4-2-①
ユーナは宵闇が薄れ、暁闇に染まり始めた空を見上げ、ゆっくりと立ち上がった。朝日が顔を出したら、直ちに走り出せるよう既に準備は整えてある。
昨日レイと別れてから二度ほど、ウェンカムイと思われる咆哮が森から聞こえてきた。その雄叫びを聞く度にユーナの背筋は凍ったが、そのせいかそのお陰か、森にいた堕神の気配が全て消えた。
ユーナは一人膝を抱えて朝を待った。できるだけ早くミリアに火急を告げなければならない。
焚き火の柔らかな光に透かすように、レイから託された地図を眺める。
詳細を頭に叩き込み、実際の風景とルートを思い描く。何度も何度もそれを繰り返す。それ以外のことを考えてしまうと、レイの無事が気にかかり、何も手に付かなくなってしまう。
しかしレイの足止めとユーナの伝令は二つで一つ。両方が成立して初めてウェンカムイの居所の特定となる。
だからユーナはレイへの思慕を断ち切って走らねばならない。
それが彼女が今できることであり、そしてなさねばならないことだ。
取りも直さずレイの生還はユーナにかかっている。
紫の空を切り裂いた赤い矢のような光が、ユーナの頬をオレンジ色に染め上げた。
彼女は赤銅色に燃えた太陽が顔を覗かせ始めたのを見て取ると、眩しい朝日の光に全身に晒して、もう一度己の装備と準備を改める。
ブーツの靴ひもをきつく結ぶと、ユーナは朝の冷たい空気を肺の奥深くまで吸い込んでから大きく吐き出し、ユティナ村へと走り出した。
幸いにしてユーナの出立は平穏だった。足場こそ悪いが、およそ一月レイやミリアに連れられて山道で鍛え上げられたユーナの足腰は、堅調に行程を消化していった。
この沢をもう少し下って行けば、流れが大きくなる。そしてその川縁はクイーンと因縁の対決をした砦の近く。そこまで行ければある程度拓けた場所となり、足場も良くなる。
砦から兵舎までは一時間弱。慣れ親しんだ道であれば道に迷うこともない。
このまま順調に歩を進めればまだ朝方のうちに兵舎に辿り着くことができる…
しかしそれはやはり泡沫の夢。花に嵐の喩えがあるように、この山がユーナ一人という状況を見逃す筈はない。
沢の右岸から左岸へ渡ったユーナは何かを感じて背後を仰ぎ見た。
(見られてる…?)
確信はない。しかし確かに視線を感じた気がした。
ユーナは高速で考える。堕神か、野の獣か…堕神なら闘うか、身を隠して道を急ぐべきか…
ここは木々が生い茂る谷間の沢縁。それ程広くはないとはいえ、それでも身を隠して行軍するには些か無理がある。
では闘うか…
それにしては相手の正体がわからない。ユーナの手に余る相手であった場合、迎撃する事で藪蛇になりかねない。
一瞬迷ったが、今のこの一時がユーナには惜しい。即座に兵舎へと足を向ける。
後方を警戒しつつ、ユーナは沢を駆け下る。しかし数歩進んだところでその足が急に止まった。
(気のせい…じゃない…!)
ユーナは視線を意識せざるを得なくなった。その視線に害意が混じるようになったからだ。
足を止め、反転し、視線方向に面を晒す。ユーナが気づいていることを相手に知らせるためだ。
相手はどう出る?ユーナはレイピアをすらりと抜きはなった。
迎撃体制を整えたユーナへの舐め回すような視線は消えない。しかし視線は感じるが、物音一つ聞こえず、相手がどこにいるか特定はできない。
どうやらユーナの誘いに乗ってくる様子はないようだ。
しかしこの纏わりつくような感覚。ユーナを付け狙うことを諦めた様子ではないらしい。
ユーナは警戒を解くことなく、後ずさりしながら沢を離れ、森の影に紛れ込んだ。相手の視線が木々に遮られ途切れたことを確認すると、納刀して素早くギリースーツを身に纏う。
相手に見つかる前に森深くに浸透していく。急いで兵舎に駆け戻らねばならないが、この相手は危険だ。
今、狩るか、完全に追跡を断念させねば途中で急襲される。
まずは相手の確認。
ユーナは太い樹木を選び、しがみつくように幹に手足をかけ、その樹上へと這い上がった。
そのまま息を殺して相手を待つ。
レイやミリアから授けられた知識を頼りに、ユーナは辺りの違和感を探り出す。しかし、ユーナが気配を絶ったと言うのに、この敵からはアプローチがない。
焦りはおろか、炙り出す様子も、探る気配さえない。害意も消えた。
気配を絶ったのはユーナだけではない。向こうも同じだった。
(まずは、落ち着いて…)
この敵、索敵は目か、耳か、鼻か…あるいは蛇の堕神に見られるピット器官のような熱源か…
視覚、嗅覚はギリースーツで誤魔化せる。音は立てていない。
これは根比べ。焦って不用意な仕掛けを施せば、それこそ相手の思う壺。
先に相手の姿を見つける勝負。
ユーナは猫のように身を伏せ、爛々と眼を輝かせて相手を待った。
沢音に紛れて、枯れ木の折れる乾いた音が響いた気がした。着任当時のユーナならば絶対に気づかなかったろう。それでも今のユーナならばその異音を聞き逃すことはない。
これまでの経験に加えて、今は使命感に燃えるユーナの集中力は極限にまで高められている。
その音は最初は微かだったが、だんだんはっきり聞こえるようになった。
緩やかな歩調に合わせるように、時折枯れ木を踏む音が聞こえる。それで居て時折立ち止まっているのだろうか、しばらく音が聞こえない。
それはまるで山の動物が餌を探すような、自然に溶け込ませた違和感のない足音。
足音は立てないのではなく、紛れ込ませて消す。野生の足音の消し方のお手本そのもののような歩き方だ。
ユーナは足音の聞こえてくる方向に目を釘付けにしていた。
相手は根比べに痺れを切らしたわけではない。慎重にユーナに気取られぬよう足音を隠しながら、それでいて着実にユーナとの距離を詰めてくる。
ユーナが警戒に入ったのを見て、野生の接近術を駆使し、
そして身を潜めたユーナにとって、足音は最も警戒すべき物音。足音がプレッシャーになることを十分に理解しているからこその索敵である。
だからわざと自分から動いて接近を知らせている。
普段のユーナなら隣にレイが居てくれる。しかし、今ユーナは一人。こういう時、どのような決断をすべきか、彼女には圧倒的に経験が足りていない。
それでも彼女はこの一月、レイとともに、時にはミリアとともにこの山に籠もってきた。そこで二人に超一流の技術を見せつけられてきた。
それは戦闘技術を指しているのではない。彼らの武の極みは高い。しかし彼らの狩りは強さだけで押し通るものではない。
二人は自分が確実に仕留められる状況を作り上げ、その上で狩りを行う。砦を使った狩りにしろ、レイのヒット&アウェイにしろ、彼らは戦闘になる前の、あるいは戦闘においても自分の技を仕掛ける前の、自分の有利の取り方が群を抜いて上手いのだ。
それがこの一月で朧気に掴んだユーナなりの『最強』の答えだった。
そんな二人ならば、この状況でどうするか?ユーナは二人を思い浮かべて考える。
ユーナの出した結論は動かないこと。相手のプレッシャーをやり過ごし、兵舎に駆け戻りたい焦燥を押し殺し、このまま相手を見定める。
相手を確定した上で、気づかれなければそのまま撒いて逃走が最善。
それでなければ、急襲して倒してしまうのが次善。
どちらの策を取るにしろ、相手より高い位置を取っている今の現状はメリットがある。
二人ならば絶対にこの選択をする。
ユーナは息を詰めて同時に気持ちを張り詰め、この先に現れるであろう敵を待つ。
枯れ枝を踏む高い音に加えて、木の葉を踏み鳴らす音も聞こえるようになってきた。
やがてユーナの視界に姿を現したのは、黒と見間違うほど濃い群青の体毛を持った成人男性程の大きさの猿。
その猿は、ユーナの隠れている木を見上げ、ニィィィっと犬歯を剥き出しにして嗤ってみせた。
(カクエン…っ!!)
ユーナはギリースーツを脱ぎ捨て、レイピアの鞘を払って飛び降りた。
カクエン相手に、擬態は無意味である。
この堕神は人の思考を『聴く』。『聴心』と呼ばれる固有能力によって、人の脳内の思考を音に聞くことができる。
ユーナの今までの思考は全てこの堕神に筒抜けだった。加えて、その固有能力によってユーナの潜む位置まで見破られていた。
完全にユーナの思考の裏をかかれる形になった以上、このまま堕神を迎え撃つしかない。
歯噛みしながらも、彼女は先日レイに教わったことを反芻していた。
「いいか、ユーナ…お前さんがこの山で一人の時、最も気をつけなきゃいけないのがカクエンっつう堕神だ…」
「カクエン…?」
「そう、カクエン」
レイはそのまま大地に枝で絵を描き始めた。ユーナはもうレイの絵を見ない。絵を見てもイメージが全く掴めないことはすでにユーナも学習済みである。
「そのカクエンって…」
絵を見ずに、レイに問いかけたユーナの口調は固かった。
レイをして最も気をつけるべきと言わしめる堕神だ。自ずとユーナの態度も固くなる。
「ああ…こいつは特殊でな…俺も戦ったことがない。ミリアに聞いた話と、書物で読んだ話だ、全部」
「…ん?」
「ミリアが言うには、型にはまればめちゃくちゃ強いけど、タイマンで戦えば堕神としての戦闘能力はけして高くないんだとさ」
「は…?」
呆気に取られるユーナを後目に、レイは嬉々としてイラストもどきを描く。
「カクエンっつうのは、ヒトの若い女性の前にしか姿を見せないデカい群青色の狒々だ。二足歩行のバカでかい猿を思えばいい。こいつらは雄しかいない。だからヒトの女を犯して孕ませ、子供を産ませる」
「な…なっ…なななっ…」
魚のように口をパクパクさせて素っ頓狂な声を上げるユーナを盗み見て、想像通りの反応に笑いを咬み殺しながらレイは説明を続けた。
「強姦は精神に対する殺傷だって言うけど、こいつらに犯された女性は確実に死ぬ。一人で山に入った女を付け狙い、奇襲を仕掛けて組み敷いて、逃げたり抵抗したりできないように手足を食いちぎってダルマにする。それから犯す。犯された女は確実に身ごもる。んで…一昼夜のうちにカクエンの子供が腹食い破って出てきて、出産完了。こうやってカクエンは種を保存するんだな…」
それを聞いたユーナは顔を白くさせ、絶句した。
「さらにっと…恐るべきことに、こいつらは人の心の声を聴き、そしてその考えを理解する。『聴心』って言う固有能力だ。だからこいつらには罠や策は全然通用しない。尾行や待ち伏せも無理」
「…そんなの勝てっこないじゃない!どうやって戦えばいいのよっ!」
ユーナの怒りの混じった声を聞きながら、彼女の反応が予想通り過ぎて、遂にレイは笑いを堪えられなくなった。イラストもどきの作成をほっぽりだして立ち上がり、高らかに声を上げて笑いだす。
「…何が可笑しいのよ!わたしが犯される想像でもして、楽しんでるわけっ!?わたし絶対いやよ…そんなの絶対いやっ!わたし…は…初めては…好きなひ…」
「初めてがなんだって?」
「う…うるさいっ!!…レイのバカっ!!」
ユーナの繰り出したビンタを寸前でかわし、手で怒れるユーナの頭をポンポンと叩いて宥める。
「…落ち着けよ…お前さん、心が読めたら確実に勝てるとか思ってる?」
「思ってるわよ!てか…普通、心が読めたら勝負にならないじゃない…やろうとしてることが通じないんだからっ!!」
まだ怒りの治まらないユーナの表情を見て、レイはちょっと思案すると、ユーナに向き直った。
「ユーナ…お前さん、現実を知らなすぎる。心が読めたら通用しなくなるのは、駆け引きだ。無策の戦いなら通用する」
「無策の戦い…?なによそれ?」
「瞬間的な反射、瞬間的な思考による戦闘。純粋な力と技のぶつかり合い。ぶっちゃけると1対1のガチンコの殴り合い。お前さん得意だろ?普通に戦えばいいんだ」
「はぁぁぁぁ?なに?レイは私のことバカにしてるの?殴り合いって言っても、かける技が事前にわかったら、相手に対応されちゃうじゃない!」
「いやいや…いいか、ユーナ。やってみようか…」
レイは立ち上がると半身になって、徒手空拳の構えを取った。肘を軽く曲げ左のわき腹を庇うように右手を添える。同時に軽く握り込んだ左手を顎にくっつけるように添える。
右足が前。右利きながら左構えに構えるその姿形はレイ独特の体術の構えだ。
「今から俺が仕掛ける直前にかける技教えるから、お前さん防いでみな!」
「え…ちょっと待って…」
「待たん、いくぞ!右刻み突き」
言うや否や、飛び込みざまにレイの拳がまっすぐユーナの顔面を襲う。
かろうじて両手をクロスさせる形で防いだユーナは、レイの拳の威力を殺しきれず後方に大きく弾かれた。
「…いきなりなにすr…」
「次、右刻み突きから右掛け蹴り、右
レイの宣言通りの技がユーナを襲う。
わかってはいる。しかし、レイの攻撃が滑らか過ぎて、ユーナは対応しきれない。打撃は持ち前の反射神経と防御技術で捌き切ったものの、そのまま体を崩されてレイにきれいに一本背負いで担がれてしまった。
少しは対応できると思ったのに、あっさり担がれてしまった現実。
改めて思い知らされたレイと自分との戦闘能力の決定的な開き。
ユーナの怒りは鳴りを潜め、変わりに水面に薄く広がる薄墨のような失望感が心に湧き上がった。
背負い上げたユーナを投げ落とすことなくゆっくり下ろし、レイは白い歯を見せてニカッと笑った。
「なっ?」
「なにが…なっ!よ…」
両足を地に着けたユーナの不満顔を見て、レイはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「だから…わかってても防げないだろ?って話」
「それは…レイと私では戦闘経験の差が有りすぎるから…」
その答えを聞いたレイは鼻白んだ。
「違う違う!心が読めても、その中身を脳が理解して、筋肉に命じて動きになるまでタイムラグが存在するんだ。だから滑らかに技を繋がれるといくら読めても関係ない」
「…そう言われればそうね。だから反応しきれなかったのね…」
笑顔で頷くレイが続ける。
「だからカクエンには連続技が有効。それともう一つ!お前さんさ、得意技ってあるじゃん?どんなに相手が警戒してても、絶対に決められるって言う技」
「うん…カウンター…かな…」
「なんだ、歯切れが悪いな…胸張って言えよ。胸ないけどさ~…」
「よ…余計なお世話よっ!」
羞恥で顔を赤らめたユーナをからかって一息いれると、レイは説明に戻った。
「とりあえずお前さんは相手が警戒しててもかかる技を持ってる。そういう技ってのは相手の予想を越えた威力や速さを持ってるからかかるんだ。人の思考を音に『聴く』ってことは、要するに伝わるのは技の名前だけで、具体的なイメージが伝わる訳じゃない。だから聴いて、理解して、対応しても、予想以上の技は捌ききることができない」
「だから、得意技と連続技を駆使して戦えばいい…結局は普通に戦えばいいって言うことになるわけね…」
それでも自信なさげに呟くユーナを見て、レイは一つ息を吐くと珍しい言葉をかけた。
「…お前さんの防御技術とカウンターの突きは一級品だ。それだけなら俺より上手い。そこは自信持って良い。カクエン相手でも油断しなければ互角に戦えるさ!」
レイに唐突に褒められて、ユーナの頬に朱が挿した。
心臓が高鳴り、ニヘラっと表情が崩れる。思慕の相手の賞賛は何にもまして嬉しいものだ。
そんなユーナの心の内に気付く様子もなく、レイは心底心外そうに吐き捨てた。
「なに…その表情?俺より上手いけど、俺に通用するとは言ってないからな。そこは勘違いしないように!」
「…なによそれ…確かにあんたには通用しないけど…
「いいね…その負けん気。大好物だ。いつでも掛かってきやがれ。返討ちにしてやるよ…」
獰猛に顔を歪めて見せるレイをユーナも睨みつけた。同時に浴びせるように言葉を叩きつける。
「そのうちね…度肝抜いてやるから覚悟してなさい…」
ユーナは目を閉じ、自分の持てる技術を思い返す。
ユーナの得意な防御からのカウンター。
彼女は幾通りもの防御、そしてそこから繋がるカウンターを習得している。それは彼女が師から叩き込まれ、血のにじむような鍛錬の成果である。
その技のキレは誰にも負けない自信がある。今はレイには通用しないが、磨き抜けば必ずレイの喉元に食い込む予感がある。
そして未だレイやミリアに見せていない、ユーナの切り札。
師匠から『胡桃割り』の名を賜った、ユーナだけのオリジナル。
今までは使う機会こそなかったが、そのうちに使う機会がきっと訪れる。
「わたしは今急いでいるの…だけどあんたはわたしを犯して殺すつもり。逃げればつきまとう。だからわたしは…今からあんたを殺す!」
ユーナの強い言葉を聞いて嘲笑を一層深めた猿の堕神。
ヒトの女は食い物であり慰み者であり、どんなに吠えても自分に届くことはない。
そんな傲慢な考えが浮き出た醜悪なその嗤顔に、ユーナの全身が怒りと怖気で震えた。
人ならざる者が、人を犯すと言うこと。
それはつまりカクエンという種族が、ヒトの女性を弱者として認め、子孫繁栄の道具として見ていることに他ならない。
女性の人格も、強姦に伴う苦痛も、その結果蹂躙される精神性をも全てを置き去りにして…
ユーナはカクエンと言う存在に虫唾が走る。そのカクエンが、今自分を標的にしている。
「わたしを…女をなめるんじゃないわよっ!!」
ユーナは怒りを叩き込むように自分から仕掛けた。
必殺の突きから始まる怒涛の連続技。突き、引き戻しざまにバックラーでのカチ上げ、レイから教わったばかりの右の足払い、左後ろ回し蹴り。
目の前で駒が回るような連続技を見せつけられたらカクエンは、初撃の突きをかわしざま大きく飛び退くことで、距離を取って回避する。
その顔から嘲笑は消え、驚愕の表情がこびりついていた。
「女がか弱いものだと決めつけて…好き勝手に子供を産ませる道具にしか思ってない。あんたを…あんたらを…わたしは許せないっ!!!」
言葉と同時にバックラーの内側に仕込んだ手首のガードをきつく締め直した。そして剣を突き出し、バックラーを顎の前に添え、いつものように構える。
「女がどれだけ強いか…身を以て知るといいわっ!!」
ユーナが吼えた。
朝を迎えたレイは、切断した左腕の苦痛と戦いながら、ウェンカムイの眠る洞穴を見張っていた。
洞穴からはウェンカムイの高鼾が聞こえてくる。まだウェンカムイは夢の中のようだ。
幸いレイの血止めは上手く行き、不必要な出血は抑えられている。
切断した腕の痛みはあるが、それにも脳は慣れてきたようだ。そしてレイは今、その後にやってきた第二の試練と戦っている。
身体が深いダメージを負った場合、負傷直後は激痛との戦いだが、それから数時間経つと、その傷を回復するために身体が休息を求めて猛烈な眠気がやってくる。
加えて昨日からの緊張の連続…
夜一睡も出来なかったレイに睡魔が容赦なく襲ってくる。
(クソ…ねみぃ…)
この手の眠りは寝たら絶対に起きない。文字通り死んだように眠り続ける。幾度の負傷の経験からレイはそのことを学んでいた。
ここで眠る訳には行かないのだ。眠ってしまえば、ウェンカムイを見逃すどころか、逆に発見され、食われる恐れまである。
絶対に眠る訳には行かない。
(早く…ユーナ…頼むぜ…)
睡魔で濁り始めた頭を振って眠気を払いながら、祈るような気持ちでレイはユーナの伝令を思っていた。
距離を取ったカクエンが慎重に足場を選びながら、ゆっくりとユーナの周りをサークリングする。
どうやら先ほどの一撃で、ユーナを侮ることのできない相手と見定めたようだ。
しかしまだ尻尾を巻いて逃げ帰るほど力の差を感じてはいなかったらしい。それ故の戦う選択である。
そんなカクエンの駆け引きに構わず、ユーナはずんずんと距離を詰める。
駆け引きは無意味だ。自分の考えが読まれてしまうから。
それを知っているユーナは、人の攻撃で最も成功率が高い技を選択する。
自分の間合いに入った瞬間、ユーナは大地を強く蹴り、左肩を前にしてその体ごとカクエンにぶつかっていく。
人間の最も成功率が高い攻撃とは、ショルダーチャージ。いわゆる体当たり。
相手に接する面積が大きい分だけダメージ効率は悪いが、その分ショルダーチャージは相手の体勢を崩す効果が大きい。
そして、体勢を崩せると言うことは相手の隙を作り出せることに他ならず、二手目の必殺の一撃に繋がることを意味する。
しかし相手は思考を読む堕神。ユーナの考えはカクエンに読まれていた。
左手でユーナの右肩を抑え、体を入れ替えるように飛び交うことで、その勢いを後方にいなそうとする。
しかしその肩を捕まえる瞬間、突如右手の剣が跳ね上がってきた。
相手を迎撃するその動作は思考を経てのものではない。ユーナが気の遠くなるような反復練習を繰り返すことで習得した、反射と呼ばれる神経連絡である。そこに大脳による思考は介在しない。
突然襲いかかってきたユーナのレイピアの先端を回避するため、伸ばした手を咄嗟に引っ込めるが、その一瞬の攻防の隙に、ユーナの身体がカクエンの懐に潜り込んだ。
胸に来る衝撃を予期し、身体を強ばらせ、大地に両足を踏ん張ったカクエン。
こうなれば体重の軽いユーナの体当たりは万に一つも成功しない。
案の定踏みとどまられ、懐のユーナを抱き留めて捕まえるべく、両の腕がユーナに迫る。
先ほどは驚いたが、今現状、邪魔な剣を振るスペースはない。この間合いは徒手空拳の間合い。
ならば体格が大きく、体重があって、膂力のある
カクエンは勝利を確信した。
『イマ!!』
ユーナの心の叫び声が、高らかにカクエンの脳内に響き渡った。
何がイマなのか…イマから何をするのか…
断片的な情報に気を取られたその途端、カクエンの左手から胡桃の殻を割ったような小気味の良い音が聞こえ、その手指に激痛が迅った。
「ギィィィィィィィィィィィ」
悲痛な叫び声を上げてユーナを突き飛ばし、距離をとって己の左手に起きた状況を確認する。
左手の中指の根元が潰れ、大きく陥没し、折れた骨がのぞいていた。
その骨の周りからは真っ赤な血がこんこんと湧き上がり、大地に滴り落ちている。
何をされたのか、全くわからない。
驚愕の表情をユーナに向けると、彼女は怒りに燃える目で真っ直ぐ射抜いてきた。
「『胡桃割り』って言うの。わたしの得意技」
はっきり声に出されても、胡桃割りというものがなんなのか、さっぱりカクエンにはわからない。
「あんた、わたしの言葉わかるんでしょ?胡桃割りって言うのはね、バックラーで相手の手を抑えて、剣の柄でその手を砕く、対人用の接近戦の技。わたしのオリジナル」
説明しながら、ユーナは距離を真っ直ぐ詰めてくる。ユーナが迫るごとに、痛めた左手を抑え、カクエンが退がる。
「胡桃割りってね、わたしの師匠が名付けてくれたの。道場の連中って男ばっかりだったから…力が弱く、リーチの差で負ける私は、鍔競り合いになって弾き飛ばされると負けちゃう…だからね、鍔競り合いになっても攻撃できるようにしようと思って始めたの」
カクエンは迫るユーナに恐怖を感じ始めていた。得体の知れない技を使うユーナは、最早自分の手に負える相手ではない。
恐怖がユーナからその身を遠ざけようとする。しかし立ち並ぶ木々がその後退を阻む。
背中に巨木の幹の感触を感じたカクエンは、ユーナがここに自分を追い詰めていたことを理解した。
傷を負った動揺に付け込んで話しかけることで、思考を読まれないようにしていたことも…
心理戦と言うカクエンの土俵で、付け入る隙を与えないユーナ。そこには天と地ほど戦力差が存在することを、このときカクエンは思い知らされた。
そしてなによりも恐れるべきは、技の正体を自分から明かしたその事実…
それが指し示すのは、万が一にもしくじらないと言うユーナの絶対の自信。
恐怖からカクエンは遮二無二前に出る。全力で踏み込み、右の拳を叩きつけ、痛めた左手で手刀を叩き込む。
ユーナは木の葉が風に舞うが如く、ひらりひらりと身をかわし、カクエンの破れかぶれの反撃をやり過ごす。
「さっきは見えなかったでしょ?よーく見てなさい。これが胡桃割り!」
来る…
ユーナの思考が流れ込んでくる。狙いは右手。使う技は宣言通りの胡桃割り。
瞬間的に右手を庇う。打ち下ろした右の手を引き戻そうとする。
ユーナは引き戻しに合わせてカクエンの懐に忍び込むと、右肩をカクエンの体に押し付けた。
その体勢のまま、引き戻す腕を阻害すべくバックラーで肘を打ち、カクエンの右手を空中に縫い止める。
同時にバックラーを滑らせて動きの止まった右手の下に土台として設置。
瞬間雷のように素早く、ユーナのレイピアの柄尻が振り下ろされた。
また胡桃が割れたような乾いた音が聞こえて、同時にサルの堕神の絶叫が聞こえた。
わかっていても、読まれていても関係ない。
相手に警戒されていても、それでもなお通用する技を
そしてその得意技とは、何万という反復練習で基本の動きを体に刷り込み、ありとあらゆるシチュエーションで使い込むことで状況における細かい調整を施し、それでようやく自分の物にすることができる。
そんな得意技を仕掛ける際に脳内で起こる思念とは、「決まる」と言う直感的な状況判断のみである。
練習に練習を積み重ね、技が決まる瞬間を直感で嗅ぎ分けられるようになって、初めて自分の技にしたと言える。
そんなユーナの得意技である『胡桃割り』は、
カウンターは負けない戦いには向いているが、勝ちきる戦いには向いていない。
カウンター以外に攻め手がないと、相手が動かない限りこちらも動けないからだ。
従ってどんなカウンター使いであっても、必ず自分から攻めるための技を持っている。
ユーナは基本的に自分からは動かない。
相手の出方を探り、相手の仕掛けを待つ。その仕掛けを持ち前の防御技術で捌いてカウンターを取る。
相手がカウンターを警戒して動いてこない場合、自ら動いてその懐に潜り込む。
捌きの技術を使って相手の防御を掻い潜り、その懐に忍び込んで放ってくるのは痛烈な胡桃割り。
潜り込まれるのを嫌って不用意に仕掛ければ、待っているのは激烈なカウンター。
これが師匠にして「待ちの剣ならユーナの右に出る者はいない」と称されたユーナの剣術の正体である。
しかし胡桃割りには明確な弱点が存在する。
胡桃割りは「手を穿つ」と言うその技の性質上、前肢を大地から離した二足歩行の生物にしか通用しない。
そして、柄撃ちと言う射程の短い打撃である以上、徒手空拳の間合いになければ使うことができない。
ゆえに今までユーナはこの技を使わなかった。
と言うより使うことができなかった。
この技はあくまで対人戦用の技であり、四足歩行のライラプスや、手の代わりに硬い爪を持つツチグモに効果があるとは思えなかったからだ。
そのためカウンター頼みでの戦いしかできなかった。
しかし、カクエンは違う。ヒトと同じ手を持つ二足歩行の堕神であり、それはつまり、対人戦用の技術が生きることを意味する。
そして、胡桃割りの存在を知らないレイは、カウンターしか使わないユーナとカクエンの力量を互角と評した。ならば胡桃割りを解禁したユーナにカクエンが及ばないのは道理。
ユーナが有する、カクエンに対する絶対の自信。その根拠がここにある。
そしてその結果がこの圧倒劇である。
両手を砕かれ、戦う不利を悟ったカクエンは、ユーナに背を向け一目散に逃走をはじめる。
しかしそれを見逃すほどユーナはお人好しではないし、そして彼女は軍人である。
なにより、「レイを救う」と言う使命感に燃える彼女は、躊躇うことなくカクエンに追いすがり、狙い澄ました一突きでその左膝の裏を貫いた。
グゲェェという間抜けな声をあげながらカクエンが大地に転がる。
冷たい視線で見下すユーナを、カクエンが懇願の眼差しで見上げる。
そんな哀願の表情に、一瞬、人としての情が過ぎったユーナに生じた一瞬の隙。
そこを千載一遇の好機ととらえたカクエンが、死力を尽くして飛びかかった。
間一髪それをかわしたユーナ。痛めた足では勢いを殺しきれず、再び大地を転がるカクエン。
万策尽き、這いずるように距離を取るカクエンに無言で近づき、ユーナはレイピアを右の膝に撃ち込んだ。
絶叫がメデル山に木霊した。
「あんたは救えないわね…いいわ。先に地獄で待ってなさい。すぐにあんたの仲間でいっぱいにしてあげるから…」
ユーナは真っ直ぐ首の急所にレイピアを撃ち込んだ。
ミリアとベルサム、フランの奏でる微妙な空気を切り裂いて、玄関からドアを叩き割らんばかりの大きな音が聞こえた。
「ミリアさんっ!!」
同時にユーナの掠れた大声が聞こえてきた。
ミリアが早足で玄関に歩を進めると、荒く息を弾ませるユーナが、両膝に手を突いて下を向いていた。
その様子に只ならぬ気配を感じたミリアがすぐに権能を働かせ、ユーナの体調を巻き戻そうと手を伸ばす。
それを見てユーナは首を振ると、レイから託された地図をミリアに手渡した。
そこには見慣れたミリア本人の書き込みに混じって、レイの血でしたためられた真っ赤な円が一つ書き込まれていた。
「その血の印のところに…レイがウェンカムイを誘き出しています。レイが…ミリアさんを…すぐ呼んでこいって…」
「…わかったわ」
ミリアは振り返り、何事かと後を付いてきていたベルサムとフランに目を配る。
その目を見るなり、変態好々爺も歴戦の将軍の目つきに変わった。
フランの穏やかな表情もまた引き締まり、戦う者の表情へと移り変わる。
「ミリア大佐。後は任された。幸い部隊もいる。安心して行ってきたまえ」
「ありがとうございます、閣下。フランツ大尉もよろしくお願いします」
「万事お任せを、大佐」
軍の幹部が兵舎にいるとは思わなかったユーナが、目を白黒させて狼狽の色を浮かべていると、ミリアから直ちに指示が飛んできた。
「ユーナ!10分で準備します。その後直ちに私をベースまで案内して下さい。そこで戦闘準備を整え、すぐさまレイの救出及びウェンカムイの討伐に入ります。いいですか?」
凛として自信に溢れた声音は、指揮官としてのミリアのもの。
「はい、大佐!」
反射的に背筋を伸ばし、突き動かされるように敬礼と共に大きな声で返事をする。
「よろしい。ユーナ、あなたもできる限り10分で体調を整えて。その後は走り続けることになるからそのつもりで」
「わかりました!」
その返事を背中で聞いて、ミリアは二階へ駆け上がり、自室で装備を纏う。
同時にユーナは上官二人に頭を下げ、足早にキッチンに向かい水を浴びるように飲む。
そんな二人を見て、ベルサムがぽつりと呟いた。
「…新兵とは思えぬ雰囲気がある。一月で新兵をここまで鍛え上げるとは、さすがミリアちゃん…」
「ええ…全くです」
そんな二人の囁くような会話は、87班のメンバーには聞こえなかった。
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