4-1-④


濃い血の匂いが漂ってくるようになった。あのすばしっこい獲物がどうやら傷を負ったようだ。舌なめずりをしながらウェンカムイは考える。

先ほどのバックトラックは直前で気付かれたが、獲物の姿を確認できたことは大きい。小癪なことに姿や匂いを隠していたため、塒近くまで引き込んで様子を探らざるを得なかったが、もはやこの鼻を誤魔化すことはできない。もう匂いは覚えた。

人間は脆い。脆いから助け合う。さっきいたのも二人組。傷を負った一人をいたぶれば、もう一人はどうするか…

助けるために刃向かってくるか…それも良し。まとめて二人食って、ゆっくり奴らの巣を探せばよい。

見捨てて逃げ帰るか…それもまた良し。奴の巣までの案内役となってもらう。

どちらにせよ…良し。新たな塒は人間どもの巣の近くだ。

そのことを思うと熊神は興奮を抑えられない。今から人間を思う存分いたぶり、腹一杯食えるのだ。

まずは前菜として傷ついた獲物を食らう。この匂い、かなりの出血だ。

溢れる唾液が止まらない。加虐への愉悦が、食への期待が咆哮となって口をついた。

この猛りを聞けっ!!そして慄くがいい…もう直ぐお前の下に辿り着く。

血の匂いはどんどん濃くなる。

逸る気持ちを抑え、ことさらゆっくりを心掛け、ウェンカムイは確実に獲物との距離を詰めた。




ユーナは走った。既にレイにかけてもらった権能は解けている。途中何度も足をもつれさせては転び、既に全身泥だらけ。肺が刺すように痛みを訴え、心臓は破裂する寸前まで強く脈打ち、もう限界であると殊更に告げている。

それでもユーナは止まれない。レイは囮として一人で森に残った。そしてレイを救えるのはミリアだけ。そのミリアに火急を知らせることができるのは、今ここにいる自分しかいないのだ。


夜が迫っている。宵闇の帳がだんだんと濃さを増し、薄暗かった森の中は既に視界が悪くなり始めた。完全に日が落ちるまでに森を抜け、ベースにたどり着かねばならない。

レイが言ったように、夜の森は完全に闇が支配する世界。灯りを持たねば、その中を人間が歩くことなどできない。さらにユーナはまだ土地勘がない。地図を見、見える景色を把握しなければさらに迷う危険がある。

しかしその灯りは、堕神から見ればここに人間がいると言うことを教えるようなもの。

暗闇での戦闘で、しかも何体相手にするのかわからない状況で、ユーナが生き延びられる確率は限りなくゼロである。


彼女の胸の中にあるのは使命感…いや、ただレイに死んでほしくないと言う一念。そのためには自分が生きて森を抜け、兵舎にたどり着かなければならない。

彼女は火がついたように熱い全身をさらに燃やして足を動かす。

前へ…一歩でも前へ!

そんな彼女の視界が急に開けた。

そこは見覚えのある川辺。ベースを作った川の上流。右手に今朝水を浴びた淀みが見える。森を抜けたその事実に彼女はほっと胸をなで下ろす。

しかしそれもつかの間。限界まで酷使した足は既に痛み以外の感覚がない。今から足を冷やし、少しでも回復させ、明日に備えなければならない。

日がまた昇れば、ユーナは再び走り出さねばならないのだ。

荒い息を吐きながら、足をもつれさせながら、ユーナは拠点へと辿りつく。


まずは火を起こす。集めておいた薪が煌々と輝き、宵闇を払って辺りを照らし出す。

火のついた薪を川縁に一本投げ落とし、視界を確保して川へと近づく。両膝をついて川の水を手で汲み、喉を鳴らして浴びるように飲んだ。急な冷感に喉が驚き、ユーナはむせたが、それでも無理矢理水を流し込んだ。

身体を内側から冷やしたらブーツを脱いで、川に直接足を突っ込む。走りすぎて足は浮腫んでおり、指には肉刺ができていた。レイほどではないにしろ、足の筋肉も相当ダメージを負っている。

そのまま身体を抱えるように身を丸める。

「レイ…死なないで…」

自らの口からこぼれ落ちた言葉にユーナは気づかなかった。闇がユーナの身体を包み込む。身体が冷え、同時に頭が冷えてくると、今日この場で一人で夜を迎えなければならないことに不安感を覚える。

昨日も不寝番は恐かった。けど今日の恐さはそれとは別の恐さ。レイとこのまま会えないのではないかと言う恐さ。その恐さを思うと、独りでに身体が震えてくる。

「恐くても…やれることをやるしかないのよね…!レイっ!!」

暗い川面に目をやり、水面に映った炎の煌めきを見つめる。その柔らかな炎の光が、ユーナの強い表情を闇に浮かび上がらせた。

ユーナは眦を決して水から足を引き上げると、ブーツを突っかけ、天幕から毛布を引っ張り出した。

毛布を被って火の側に陣取る。

今、レイも戦っているはずだ。この宵闇がレイを守ってくれるはずだ。

ユーナはレイの無事を願い、今から一人で拠点を守る決意を新たにした。



慎重に身を隠しながら、岩礁地帯を目指すレイ。包帯で血止めをし、その上から革帯で傷口を抑え、外気に血の匂いが漏れないように細工をした。その上で小瓶の血を垂らし、自分の位置を少しずつ知らせる。時には真っ直ぐ、時には攪乱するように慎重に風向きを調べながら血を垂らす。

熊神の進行ルートを避け、入念に辺りを警戒して進むため、目的の場所にはなかなか近づけない。

焦燥が少しずつレイの心を蝕む。それでもその気持ちを必死に殺し、遅々としながらも着実に岩礁地帯へと歩みを進めてきた。

辺りは少しずつ暗くなり始めていた。完全に日が暮れれば、レイも動けなくなる。それまでには囮の罠を完成させ、ヤツを岩礁地帯に引っ張り込まなければならない。

ゆっくりと慎重に歩を進め、なんとか岩礁地帯に辿り着いたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。

突如、森の奥から咆哮が聞こえてきた。ヤツの威嚇の声だ。間違いない。

あれは獲物にあえて自分の居場所を教え、夜の闇に紛れてお前を襲うと言うプレッシャーを与えるもの。

「…上等だよ。お前と俺の知恵比べだ…てめぇが匂いだけじゃ飽きたらねぇことくらい、こっちだって十分わかってるんだよ…」

その咆哮に答えるように、レイの口からささやきが漏れる。

レイはその声からおよその距離と位置を割り出す。南の方角。ここから2キロ以内に奴はいる。そしてまだヤツは岩礁地帯に気づいてはいない。レイが零した血の匂いを辿っている最中だ。

レイは崖をゆっくり登り始めた。暗く、足場の狭いその崖をレイは手と足の感覚だけで登る。目的はその中腹にある洞穴のように崖が抉れた場所。熊神が身体を納めるにはちょうど良い大きさで、新しい塒にするには都合がいい。

加えて、熊神を見張るレイとしても好条件。この崖にはその巨体をさえぎる遮蔽物が何もない。反対側の崖から隠れてその姿を観察するには絶好の場所だ。

レイはここへウェンカムイを誘い込むことを決断していた。ここへ誘い込めれば、レイの勝算は大いにある。しかしその勝算への道程は、苦難の道程でもある。犠牲なくして勝利は掴めない。

少しずつ崖を登りきり、転がり込むように洞穴に身を投げ込む。やっとの思いでここまで辿り着いたが、レイはすぐさま起き上がる。時間はない。急がねばならない。

それでも彼は躊躇した。この罠はミリアなくして成功はない。ミリアが明日間に合わなければ、恐らくレイの命もない。全てはユーナにかかっている。

それでもやらねばならない。数回息吹を使って気持ちを調えた後、レイはホルスターから必要な道具を取り出した。


数分の後、奥からレイのくぐもった悲痛な呻き声が聞こえてきた。

やがて彼は脂汗を浮かべながら洞窟から這うように出てきた。

折も良く山からは山風が吹き降ろし始める。これで高台のこの場所から風に乗り、レイの血の匂いは森の隅々まで届く。

彼は左半身を痙攣させながら、処置の痕をみる。血が革袋で留まっており、外には漏れていない。止血も万全だ。


レイはすぐさま崖を下り始めた。ここまでして、ここで熊神に見つかるわけには行かない。うまく力が入らないが、それでも必死で崖を下る。

途中で遠くから地響きがゆっくりと近づいてきた。レイの鼓動が速くなる。今振りまいてきた血の匂いに気づいたに違いない。

焦りの気持ちを抑え込み、着実に一歩一歩崖を下る。どうにか崖下に辿り着いたとき、レイと同じ地面から地響きが鳴っていることに気づいた。

冷や汗でレイの前髪が額に張り付く。音を立てないように慎重にその場から離れ、反対側の崖下まで辿り着いた。

大丈夫、バレてない…バレる筈などない…

そう思っても冷や汗は止まらない。恐怖で胸が冷たい。


…やがてレイから離れた場所で石がこぼれ落ちる音が聞こえた。熊神がレイの罠にかかって崖を登り始めた音だ。

レイは内心で快哉を叫ぶ。これで今晩は生き延びられる。レイは痛みをこらえ、素早く夜の闇に紛れた。



ウェンカムイは崖を登りきり、遂に獲物の血の匂いの充満した洞穴に辿り着いた。この血の量、相当の深手だ。闇の中、危ない道程を通って此処まで来た甲斐があるというもの。

獲物はどんな表情をするだろうか…驚愕か…脅えか…

恐怖に駆られて逃げるか、刃向かうか…

ああ…ああ…

どんな表情も愉悦。どんな行動でも喜悦。

嬲り、いたぶり、虐げ、苦痛の果てに殺す。そしてその血を啜り、臓物を食らい、骨を噛み砕くのだ。

きっときっと…この獲物の血は蜜の如く甘いに違いない。

もうすぐ…もうすぐだ…

ぬたりと笑みを浮かべるように口角を釣り上げ、ウェンカムイは入り口を塞ぐように立ち、一歩大きく中に踏み込んだ。


そこにレイの姿はなかった。代わりにあったのは、血が抜けて白く変色したレイの切断された左腕だった。


ウェンカムイは咆哮を上げた。食えると思った餌がここにはいないと言う事実が、彼の怒りを一気に沸騰させる。その最高の硬度を持つ毛を逆立て、激情を顕にした。

怒りのまま彼は残されたレイの左腕を咬み千切り、骨ごと咀嚼する。しかし彼の怒りは急激に解けた。その肉は、彼が今まで食ってきたどんな肉よりも美味かったのだ。

とろけるような美味を味わうと、彼の逆立った硬毛が通常に戻った。極上の菓子を食べるように両手でレイの左腕を抱え込み、味わうようにゆっくり咀嚼する。

彼は冷静さを取り戻し、思考する。ここでこれだけの深手を負ったのだ。遠くへは行けまい。血の匂いを辿り、朝日を待って安全に仕留めればいい…

それに…楽しみは長く続けば続くほど良いものだ。こんなに美味い肉は食ったことがない。これの住処を見つけて、全てを根絶やしにしてやろう…


レイの左腕を胃の中に収めた彼は、そのまま身体を横たえる。

彼を襲う者など、この森で居るはずがない。それは王者の王者たる自信がなせる技だった。


この時、レイは反対側の崖の頂上で、樹上に身を隠していた。そして熊神の咆哮と、自身の腕のかじられる不気味な音を聞いて、レイの用意した塒にウェンカムイを誘い込めたことを知った。

その左腕を抱え込み、大きな傷の痛みに耐えながら…




レイは遂に堕神ウェンカムイの居場所の特定に成功した。

後はミリアが来るまで気づかれないよう、ウェンカムイを見張り続ければよい。

問題は失血と感染症。早急に処置を施さねば、レイの命の灯火は早々に消える。

全てはユーナにかかっている。ユーナが明日ミリアに伝えてくれれば、レイは助かる。


一方のユーナもまんじりともできず、毛布にくるまって夜の森を見つめ続けていた。

一人で見つめる森の闇は、不気味なほど静かであった。



二人の眠れぬ夜が始まる。

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