Chapter.9 - Normal , Not normal
時折細い路地に入って追っ手を撒きながらフォードは走る。メルは手を引かれ、時に抱き抱えられながらなんとかパリドル駅のすぐ裏まで辿り着いた。
朝の早い時間のため人はまばらだが、おいそれと殺し合いができる場所ではない。
逃げ切った――!
メルは安堵した。しかしフォードは未だ緊張をほどいていなかった。ナイフを握る手は固く、眼光は鋭い。風でがさがさと音を鳴らした茂みに瞬時に反応し、ナイフを向ける。
「フォード? もう、大丈夫だよ?」
「大丈夫じゃない。ここは帽子の奴らが来る」
「帽子の奴ら?」
「街から来たなら見ただろ。たくさん…………」
話している途中でフォードは何かに気づいたようだ。ナイフは握りしめたまま、メルの正面から両肩を抑えた。
「お前はどうやって逃げてきた?」
メルはただ困惑した。『帽子の奴ら』が誰なのか。何から『逃げてきた』のか。分からないので答えようが無い。睨むような眼差しから目を逸らす。すると、遠くに警察官の姿が見えた。
「あっ!」
メルが声を出すと、フォードはバッと体を反転させてメルの意識の先を見る。警察官もその声に反応し、こちらを視界に捉えた。おそらく血まみれのフォードの服に対してだろう、一瞬ぎょっとした表情を浮かべた。そしてこちらへ走ってくる。
「まずい」
フォードはメルの手を引き、警察官とは反対の方向に走り出す。
「フォード? フォード! 待って! どうして逃げるの? ねえ――」
「捕まるからに決まってんだろうが!」
確かにフォードは人を殺めている。捕まるだろう。それでも今は、スラムの住人に見つかるより遥かに良いはずだ。メルは走るのを止めるように腕を引く。すぐに警察官はメル達に追い付いた。
「君……」
警察官の問いかけは、ギュン、とナイフが風を切る音で遮られた。敵意の籠ったナイフが警察官へ真っ直ぐ向く。メルはフォードに抱き抱えられ、懐へ。
「……離しなさい」
腰の警棒に手をかけた警察官がフォードに言う。フォードは無言で睨み続ける。数秒の硬直ののち、警察官は質問をした。
「君はスラムの子か?」
「…………ああ」
短く答えたフォード。
――その直後、メルの体はフォードの腕を離れた。警察官は瞬く間にフォードの顎に警棒の一撃を叩き込み、ナイフを遥か遠くに弾き飛ばし、長い右脚でフォードの首を後ろから刈り取るように、地面に引き倒した。
フォードは、動かなくなった。
昼。気を失ったフォードと共に、メルは駐在所に居た。フォードは駐在所の柱に縄で固く留められていた。
「スラムの子には、こうするしかないんだ」
警察官は、メルに状況の全てを話した。
フォードはスラムで育った。
善悪の区別を教わること無く。
だから街に出れば無自覚のうちに罪を犯す。そして警察に捕まる。
厄介なのは彼がなぜ捕まったのか理解していないことだ。暴力はいけないという概念が、そもそも存在しない。だから『普通に歩いていただけで捕まった』と解釈する。つまり『警察官――帽子の奴らは無条件で自分を捕らえにくる悪者』なのだ。捕まえてから説明しても、法律という物の存在を疑ったり、隙あらば逃げようとする。
「警察官の居ない無法地帯が、彼らにとっては安全な場所なんだ」
メルには心当たりがあった。
フォードが「お前はどうやって逃げてきた?」とメルに訊いたこと。ジークが「外にはもっとやばい奴がいる」と言ったこと。フォードが……顔色ひとつ変えずに人を殺してきたこと。
「常識が違いすぎるのさ」
メルはフォードを見た。顔は血と土でぐしゃぐしゃだ。
「フォードは、これからどうなるの?」
「おそらく更正施設だろうね」
「更正施設?」
「『生き方』を教えるところさ。そこから始めなきゃいけない」
「…………――私も、入れますか」
思わずメルは訊いた。
「? どうして?」
「生き方を知りたい」
警察官はふふっと笑った。
「スラムじゃないんだ、普通に生きてれば学べるよ」
――どうやら私は、普通じゃないみたい。
メルは眉を寄せた。
「お迎えが来たね」
駐在所の前に馬が止まる。別の警察官に手を引かれて降りてきたのは――
「…………ナージュ」
血まみれのフォードを見て驚くナージュ。次にメルを見て、一瞬だけ安堵の表情を浮かべた。そして唇を結び、黙ってメルの前に立つ。
「ごめんなさい……本当に……ごめんなさい……」
「…………」
ナージュはどんなときもうるさいくらいに喋りながらメルに接してきた。だからこそ、この無言がメルにとってとても怖かった。
「…………」
ナージュは何も言わない。メルも頭を上げない。口を開いたのは、警察官だった。
「安心することは後でもできますよ。もし僕に子供がいたら、叱ります」
ナージュは覚悟を決めたように深呼吸した。
「顔を上げてください」
メル様、とは、言わない。
――パァン!
顔を上げたメルの頬に、ナージュの手形がくっきりと浮かんだ。
ここに来てやっと涙を流したメルは、再び「ごめんなさい……ごめんなさい……」と咽ぶように謝った。
「謝るなら、最初から、出ていかないでくださいよ……!」
声は、震えていた。
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