4-2ー③
「近いわ…あっちの方角」
ミリアが権能によって探り出したレイの居場所を指し示す。
その顔に先ほどまで見えなかった憔悴が浮かんでいる。
そんなミリアの焦りを見て取り、血の気の引いたユーナは駆け出した。
「待って!!ユーナ!!」
制止の声が虚しく響く。しかしユーナは止まらない。
止まる筈がないのだ。
恋に落ちた少女がその相手を思う時、その衝動は全身を雷の如く貫く。
そしてその行動は自分の意思では止められない。
ミリアは誰よりもそれをわかっていた。
「くっ…」
呻くようにミリアが声を絞り出す。
そのままユーナを追いかけるように自身も駆け出した。
その進行方向から、何かが裂けるような音と、ズンと言う重たいものが倒れ伏した地響きが聞こえた。
木々の合間からレイの姿が見えてくる。
そのレイが、黒い塊に吹き飛ばされた。
ユーナの目の前が一気に白くなる。
(助けなきゃ!!)
ユーナは全速力で森を駆け抜ける。
まだレイの元に辿り着かない今が、この瞬間がもどかしい。
やっとの思いで森を抜ける。
そこにあったのはウェンカムイがレイを見下ろす光景。
そのウェンカムイが、レイに向かって腕を振り上げた。
ユーナは何も考えられない。恐いと思う余裕さえない。
ただレイを助けなければならないという一念だけが、その胸で高熱を発していた。
無我夢中で抜剣し、振り下ろされたウェンカムイの腕を盾で弾き、そのまま柄尻を振り下ろした。
ウェンカムイが絶叫を上げて後ろに下がる。
すぐさまそのスペースに自分の身体を滑り込ませ、レイを後ろ手に庇う。
闖入者に不覚を取り、あまつさえ手傷を負わされ、森の王者のプライドは酷く傷ついた。
ウェンカムイがその黒瞳を怒りに染め上げ、全身の毛を逆立てる。
そのまま立ち上がると、乱入者に向かい激情の咆哮を叩きつけた。
その咆哮を浴びたとき、ユーナは我に返った。
そして自分の成した出来事に恐れおののいた。
先ほどまで喘いでいたはずの息が詰まった。
身体が強張り、震えが止まらない。
彼女の生存本能が、有らん限りのアラートを鳴らし続ける。
自分の前に居るのは、怒れるウェンカムイ…
その事実に、絶望と呼ぶのも生温いほどの恐怖が膨れ上がった。
銀色の風がウェンカムイの前に立ちはだかり、その身を盾にしてレイを庇ったとき、彼はあの時の姿を重ね合わせた。
それはレイが「あの人」と呼ぶ人物との始まりの記憶。
思わず呟きが漏れた。
「セーラ…さん?」
しかしその呟きは、ウェンカムイの咆哮によってかき消された。
震える
彼は叫んだ。
「ユーナっ!!!!にげ―――」
「逃げろだなんて言わないでっ!!!!」
その声が震えている。
しかし、悲痛なまでの願いのこもった声だった。
その声に気圧されたレイは押し黙る。
「…怖い。恐いよ…レイ…」
その言葉を裏付けるように、振り返った彼女の目尻には涙が浮かび、その膝は立っているのが不思議なほど笑っている。
それでも彼女は前を向く。正面のウェンカムイに目を向け、呑まれそうなほどの恐怖に立ち向かう。
同時にユーナの喉を魂の叫びが突き破った。
「けど…レイが死んじゃうのはもっと恐い!!!!」
思いの全てを込めた言葉はメデル山に轟いた。
呼応するようにウェンカムイが王者の哮りで応える。
眦を決して、ユーナはウェンカムイを強く見据えた。
「わたしは恐い…わたしは弱い…けど…だけど…」
ユーナはウェンカムイの目をみて逸らさない。
怒りを宿したウェンカムイの黒瞳と覚悟を宿したユーナの空色の瞳。
互いの譲れぬ思いを胸に秘め、両者の視線が激しく火花を散らす。
どちらも視線を切らない。切れば相手から逃げたことになり、精神的優位性を取られる。
「どれだけ恐くても…逃げ出せない思いがあるのなら…譲れない思いがあるのならっ!わたしにはできることがあるっっっ!!」
お互いの名乗りを終え、ユーナが構えた。
もうその背中に震えはなかった。
「レイはわたしが守るっ!!!!」
彼女の心に小さな灯火が点る。
それは小さな小さな明かりだった。
しかしその熱量は今まで感じたことのないほど巨大なもの。
その小さな灯火は、彼女を遥かなる高みへと誘う。
「熱い…」
胸の熱量を抑えきれず、ユーナの口から囁きが零れた。
瞬間ユーナがウェンカムイに向かって駆け出した。
レイは彼女が恐怖のあまりパニック行動に出たのだと錯覚した。
立てぬ身体に鞭を打ち、必死に立ち上がろうとする。
傷ついた身体はレイの思いに応えて懸命に反応する。
それでも間に合わない。
迎撃体勢に入ったウェンカムイとユーナが瞬く間に激突した。
ユーナの頭上から大気を叩き割ったかのような轟音が落ちてくる。
ユーナは振り下ろされたウェンカムイの左腕を左に飛び交って交わす。
待ち構えていたように、熊神の右腕が袈裟掛けに振り下ろされた。
抑えればガードを破られ、ユーナは屑肉に成り下がる。
直感的に回避を選択し、ダッキングで潜り込みながらバックラーを頭上に掲げ、その一撃の軌道を変えて逸らす。
金属を引っ掻く不快な擦過音と共に、ユーナのバックラーに深い傷が刻まれた。
「左に飛べっっっ!!!!」
その擦過音に紛れてレイの叫び声がユーナの耳朶を震わせた。
頭上のバックラーの影からユーナの目に入ったのは真っ黒な空。
瞬間的に危機を察したユーナは、レイの言葉に従って大きく左に身を投げるように飛び込んだ。
突如轟音と共に漆黒の空が大地に落ちた。
ウェンカムイの巨体を浴びせる「のしかかり」を回避したユーナは前転して体勢を立て直す。
「まだだっっっ!!!!」
追撃の槍が降ってくる。
その光景を視界の端に捉えたユーナは素早く後方に飛び退くことで回避する。
ウェンカムイが大地に四肢をつき、ゆっくりとユーナに向き直る。
雄々しきその姿を見て、ユーナは自分では太刀打ち出来ないことを改めて悟る。
近距離でののしかかりと牙、中距離での腕、長距離での針の射出。
全ての距離で致命の一撃を有するウェンカムイはまさに戦うために生まれた存在であった。
何よりも驚嘆すべきは、その全ての技を繋ぎ目なく連続して見せたこと。
それはウェンカムイが自身の持っている攻撃手段の射程を正確に把握し、かつ、それをシームレスに繋げられるほど連続技として使い込んでいると言う事実に他ならない。
森の王者に一分の隙も見当たらない。
これほどの強者をユーナは知らない。
どうすればユーナの攻撃がその身に届くのか全くイメージできない。
それでもユーナの譲れぬ思いは揺るがない。
彼女の背中には、今、勇気の翼が生えている。
その翼を駆って、ユーナはウェンカムイに防衛戦を挑む。
ユーナはゆっくりとサークリングを開始する。
対する熊神もユーナと同じように円運動を取る。しばらくの睨み合いの後、両者の足がぴたりと止まった。
再びレイをその背に庇ったユーナは、熊神に向かって盾を構えてレイピアを突き出した。
彼女の心に点った灯火とその背に生えた翼の正体…それには様々な呼び名が存在する。
『明鏡止水の境地』、『無我の境地』、『没我』、『心技体の充足』、『不動心』…
言葉は違えど、数多の武術体系で究極と呼ばれる心理状態の中に彼女は居る。
究極的に言えば、恐怖を乗り越える方法は「慣れる」ことである。
しかしただ慣れるために場数を踏めばいいと言うものではない。
まず第一ステップは恐怖を知り、正しく理解すること。
第二ステップが恐怖に捕らわれた自分を肯定すること。
そして第三ステップ。恐怖に捕らわれた自分に何ができて何が出来ないかを見極め、一歩ずつ着実にできることを増やすこと。
そうやって少しずつ自信を育て、心の平静を保つ術を会得し、長い時間をかけて恐怖を自らの制御下に置いていく。
そしてその先にあるものこそ、先ほど名を上げたような戦う者の精神状態として究極の境地。
この境地に入った者は実力以上のパフォーマンスを発揮する。
それを見て、他人は『神憑った』とか『信じられない』などと口を揃える。
しかしそれはこの状態を正しく理解できていない証左。
その絡繰りの答えは恐怖。
多くの人が忌避し蔑むこの感情こそ、究極の精神状態において絶対に欠くことのできない要素なのだ。
戦闘に限らず、人が最大のパフォーマンスを発揮するためには、集中力と緊張感が必要不可欠である。
その二つを引き出すには、恐怖が最大のエッセンスとなる。
恐怖を内包することで極限まで集中力と緊張感を高めているからこそ、身体が最速で反応を起こし普段以上の実力を発揮する。
しかし恐怖は防衛本能に根ざした感情。そして防衛本能とは生物が生まれながら持っているオートプログラム。そのため単一的な防御行動を最速で起こそうとする。
そのプログラムを自らの意思で断ち切り、状況に合わせた動きを任意に再プログラムし、実行に移すために必要なものこそ磨き抜いた鏡のような冷静さ。何があっても揺るがない鋼の不動心。
相矛盾する二つの感情を内包しなければならないからこそ、この境地に辿り着ける者は一握りである。
普通は果てない研鑽を重ね、少しずつ段階を踏んでその境地に至るものだが、ウェンカムイと言う未だかつてない最凶の脅威と、レイを死なせないと言う断固たる決意のせめぎ合いにより、ユーナは偶発的にこの境地に没入した。
構えたユーナを視界の正面に捉え、ウェンカムイが猛攻を仕掛ける。
対するユーナは不動。
一撃に自身の全てを賭ける。
狙いはもちろんカウンター。
ウェンカムイは怪我の影響を微塵も感じさせず、荒ぶる怒りを推進力に四肢を漕ぐ。
先ほど見せた突進。
全てを薙ぎ倒し、踏み潰すその突撃を正面から見据えるプレッシャーは心臓が潰れるほど凄まじい。
しかしユーナは逃げない。逃げられない。
逃げれば進路上にいるレイに危害が及ぶ。
盾を構えるユーナの手に汗が滲む。
カウンターは経験から予測し、タイミングを見極め、勇気を持って死地に踏み込むことで成立する。
かつて感じたことのないプレッシャー。初めて見る正面からの巨体の突進。
経験も予測もない。
しかし今のユーナには、勇気が、譲れぬ思いだけが胸にある。
勝負は一瞬。
両者が一足の間合いに入った瞬間、ユーナの左足が前に出た。
動物はその構造上視線の向かう方向に力が流れる。
そして力は大きければ大きいほど横からの衝突に弱い。
足を出すと同時に自分の身体を抱きしめるように大きくテイクバックを取ったユーナのバックラーが一閃、裏拳の要領でウェンカムイの左頬に突き刺さった。
まさに乾坤一擲。
自身の体当たりの勢いを利用され、その力をバックラーという小さな的に集約され、しかも全くの無警戒であった視界の外側から決められたユーナの会心のカウンター。
しかし、それでも…
ウェンカムイは揺るがない。
ウェンカムイは鉄壁の防御力と熊譲りの膂力を併せ持ち、さらにはオールレンジで戦えるS級に分類される堕神。
対してユーナは権能を持たぬ一介の人間。
如何に極限の集中力による完璧なカウンターの一撃をめり込ませても、人間如きの腕力でウェンカムイは怯まない。例えそれが不意打ちであったとしても…
自身のエネルギーを逆用されたために頬骨にひびが入ったが、その首は不動。
従ってウェンカムイの視線は真っ直ぐユーナに向いたまま。
そうなると力の激流はユーナに真っ直ぐ向かってくる。
対してユーナは身体が開いた無防備な体勢。
(避けられない!!)
一瞬で状況を察したユーナであったが、最早彼女に為す術はない。
そんなユーナの心に恐怖はなかった。後悔もなかった。ただただ純粋な驚愕だけがそこにはあった。
ユーナの目には死が映っていた。
しかしそれを見ていたレイの目には希望が映っていた。
ユーナの小さな身体がウェンカムイの巨躯に呑み込まれるまさにその瞬間、ドンっという重たい響きと共にウェンカムイの身体が1メートルほど浮き上がった。
突如腹部を襲った鈍重だが業火のように身を焦がす灼熱の衝撃。その衝撃により大地から四肢を離されたウェンカムイはバランスを崩し、ユーナの左側面を通り抜けるように横転した。
「まったく…人の制止も聞かないで飛び出していっちゃうんだから…」
蹴り足を大地に引き戻し、メタルブーツの高い金属音が一つ響いた。
豪奢な金髪を掻き上げて、やれやれという表情でユーナ見る。
「…ミリア…さん?」
死地より救い出されたユーナは呆けた表情のままミリアと視線を合わせる。
そんなユーナの目を見て、一つ短く息を漏らしたミリアは表情を緩め、微笑んだ。
「ユーナ…あなたの覚悟見せて貰いました!」
視線を切るとミリアはウェンカムイに向き直る。
ウェンカムイは唾液を口からこぼしながら、不意の一撃によって痙攣させられた横隔膜を必死に宥め、浅い呼吸を繰り返していた。
「わたしはあれを仕留める。だからユーナ、あなたはレイと…わたしの背中をお願いね」
その言葉がユーナの全身を駆け巡った。
ミリアが自身の背中をユーナに預ける…
それはつまりミリアがユーナを対等なパーティーメンバーとして認めたことに他ならない。
ユーナの心に歓喜が湧き上がる。しかし遅れて緊張感がやってくる。
ミリアは言外にユーナとレイを庇う動きをしないと言ったのだ。
そしてそれはユーナを信頼してくれている証でもある。
そのミリアの信頼に応えねばならない。
「…はいっ!」
短いが堅い決意が刻まれたユーナの声音に、ミリアは一つ頷きを示す。
同時にミリアは両脚のホルスターからスパイクのついた分厚いナックルを取り出し、両の拳にそれを纏った。
そんなミリアを見て、レイは大地に崩れ落ちると、「おせーよ…」と短く零した。
しかしその言葉には、隠そうにも隠しきれない絶対なる信頼感と安心感が滲み出ていた。
死のロンドが、再び始まる。
ウェンカムイと相対するのはアルキメディア軍最強の武人ミリア。
最高のダンサーを迎えて再開される舞踏を喜ぶかのように、谷風が強く吹き抜けた。
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