4-2-②

ユーナがミリアを先導して拠点にたどり着いた時刻は既に昼近く。

ユーナは休む間もなく息を弾ませながら、ミリアの命令により大釜で水を沸かす。

ミリアはミリアで拠点の場所を確認すると再び森に入り、くだんの木の実を摘む作業に入った。

今から体臭消すために沐浴し、再びあの青臭い匂い消しをまとい直す作業が待っている。


沢からバケツで水を掬い、焚き火に設置した大鍋に移し、火にかける。

昨晩から眠れておらず、ここまで走り通しのユーナにとっては、ただそれだけの作業が重労働だ。

全身の筋肉が痙攣し、休ませてほしいと懇願している。

中でも酷使し続けた足の筋肉は、重たい痛みを伴って休息を訴えてくる。

それでもユーナは休む気が起きない。

レイの側へ一刻でも早く駆け戻り、無事を確認しないと安心できない。

本当なら今すぐにでもこのまま森へ入りたいのだ。

しかし精神的に余裕を欠いているユーナにミリアがたしなめた一言が、ユーナの逸る気持ちなだめ、そして自重を促す。

「ユーナ…まずは情報の確認。そして入念な準備。それが結果的に最速の達成に繋がるわ。『いては事を仕損じる』って言うのよ」

(そう…焦ってもいい結果は生まれない。それにレイはきっと無事…)


それでも心配は、想像を悪い方向に膨らませる。

火にかけた大鍋が沸騰するまでの時間、ユーナは最悪の想像を幾度となく頭に思い浮かべていた。


「あら…どうしたの?ユーナ…泣いているの?」

ミリアが両手にいっぱいの緑の木の実を抱えて、火の側に戻ってくる。

ミリアの指摘を受けて我に返ったユーナが目尻を手で拭うと、そこには確かに涙の痕跡があった。

気付かぬうちにユーナは涙を浮かべていたらしい。

ミリアは持っていた木の実を小鍋に投げ込むと、ユーナの隣に座ってゆっくりその肩を抱きかかえた。

「レイが…死んじゃうんじゃないかと思うと…」

しゃくりあげながらたどたどしく話すユーナをミリアは黙って抱きしめる。

ミリアは指揮官としてではなく、母親のような、姉のような微笑を浮かべてユーナに囁いた。

「…あなた、レイのこと好きなのね?」

「…えっ?」

突然のミリアの言葉にユーナは声を失った。

確かにレイを思う気持ちがある。しかしそれは家族や友人と同じ気持ちだと思っていた。

しかしここに来て、ユーナはレイが居なくなることを思うと、胸中が押し潰されそうなほど不安で仕方がないのだ。

そうか…自分はレイを好きなのかも知れない。

まだ実感が沸かないけれど、居なくなったら泣き喚くだけではすまないほど打ちのめされるだろう。

「…どうなんでしょう。かも知れません…」

それでも自信なさげに返答したのは、ユーナの心のうちで、恋をした友人が言っていたような甘いときめきが伴わないからだ。

「あら?泣くほど心配ならてっきり好きなのかと思ったのだけれど…」

「わからないんです…嫌いじゃないけど…胸がドキドキするような…そんな気持ちじゃないので…」

「そう…」

それしきりミリアは押し黙った。


ミリアの分析によると、ユーナは間違いなく恋をしている。

本人は意識していないが、レイとユーナが二人でいる時を見ていると、二匹の子犬がじゃれあっているような微笑ましさを感じる。

その時のユーナは何時にも増してテンションが高い。

加えて目は潤み、桜色に染まる頬を見れば、その胸の奥に恋の甘いときめきが含まれていることは一目瞭然だ。

しかしその時のユーナはレイとじゃれあう楽しさに気を取られ、その奥に芽吹いたときめきに気がついていない。

これは女性として同じ経験を持つミリアだからこそできる想像である。


(レイにもやっと春が来そうね…それもこんな可愛い娘と…)

手塩にかけて育てたレイを思ってくれる人が現れた現実に、ミリアの胸が暖かくなる。

二人はきっとお似合いだろう。

恋人として並んで歩く二人を思うと、ミリアは心の底から湧き上がる微笑ましさをかみ殺すことができそうにない。


それでも…

ミリアは思う。

ユーナがときめきを意識できるようになるまで水を与え、その花を育むのはレイの仕事であって、ミリアの仕事ではない。

二人の仲は二人に任せるべきだ。

だからこれ以上、手助けはしない。


だけど、ちょっとだけ…ちょっかいをかけることは許してもらおう。

少年時代から見守ってきたレイは、ミリアにとって年の離れた弟のような存在。

その弟分が、自分の手から離れる寂しさを紛らわせるためには、少しのイジワルは必要なのだ。

自分のちょっかいは野に咲く花にとっての雨のようなもの。

慈雨となって花の成長を促すことになるはずだ。

そう自分に言い訳したミリアは思考を切り替え、レイに思いを馳せる。

(何にせよ、無事に連れ帰らないとはじまらないわね…まずは…)


ミリアは立ち上がると、沈黙を静かに破って独り言のように呟いた。

「さて、私の可愛い弟くんレイは無事かしら…」

背中の聖痕を白光で満たしながら、ミリアは目を瞑る。

突然の呟きと、権能を使い始めたミリアに驚き、ユーナは面を上げて怪訝そうに上官の行動を見つめる。

「ミリアさん…何を?」

「ちょっと待ってね…今レイの状態を確認してるから」

その返答に大きく目を見開いて、ミリアを見守るユーナ。

背筋を伸ばし、喉から手が出るほど欲しい情報の一端がミリアの口から紡がれるのを待つ。


(無事は無事だけど…これは…ちょっと芳しくないわね…)

白光が収束し、瞑っていた目を開き、ミリアが難しい表情をする。

その表情に不安の色を濃くしたユーナが、レイの安否を尋ねる。

「ミリアさん!レイは…無事なんですか!?」

「無事よ。けど怪我してるみたい。詳しくはわからないけど…」

その言葉は、最悪の事態は避けられたと言う安堵と、負傷してると言う新たな懸念材料をユーナにもたらした。

複雑な顔つきでユーナはため息をつく。

そんなユーナに微苦笑を送ると、ミリアは木の実がいっぱいの小鍋に、焚き火の灰とレイが集めたと思しき粘土を放り込み、大鍋の湯を加えて火にかけた。

「もう少し近付けば詳しい事もわかるわ。とりあえずの無事がわかったから、今は落ち着いて準備を進めることね」


ミリアの一言で現実に引き戻されたユーナは、朝から何も口にしていない現状を思い出し、レイが作り置きしていたマスの薫製を探し出して来てミリアに手渡した。

「あら?ありがとう!」

ミリアの笑顔のお礼を聞きながら、自分の口に薫製を押し込む。

塩分が濃く喉が渇く味だが、走って汗を出し尽くしたユーナの身体は塩分を求めており、彼女は特に何も気にせずにそのまま咀嚼を続ける。

加えて彼女の場合、レイが心配で味がわからないと言う要素も大きい。

一方のミリアは塩辛い薫製を一口かじると顔をしかめ、水筒を取り出し水を口に含んだ。

そんな気もそぞろで慌ただしい食事の合間、落ち着かない気分を紛らわせるために、ユーナはミリアに質問をする。

「ミリアさんは…なんでレイのことわかるんですか?」

ミリアは喉が渇くほど塩辛い薫製を、水で胃に押し流しながらユーナの質問に答えた。

「わたしは、触れた対象にリカバリーポイントを設定できるの。リカバリーポイントって…状態を巻き戻すときの、基準となる時点のことね。レイもユーナにも、毎朝兵舎で別れるときに必ず設定しているわ」

そう言えば、ミリアは必ず朝のどこかのタイミングでレイやユーナに触ってきていた。

ミリア特有のボディタッチかと思っていたが、どうやら彼女の権能に関してのものだったようだ。

「それでね、私がリカバリーポイントをつけた対象の状態は、なんとなくだけどわかるようになるの。距離が離れすぎるとわからないけれど、ある程度近くにいればだいたいのことはわかるようになるわ。状態だけじゃなく居る場所とかもね!」

その言葉を聞いてユーナの脳内に沸き上がったのはヤトノカミとの戦闘の記憶。

「もしかして…ヤトノカミの時…ミリアさんは…」

「ええ。あの時、あの洞窟にあなた達がいることは知ってたから、様子を見に行こうと思って洞窟の近くに居たのよ。そしたら、あなた達二人して、いきなり瀕死になっちゃうじゃない。あの時は本当に焦ったわ…」

そう言って微笑むミリアを見て、ユーナは改めて自分が如何に大切に見守られていたのかを知った。

同時にミリアがどれだけレイを気にかけているのかも…

レイが以前言っていた2年間で10回以上死にかけているという事実は、ミリアが常にレイを死神から守っていた裏返しでもあったのだ。


だからユーナは喉から出かかっている質問を飲み込むことしか出来なかった。

さっきミリアは「私の可愛いレイ・・・・・・・」と口走った。

その響きがユーナの胸に重くのしかかる。

(もしかしたら…ミリアさんも…)

そうだった場合、自分はどうするのだろうか。

レイが誰かのものになると思うと、ユーナの心にさざ波が立つ。

けれど、これが本当に恋なのだろうか…?

仮に恋だとしても、自覚もできないほどの淡い恋が、ミリアに太刀打ちできるのだろうか…?

しかも、ミリアはレイの幼い頃を知っている。

加えて、ここで共に死線を越える経験を幾度も重ねた二人の結びつきは、ユーナの想像もできないほど強いものだろう。

(ミリアさんには…敵わないかな…)

それでも諦められそうにない自分の気持ちに、ユーナは気づきはじめていた。


ユーナの心にリンクするように、大鍋の湯が煮えたぎりはじめた。

それを合図に二人は食事を切り上げて、沐浴の準備に取りかかる。


そんな二人の微妙な胸中をよそに、これからレイの救出とウェンカムイの討伐が始まる。








ウェンカムイは久しぶりに満ち足りた幸福な夢を見た。

それは逃げ惑う人間どもを根絶やしにし、気の赴くままにその肉を貪る夢。

あの味を知ってしまった夜に見るにふさわしい夢であった。

幸福な夢を見た朝は寝覚めが良い。

そして寝覚めが良かった朝は、何もかもがうまく行く最高の一日を約束してくれる。


夢の世界から少しずつ意識を引き剥がし、彼はゆっくりと目を開いた。

既に日は高く昇り、新たなねぐらに薄く陽光が射し込んできている。

彼は立ち上がると軽く身震いし、そのまま薄日に翳すように、漆黒の剛毛を軽く逆立てた。

剛毛が立ち上がることで、朝特有の冷感を伴った空気が、皮膚を直接刺激する。

その心地よさを感じながら、寝起きの呆けた頭をゆっくりと覚醒させる。

まずは昨日狩り残した獲物を狩る。

自らの決意を込めた咆哮が聳えるメデル山に反響し、辺り一帯に轟いた。


(来やがったか…)

対岸から洞窟の外に顔を出したウェンカムイを見たとたん、レイの眠気が急速に晴れていく。

これから始まる死の隠れん坊を前にして、レイの生存本能が刺激され、脳から極度のアドレナリンが放出された。

左手の傷を見る。出血が外に漏れていないことを確認すると、レイは残った右手でホルスターの小瓶を確認した。

小瓶の中のレイの血糊と脳内にある地の利。そして知恵と経験、最後に権能。

手持ちの武器は少ないし左腕は肘から先がない。加えて疲労はピーク、足の状態もすこぶる悪い。しかしこんな状況は今までに幾らでもあった。それを乗り越えて今がある。

今回もできる…いや、乗り切ってみせる!!

ウェンカムイの叩きつけるような咆哮に身震いしながら、レイは己を励ますために無理やり口角を釣り上げた。


ウェンカムイが崖を降り始める。

同時にレイも木から降りる。片腕でバランスが取りづらいが、嘆いてみても始まらない。

崖の頂に立ったレイは慎重に風向きを調べる。

昨夜の山風は既に止み谷風が吹き上げていた。

(風下か…)

レイは眼下のウェンカムイを見下ろし、その様子を観察する。気付かれた様子はない。

疲弊に喘ぐ身体に鞭を打ち、そのまま這うようにウェンカムイに背を向け、移動を開始した。




ウェンカムイは苛立っていた。

今朝はあんなにいい夢を見たのに、目的の獲物レイが全く見つからないその事実に、彼の我慢は限界を迎えそうであった。

太陽は一番高くまで昇り、既に下降をはじめている。

ふと不意に獲物の血の微かな匂いを捉える。

ウェンカムイはその匂いの出所を探るべく、足を向ける。

しかし結果は予想通り。

血が数滴落ちているだけ…

獲物レイの姿は見当たらない。


また空振り…

あの獲物は腕を失うという大怪我を負った。

なのに、どうやって逃げ延びているのだろうか…

そこまで動けるはずはないのだ…


ヒトの知恵を知らないウェンカムイはレイにことごとく裏をかかれていた。

しかし、彼は苛立ちながらも絶対にレイを諦めない。

熊は執着心が強く、一度自分の獲物と定めたものを絶対に諦めない。

ウェンカムイにもその本能が残っている。

じりじりと焼けるような苛立ちに苛まれながらも、レイを食らうべく森の王者がまた鼻を鳴らしてその痕跡を追う。



一方のレイは、ある時はその背後から、ある時はその頭上からウェンカムイの姿を確かめながら身を隠していた。

学び取った熊神の習性、書物から或いは自身の体験から得た自然の法則性、さらに歩き回ることで養われたこの地の土地勘を武器に、レイはウェンカムイを手玉に取り続けていた。

しかしそんなレイの策略にも破綻の気配が忍び寄ってきていた。

それは小瓶の血。

幾度も垂らし、少しずつその量を減らしてきたレイの血が遂に底を突きかけてきたのだ。


レイが今まで安全に尾行できているのは、血の匂いを餌にウェンカムイを誘導して、その行き先をコントロールできているからである。

しかし血ががなくなれば、レイはウェンカムイを誘導できなくなる。そしてこの誘導こそ今回の作戦の要諦。

熊神は本来森の王者。誘導がなくなれば、自身の本能に基づいて森に戻る可能性が高い。

もし今の塒を捨てられ、森に戻られたら、それは作戦の失敗を意味する。一度しか眠らず、レイを追ってたまたま見つけた塒なのだ。その可能性は大いにあり得る。


そして視界の悪い森に戻られてしまったら、レイは遠からず熊神を見失うことになる。そうなると手負いのレイでは熊神を再発見するために動き回ることができない。身を隠し続ける以外選択肢がなくなる。

その結果待っているのは、お互いの居場所をどちらが先に発見できるかという神経を極限まで研ぐような情報戦。しかしそれはレイに余りにも分が悪すぎる勝負。いや、分が悪いどころではなく、勝ち目などない。

熊神の嗅覚による索敵能力は、ヒトの索敵能力をはるかに凌駕する。真綿で首を絞めるようにじりじりと追い詰められ、いずれは捕まるだろう。


では再び血を採取するか。

そうなると、その作業中、レイはウェンカムイから目を離さざるを得ない。

加えてウェンカムイにレイの鮮血の匂いを嗅ぎ取られる恐れまである。

危険度が高い。高すぎる。


しかしもう血はない。レイは決断を迫られている。

やるかやらないか、ではない。

ここに来てやらないという選択肢は有り得ない。

血が無ければレイは熊神の行動を制御できない。

そうなることがわかっている以上、選ぶことはできない。

問題はいつ、どこでやるか…

レイは左腕に目をやり、次いで前を歩く熊神の背中に目を移す。

苛立った様子を見せながらも、熊神は時折鼻を鳴らしレイの痕跡を探す素振りを見せる。

そのたびにギリースーツの奥のレイの額に冷たい汗が浮かぶ。

レイは前方の熊神を強く見据えると、くるりと背を向け、音をたてないように足早に離脱した。



レイが忍び込んだのは、岩礁地帯と森の境目にある大きな木の樹洞。人一人が身を屈めて作業するには十分なスペースを有する。ここならとりあえず身を隠し、作業をする事ができる。

しかしレイは熊神に気を取られ、何時もなら絶対にやらないミスを犯したことに気付いていなかった。

レイは今手負い。そして昨日から一睡もしておらず、体力は底を突きかけている。加えて熊神と神経をすり減らす逃亡戦の真っ最中。これだけの悪条件でレイのミスを責めるのは酷であろう。

しかし弁護は無意味。そんなレイのミスを決して見逃さないからこそ、ここは悪魔の山と呼ばれるのだ。

樹洞、則ち木のうろは、多くの野生動物にとって絶好の住処となる。そしてそれは堕神にも当てはまる。

レイは普段ならばそのことに気を回し、中に先住者がいないか十分に確認を取った上で侵入しただろう。

そして先住者がいないのであれば、なぜ先住者がいないのか十分に考察したであろう。


だが今のレイにそんな余裕はない。目的の樹洞に足を踏み入れた瞬間、レイの踝に粘つく何かが付着した。

その瞬間、レイは己の失策を悟った。ここに先住者はいなかった。それは何故か?

そう…食われたのだ。そしてその先住者を食らった者は、更なる獲物を求めてここに罠を張ったのだ。

その罠は粘つく頑丈な糸。触れれば纏わりついて獲物の動きを拘束し、そして獲物がもがく振動を罠の主へと伝達する。

レイは右手でナイフを引き抜きざま、直ちに右足の拘束を断ち切った。

その瞬間、レイは強烈な力で吹っ飛ばされ、木の虚を貫き、石の大地にその身を投げ出された。

「が…はっ…」

大地に叩きつけられた衝撃で、肺の中の空気を全て叩き出された。

耐えようとして強く踏みしめたはずの右足が、重たい痛みを放って危険を知らせていた。今までの酷使に加えて、無理な荷重をかけたせいで限界が来たらしい。

さらに最悪なことに、今の一撃でレイの左腕から再び出血が始まった。あろう事か止血の処置も破れ、レイの鮮血がゆっくりと大地を彩り始める。

レイの目の前に現れたのは全身を深い緑に染め上げた蜘蛛の堕神『アラーニェ」。

レイは震える足に懸命に力を込めて立ち上がり、ゆっくりとアラーニェと対峙する。

虚を破られ自重を支えきれなくなった巨木が、雷轟のような音を立てて倒れ伏した。


失血か、恐怖か…或いはその両方か…

レイの顔色が死人と見間違うほど白い。

熊神を追跡するにあたって、他の堕神との戦闘は避けねばならない。

その禁を破った代償は、今ここで清算しなければならない。負傷に負傷を重ねたこの体で…

匂いを感じ取るまでもなく、音に異変を察知した熊神の咆哮が背後から響き渡った。



レイの今の状況を絶体絶命と言わずしてなんと呼べばいいのだろうか。

判断、行動…これから先、全てに置いてミスが許されない。一つでもミスをすれば即刻死に直結する。ミスをしなくても生き残れる確率は五分五分。

それでも投げ出すことはできない。最後の最後まで死を恐れて抗うことをユーナに教えたのは、他ならぬレイなのだ。

レイは最も自分が生き残る可能性が高い道筋を瞬時に弾き出す。


迷っている暇はない。右足を庇っている暇もない。左腕が無くともやらねばならない。

切り札である権能を切る。暁闇の光を纏い、一気にアラーニェに向かって駆け出す。

その途端レイの右足からブチっと言う何かが引きちぎれる嫌な音がした。

途端にレイのバランスが崩れる。

激痛に顔を歪めながらレイは残った左足で踏ん張る。

地に額をすり付けるほど身を沈め、限界ギリギリまで足を溜め、一気に解き放つ。

一瞬にしてアラーニェとの距離を食い破り、その勢いのまま女体の腹部にナイフを突き込んだ。

砲弾と化したレイの一撃をその身に受けたアラーニェの胴体は、その衝撃に耐えられず、引きちぎられるようにして吹き飛んだ。

レイも自分の衝撃を殺しきれず、全身で大地を削ることでようやく己の勢いを止める。


「ぐぅっ…あつ…」

全身を擦り傷塗れにしながら、レイは激痛が走る右足を庇うように左足で立ち上がった。

レイの右足に起きた現象は見るまでもない。

筋断裂。酷使し続けた脹ら脛ふくらはぎの筋肉、腓腹筋ひふくきんが完全に千切れたのだ。

最早歩くことも叶わないその足で、レイはそれでも逃走を試みる。

一刻も早く立ち去らねばならないのだ。

少しでも距離を取って止血を施さねばならないのだ。


しかしそれは叶わぬ望みだった。

レイの痛む右足が大地を震わす巨大な振動に呼応する。

呼応して痛みのビートを刻みこむ。

そのビートは早い。早鐘のようなその痛みは巨大な生物の疾駆を伝えるもの。

レイは振り返る。

茶色く煤けた大地の中、砂埃を巻き上げて黒い巨体が迫ってくる。


(…クソっ…)

その姿を見て、レイは覚悟を決めた。

そのまま大地に腰を下ろし右手のナイフに全てを賭ける。

タイミングは食われる寸前。狙う部位はその口内。

己の権能を全て右手に込めて、全力で叩きつける。

しかしこの姿勢では、熊神が生きているレイを食おうとしてくれない限り、その口内に刃は届かない。

もう一か八かの賭けだった。一撃で熊神の命を絶てる可能性があるのはそれしかない。


熊神がレイに迫る。遂に獲物の姿を捉えたウェンカムイの表情は嬉々として歪んでいた。

大地を蹴る足に一層の力を込め、全力で四肢を掻くその姿は、彼の猛りを、そして捕食の喜びを雄弁に表現していた。

今から手を煩わされた怒りを存分にレイにぶつけ、その後に食らう。

その一念に取り付かれている熊神の目には、加虐の喜びが溢れかえっていた。


その目を見たとき、レイは熊神が何をやろうとしているのか悟った。

「…ウソだろ?」

レイは右肘で庇うように顔面をガードし、身を丸め、全身の筋肉に力を込めて衝撃に備えた。




黒い巨大な質量の塊が、座り込んだレイを弾き飛ばした。

まるで機関車が線路上の障害物を弾き飛ばすが如く…




決河の勢いで吹き飛ばされたレイは何度もバウンドを繰り返し、その身を激しく大地に打ちつけた。

その衝撃で、右手にあったナイフはどこかに飛んでいった。

しかし幸か不幸か、弾き飛ばされたダメージは思ったほど大きくはなかった。

右の膝が割れ、右肩が外れて鎖骨が折れ、左腕の切断面が裂け、肋骨が折れたくらいだ。

致命傷ではない。まだ動けるはずだ。

「ち…く…しょう…」

ほら…恨み言を呟けるならまだ大丈夫。立て…立って反撃の準備をしろ…

しかし全身強打の影響で、レイの身体は痙攣したまま動かない。

泰然と歩を進め、悠々と迫り来る熊神をレイは睨み上げた。

睨み上げることしかできなかった。

一方熊神はその背中の剛毛を逆立てて、荒く息を吐きながらレイを見下す。


その姿は正に王。


王が愚民に怒りの鉄槌を下す。

左の腕を大きく振りかぶる。

それは数多の生き物の肉を裂き、骨を砕いた王者の一撃。

レイとウェンカムイの決着の一撃。


両者が見合うこと数瞬…

遂に王者がその手を振り下ろした。







突然、一陣の風が駆け抜けた。

それは銀色の風。

風は振るわれた王者の肘を打ち、その軌道を変え、王者の腕を空中に縫い付ける。

流れるように王者の掌の下に盾が滑り込む。

瞬間、鈍色の雷が王者の手に突き立った。



体毛で覆われていない爪の付け根。

そこは脂肪がなく、加えて指先という神経の集中した場所。

思いもしなかった熊神の弱点。

狙いすました一撃でその一点を穿たれたウェンカムイは、激痛のあまり絶叫を上げた。






ユーナの胡桃割りが熊神に届いた瞬間は、同時に福音がレイに届いた瞬間でもあった。

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