は左手一本で着地すると、それを軸として回転し、再びバックステップで距離をとった。

「――ちっ」

 数秒迷ったが、こちらの力量を確認したことから、ゼインの部下は退くことを選択したようだった。



 監視の男が来たこと、そして著しく負傷したことなどから、フォードも安全な市街までの撤退を余儀なくされた。

 病院に行ったが、右手が使い物にならないことはフォード自身が最も理解していた。スラムへ逃げ込むことはもうできないだろう。

 助けてもらったことに関して男に礼を言うと、「仕事のうちです」と短く返された。



 結局その日、メルの家には行かなかった。そもそも詳細な住所を知らなかったし、監視の男とナージュが再会してしまう可能性もあったからだ。

 逃げるためにメルの名前を出しただけだと素直に伝え、パリドル駅前の露店で極彩色の飲み物と焼きたてのパンをいくつか買うと、また汽車に乗って更正施設に戻った。

 包帯まみれの格好では、まともに街歩きもできまい。



 かくして外出の日は終わった。

 残り二日は例の靴を履いて訓練をする予定であったが、フォードの希望により、審議を経て会話指導に変更された。低下した敏捷性はもはや逃走も戦闘も許さない。ハリー議員の建前の通り、会話で命を繋ぐしかないのだ。



 外出の日に逃げ出せなかった場合について深く考えていなかったフォード。

 思えば、メルに会える機会はもう無い。

「そんな顔もするんだね」

 更正施設の職員に言われ、フォードはさらに目を伏せた。



 鈍った体。折れた右手。ゼインの強さ。部下たちの装備。走れない靴。急ごしらえの話術。……考えれば考えるほど勝機が見えない。ハリー議員の言う『屈強な男』の力のほどは確認できたが、それはゼインの捕縛につながってもフォードの救出に役立つものではない。

 

 最後の会話指導が終わると、それからフォードが口を開くことはなかった。







「引き渡しの朝に会えないかしら?」

 モルテンブルク邸。メルがナージュに問う。逃走が失敗に終わったことは、例によってハリー議員からマクリッサ経由で知らされていた。

 ナージュは、フォードに会いに行くことが如何に危険であるかを丁寧に言い聞かせた。

「もしも、フォードと何度も面会していることがゼインに知られていたら、人質として捕らえられるかもしれないんです。少なくともテロを起こすためにスラムの外に出てきている現状、スラムではないから安全とも言い切れない。今やフォードの周辺は常に戦場だと思ってください。いいですか、ハリー議員を信じて、ただ勝利を祈って待つことが最善なんです」

 自らがその『戦場』に危険を承知で包丁を持っていったことについて、ナージュは話していなかった。

 彼女もまた口数が減っていた。



 メルは決して引き渡しを軽く見ているわけではない。それでも、「いやだ」「なんとかして」「一目でも」とわがままを言うのだ。言えば言うほど、無力感が募るばかりだというのに。







 ――そして、運命の日が来た。

 メルはいつでも出られる格好でそわそわと落ち着きのない様子を見せていた。

「お腹空かない? お茶しにいきましょうよ」

「はぁ……ダメです。今日は出ません」

 うろつくメルをリックが追いかける。

「いい天気! お洗濯はしないの?」

「今日はしません」

「メイドのお仕事よ!」

「旦那様の言いつけを守ることも仕事です」

「何度も一緒に街に行ったくせに!」

「…………」

 ナージュは不機嫌そうにそっぽを向いた。どうあっても鍵を開けてはくれないようだ。

 様々なアプローチをしたうえで、閃く。

 隠れよう。息を潜めて、出ていってしまったのだと思わせよう。ナージュはきっと探しに外に出る――扉は開くはずだ。



 メルは自室のベッドの下に潜り込んだ。あとは待つだけ。……そう思っていたが、うまくはいかないようだ。四本足がベッドのそばから離れない。

「リック、あっちいって」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る